第31話 神が抱えた苦悩と焦り


 死に装束を連想させる真っ白な服に、見事なコントラストを描く黒く長い髪。

 そして右手には杖が握られている。直線の柄の先端に魔法石がはめ込まれている代物で、その魔法石は使用者の魔力を増幅させる効果がある物だ。


 女が杖を翳すと、施錠してあった筈の窓がゆっくりと開いた。

 女は素足で、ゆったりと室内へと踏み入れる。


 通常であれば、ベランダに黒髪の女が立っていたら驚く。その上、その女が施錠していた筈の窓から音もなく入ってくれば恐怖であろう。


 だが俺は多少の驚きだけで、その女が入って来るのをじっと見つめていた。

 切れ長の瞳で俺を見つめている、美しい女。この女が何者なのか、俺は良く知っているのだ。


「あら、意外と冷静ね」

「あんたは何時もそんな感じだからな」

「まあそうね。それにしても、しばらく見ない間に女神まで飼い始めたのね。人間の女だけじゃ物足りなかったのかしら?」

「前にも言ったが『飼う』という表現を使うな。で、何の用だ女神ヘステル」


 異能バトルの見学を頼むには打って付けの相手ではあるが、同時に、最も信用の置けない相手でもある。


「冷たいじゃないか神野威」


 杖の先の宝玉が光り、俺は身体の自由を奪われた。

 ゆったりと接近してくる女神ヘステルは、目を細めて言葉を続けた。


「さあ行こう。久しぶりに私の虜になってもらうよ」


 完全に油断していた。

 この世界で力を使うために杖まで持ち込んでくるとは、流石に想定外であった。


「生憎、今日は先約があってな」

「じゃあキャンセルする事ね。あなたに選択権はない」


 怪しげな笑みを浮かべた女神ヘステルの、細くしなやかな指先が俺の心臓へと向けられた。


 女神ヘステル。

 頼み事をすれば大抵は聞いてくれるのだが、出来ればあまり関わり合いを持ちたくない種類の神である。


 神アバルの管轄下に属さない存在であり、神界の中でも神アバルとは遠い存在だそうだ。そんな女神ヘステルに対して神アバルの影響力は遠く及ばず、またその逆も然り。お互いが干渉し合わない距離にある。


「ふふ、いい子」


 身動きの取れない俺の胸に指を沿わせ、妖艶な瞳で俺を見上げる。


「女神ヘステル、今日は随分と強引じゃないか」

「そうよ? 私は自由。あなたにいつ抱かれるかは、私が決める。前もそうだったじゃない」


 かつて、俺はこの女神に篭絡されてしまった過去がある。

 まだこのビジネスを起業したばかりの頃だから、もう七年も前の出来事だ。人間界で女神に篭絡される事の恐ろしさを、嫌という程教えてくれた女神である。

 そして、その頃に何度か関係を持った。

 その全てがこの女神ヘステルの都合であり、篭絡された俺には抗う術もなく、ただただ本能を剥き出しにされては良いように扱われたものだ。


「諦めたんじゃなかったのかよ」

「そう……諦めようと思った。けれどダメだった。あなた以上の男に出会えなかったのよ神野威」

「へえ、何かに焦ってるんだな。話なら聞くぜ」


 俺の言葉に、女神ヘステルの眉が吊りあがった。


「生意気な……!」


 女神ヘステルから異様な殺気があふれ出る。

 二人の間に沈黙が流れた。


 一瞬の空白の間。

 そしてその空白の間を打ち破るようにして、俺と女神ヘステルの直ぐ側の空間に小さな渦が出現した。そしてその渦は、瞬く間に真っ黒い円へと成長。女神ヘステルはその円から飛びのくように距離を取る。


 黒い円から距離を取ろうとした女神ヘステルを追うように、その円の中から一人の少女が飛び出してきた。赤いパーカーに黒いハーフパンツ、白い髪のオッドアイ。

 ヒナが無言のまま女神ヘステルへ向けて右の拳を突き出すと、女神ヘステルはそれを杖で受ける。凄まじい衝撃波が駆け抜け、事務所の机やパーテーションが見事にひっくり返った。


「誰かは興味がない。カミノイに危害を加えるならば殺す」

「イタタ……やるじゃないか。あんた、ただの女神じゃないね」


 その瞬間、俺の身体の拘束が解かれた。


「ヒナ、有難う。でも大丈夫、俺は何ともない」

「そう。なら良かったわ」


 相変わらず無表情のヒナと、冷徹な笑みを浮かべる女神ヘステルが対峙する。

 如何に魔法石を持ち込んだとは言え、女神ヘステルはこの世界では実力を発揮する事が難しい。対してヒナは、この世界でこそ実力を発揮できる。


「土着の神ね。厄介な女神を飼い慣らしているじゃないか」

「だからその表現をやめろと言ったろ」

「不出来な者と呼ばれるよりはマシね」


 ヒナが俺の前に立ち、女神ヘステルとの距離を詰める。


「流石の私もここじゃあ分が悪いね……」

「そう、なら早々に帰る事ね。そして、二度と来ない方がいいわ。このままここにいると死ぬわよ」


 ヒナの台詞が終わるのを待ち、女神ヘステルはペロッと舌を出した。


「ヒナ!」


 俺は咄嗟に前に踏み出して、ヒナを抱えて飛びのく。

 ほぼ同時に小さくも猛々しい雷鳴が響き、先ほどまでヒナが立っていた床が真っ黒に焦げた。引っ込して早速だが、リフォーム業者を呼ばないとだめそうだ。


「あっはっはっは! よく避けたじゃないか。この私の分が悪いわけないだろう? そんな出来損ないの土着神に何が出来るってのさ。早く帰れ? 死ぬことになる? 寝言は寝てから言いなさい!」


 直ぐに反撃に転じると思われたヒナだったが、ゆっくりと体勢を起こして俺を庇うようにしている。

 そして、女神ヘステルに向けて言葉を発した。


「あなたは何か勘違いをしているようね。あなたは死ぬ。でも殺すのは私じゃない」


 刹那、七色の光が床から立ち昇り、突き抜け、そのまま天井へと駆け抜けていった。

 ほんの一瞬前に気付いたのか、女神ヘステルは直撃を避けるように身を捻る事には成功した。だが盛大に吹っ飛んでリビングの床に転がった。木っ端みじんになるような事態にはなっていないものの、ピクリとも動かない。


「おいおい、やり過ぎだろ」


 恐らく、女神ヘステルが殺気を放った事でヒナがそれを探知したのだろう。

 ヒナは時空に穴を開けるか何かをして瞬時にこの部屋に戻り、マンションの外に出ていたルココがあの『エリオラたん改』とかいうバズーカ砲を準備。

 そして、ヒナと対峙して油断している所を狙い撃ちしたわけだ。


 俺は流石に心配になり、女神ヘステルを抱き起す。


「おい、生きてるか?」

「生きてるわよ。この程度、直撃した所で死にやしない。侮らないで」


 だがどう見ても、ボロボロである。


「動けるか?」

「動けるなら動いてる。動けないからこうしているのよ」


 白い服は所々焼け焦げているが、表皮へのダメージは然程なさそうに見える。

 抱きかかえられたまま、女神ヘステルは瞳を俺に向けた。


「身体的ダメージは殆ど無いから心配は無用よ。けれど魔力を限界以下まで使い切った。少し休ませてもらってもいいかしら」

「ああ。そうしよう」


 俺はそのまま女神ヘステルを抱きかかえて自室へと向かい、先ほど搬入された新品のベッドへと下す。


「悪かったな、うちの連中がやり過ぎた」

「私が油断しただけ。確かになかなかの破壊力だったわ。けど……神野威にこうして貰ってるから、寧ろ儲けものね」


 実力を発揮する事が難しいとは言え、神アバルに匹敵する存在だ。

 いくらルココのバズーカ砲が強烈だとは言え、不自然な程に消耗している。そして、抱きかかえていて感じたのだが、妙に体温が低い気がしてならない。


「なあヘステル、教えてくれないか。何に焦っているのかを」

「こうしていると、数年前に戻ったようね神野威。あんたは篭絡されていても優しかった。あんただけさ……本能を剥き出しにしてやったってのに、優しさを残してくれた男は、あんただけだったよ」


 言いながら、切れ長の目じりから涙が伝い落ちる。


「おいヘステル、どうしたんだよ」


 俺の言葉に、女神ヘステルの口がへの字に曲がり、更に大粒の涙を零し、胸の奥底から絞り出すように、震えた声で告げた。


「死にたくない……消えたくない。神野威、私は消えたくない」


 僅かに動いた右手で俺の袖を掴み、いつになく弱気な表情を見せる。


「何があった」

「ごめんなさいね。あなたにこんな事を言っても仕方がないのに」


 俺の腕の中で、涙ながらに言葉を続ける。


「私、失敗したの。それだけよ。バッドエンドを迎えてしまった……ただそれだけ。間抜けよね」


 俺は女神ヘステルの肩を強く抱いた。


「諦めんなよ、らしくない。物語の終わりを決めるのは担当女神だろ? バッドエンドで終わらせるな。続けよう、まだ終わっちゃいない」


 嗚咽を漏らし始めた女神ヘステルを、しっかりと抱きしめて言葉を続ける。


「もう人間を呼ぶ力もないんだろ? だったら俺が行く」

「いいのかい? 今の私じゃあ、命の保障もしてやれないよ?」

「ああ。これでも一応は、色々と知らない仲じゃないしな。流石に消えられたとあっちゃあ目覚めが悪い」

「よく言う。あなたは優しいから駄目なんだ」


 動くようになったのか、その身体を起こして俺の背中に手を回す。


「すまない神野威。ありがとう」

「ああ。今は休め」


 ゆっくりと身体を解放し、女神ヘステルから離れる。

 気を失うように眠りについた女神ヘステルの美しい寝顔を見つめながら、俺は小さな覚悟を胸に秘めた。


 どうやら、異世界へ行く事になりそうだ。

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