4

「座ってて。飲み物を用意するから」


 僕はそう言ったのに、クレンさんは何故だか楽しそうに、準備をする僕の後に

ついてきた。

「飲み物って何?」

「オレンジジュース」

「オレンジジュース?」

「紅茶とか緑茶とか、そんな洒落たものじゃないと嫌だなんて言わないでくれよ。

麦茶ならあるけど」

「大丈夫。好きだから」


 僕は自分の断熱カップと適当に選んだマグカップにオレンジジュースを注ぎ、

「僕は温めるけどクレンさんは……」

 振り返りかけ、硬直した。狭い台所の中で、クレンさんは僕のすぐ後ろに

立っていたからだ。思った以上に、近い。

「温めるの?」

「……どうする?」

「なら、私もで。温めたオレンジジュース、飲んだことないけど……」

「美味しいよ。外が寒いから。……なんでも良いけど、テーブルで待っててくれ。

ここ、狭い」

「はぁい」


 二つのマグカップを窮屈に電子レンジへ押し込み、ゴー、という音と共に

それらが温められるのを眺める。

 眺めながら、考える。これからどうなるんだろう。漠然とした考えではあるが、

これから彼女、クレンさんから話を聞いて……それから? 白の獣だか、赤の人だかなんだか言うあれに対し、僕はどう対処すれば良いんだろう。

(あんなのに巻き込まれるとしたら、ごめんだぞ)

 彼女が投げたりしていた赤い棘。見た目があんなに小さくても、ライフル銃弾も

防ぐケースを破って僕のスマートフォンを壊すくらいのパワーがあった。

 あれをクレンさんは、平然と投げたりしているのだ。

(関わり合いになるべきじゃなかったんじゃ……)


 チン。

 温めが終わった。僕は思考を切られ、電子レンジから二つのカップを取り出す。

 うだうだと考えても仕方ない。今日のところは、彼女を受け入れてしまった。

今から追い返すなんてことは僕にはできない。ならば、相応に相手をするべきだ。


 それに正直を言えば、彼女の話にも興味がある。

 もちろん、巻き込まれることはごめんだ。僕は何の力もない、ただの一高校生。

しかし、そんな僕が知らない世界で、よくわからない敵と戦う女の子がいる……

 そんな秘密めいて奇妙な事実に、興味がないと言えば嘘になる。誰だって、

そういうたぐいの小説をひとつは読んだ事があるんじゃないだろうか。


 事実は小説より奇なり。

 そんな事実に対する野次馬のような好奇心。

 ごくささやかで、不謹慎と言えるものかもしれないが、感情は否定はできない。

 本当に悪いことは、そういう感情を持つことではなく、そういう感情を表に出して相手を傷つけることだと、母さんに教えてもらったことがある。


 他人を傷つけない。それが第一だ。



 来客が来たときにしか使わないお盆を引っ張り出し、二つのマグカップを乗せ、

リビングに戻る。

 昨日夕食を囲んだテーブルについているクレンさんを見て、僕は――

「……!」

 息が止まる思いだった。


 彼女はコートを脱いでいた。それは良い。問題はその下の格好だ。

 グレーのタートルネック。生地も厚くて温かい、アレだ。身体にぴったりと

フィットする、アレだ。身体にぴったりとフィットするそいつは、クレンさんの

衣服の下にぴったりとフィットし、胸の辺りがとても丸く――存在感があった。

 それだけではない。タートルネックの生地の上に、赤いラインが走っている。

スカートと同じ色のその線は、おそらくサスペンダーというやつだ。

 そのサスペンダーも、胸の辺りで曲線的にたわんでいて――存在感があった。

 しかもクレンさんは、全体的にほんのり汗ばんでいる。頬は上記して、括られた

黒髪はたおやかにしなり、うなじには襟足から跳ねた髪の毛が張り付いて――


(……どうなってるんだ!)

 僕はすっかり動揺してしまった。彼女とこれから、正面切って話さなければ

ならないというのか。僕に。中学以来、女の子と一分以上続けて会話をしたことが

ない僕に、彼女と。

 まさかコートの下があんなことになっているなんて思わなかった。クレンさんは

とにかくすらっとした女の子だという印象を抱いていて、まさか、実際はあんな――あんなだったなんて。

 そういえば昨日、夕食を食べた時はどうだった? ……覚えていない。あの時は

とにかく母さんが何を言い出すか、クレンさんが余計なことを言わないかを風邪で

朦朧とした頭で気遣うのに必死だったから、そこまで気が回らなかったのだ。


 僕はもう一度こっそりとクレンさんを見る。

 彼女はぼんやりした様子で頬杖をつき、リビングを見渡していた。僕は急いで

彼女の胸を見た。改めて見ると、格別に大きいという訳ではない……のだろうか?

クラスメイトが読むマンガ雑誌の表紙のグラビアアイドルを思い出してみるが、

あれは水着で、こっちはタートルネックだ。比べようがない。比べようがないが……


(……大した胸じゃない)

 敢えて僕は自分にそのように言い聞かせた。あれはきっと大した胸じゃない。

そういう恰好をしているだけで、特別に大きい訳じゃないのだ。

(だから僕が動揺する必要もない)

 我ながら無理のある論理展開だが、無理を通してでも道理にはご退場いただく。


 僕がこんな気分になっていると彼女に感づかれたら、彼女は気を悪くするだろう。

 それはダメだ。



 僕はリビングに入る。クレンさんが振り向いた。テーブルにマグカップを置く。

「わあ、オレンジジュースから湯気が……」

「うん」

 何だかよく分からない相槌を打ち、僕はマグカップに口をつけた。クレンさんも

同じようにマグカップへ口をつけて、あち、と首を引っ込めた後、口をすぼめて

ふうふうと息を吹きかけ始めた。


 彼女がそうしている様を、僕はじっと見つめる。

(……大丈夫、大丈夫だ。僕はクレンさんの首から上に集中できる)

 そう自分に言い聞かせていたところ、こちらに気付いたクレンさんと目が合う。



「……な、何?」

 彼女は少し恥ずかしそうに首を竦めた。

「熱すぎたかなと思って」

 僕は自然に返せたと思う。

「冷たいオレンジジュース、足そうか?」

「ううん、良い。これから話をするんだし……そうだなあ」


 クレンさんは背もたれに身体を預け、うーんと背筋を伸ばした。自然、胸を張る

ような恰好になる。

 僕はごくごく自然を装って、カップを持って少し横向きになった。



「……『縁喰いえにしぐい』から始めましょう」

「縁を食べて力にするって」

「『白の獣』の場合は、そう。縁、っていうのは、繋がりとか記憶とか、そういう

もの……目に見えない関係性みたいなもの」

「それを、食べる?」

「食べるっていうのは、比喩表現。そういうものを取り込んで、自分の力に……

エネルギーにするのが『縁喰い』の力」

 繋がりや記憶を、エネルギーにする。なんだか分からない話だ。

「『白の獣』は、自分に繋がる縁。つまり、誰かに見られたという記憶も、食べて

しまって、自分のエネルギーにすることができる」


「うーん……」

「……分からない?」

 分からない。分からないが、ただ分からないと言っても仕方ないだろう。

 思うに、彼女が話しているのは物理や化学で言うところの『法則』なのだと思う。だから、それだけ聞いてもピンと来ない。

 普通、そういう時は、合わせて実例を紹介してくれると分かりやすいのだが。

(……これ、クレンさんもあんまり話し慣れてないんだろうな)

 なんとなくそう直感した僕は、こっちから話を誘導することにした。



「……質問するから、それに答えて」

「わ、分かった」

 居住まいを正すクレンさんへ、一つずつ質問を投げかける。

「あの白い六本足の犬も、白の獣?」

「そう。彼らは複数の動物が混ざったような姿を取る」

 最初の夜に見た、羽の生えたヘビみたいにか。


「ってことは、あの犬も縁喰いする?」

「する」

「僕も、縁喰いされる?」

「吹葵くんがされる、っていうより、あの犬と吹葵くんの縁を、食べる」

 縁を食べる。まだよく分からないが、ここは置いておこう。

「そうすると、僕はどうなる?」

「吹葵くんはどうにもならないかな。けれど、吹葵くんはあの犬のことを何もかも

忘れてしまって、あの犬はエネルギーを得る」

「忘れる……」


 僕は考え、さっきのことを思い出す。あんなやつを初めて見た、という僕の言葉に対し、クレンさんは『それは吹葵くんがそう思っているだけ』と返した。

 本当は見たことがあっても、白の獣が縁を食べると、忘れてしまうのか。

「……ああいうやつ。白の獣って、どれくらいいるの?」

 考える僕をじっと見ていたクレンさんに、改めて問う。

「うーん、それなりに……野良犬とか見るよりは全然多い。私は、一日に一度以上

見るかな。それに、あいつらは群れてることも多いから」

「でも、そういうのがニュースや噂になっていないのは、白の獣自身が縁を食べて

しまって、見た人が忘れてしまうから」

「そう!」

 僕が理解したことが嬉しかったのか、クレンさんは声を弾ませる。


 とりあえず白の獣については、分かった。

 次だ。

「クレンさんの赤い奴は……」

「これ?」

 クレンさんは前へ腕を差し出すと、手指を滑らかに踊らせる。するとそこに、

あの小さな赤い棘が生まれた。

「それ。それは……何?」

「赤の武器」

「もうちょっと詳しく」

「うーん……」

 今度はクレンさんが少し考え込んだ。少しずつ語りだす。

「……白の獣は、縁を食べたエネルギーで強い体を作る。一応、銃で撃ったり、

車で轢いたりっていうのを何度も繰り返せば殺せるんだけれど、それよりももっと

効率が良い方法が、この武器」

 どうして殺すのか、というのが気になったが、話を逸らすべきじゃないだろう。

僕は黙って話を聞き続ける。

「赤の武器は、白の獣の体と同じ、縁を食べて得られるエネルギーで作られてる。

だから白の獣にも確実に効果があるし、白の獣と同じように、これを使って縁を

食べることができる。ええと、自分自身のは無理だけど、殺した相手のを……」



「待って」

 話の腰を折るのは得策ではない。

 分かっているが、それを聞いた時、僕は訊かずにはいられなかった。

「僕にあれを投げたのも、僕を殺して、僕の縁を食べるため」

「……あの時はそうだった」

 認めたクレンさんは、気まずそうに目線をマグカップの中へ落とした。

「私と白の獣の戦いを間近で見た人は、例外なく殺す。そうしてきたわ」

「……今までに、どれくらい?」


「…………」

 僕が問うと、クレンさんはまた黙り込む。

「……私と」

 そして、息詰まったような声で言った。

「話してくれる? それを言っても」

 それは、覚悟の声。

 そして覚悟を求める声。


 僕も、横向きで彼女の話を聞いている訳にはいかなさそうだった。

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