ブラームスのセッティングは夜を徹して行われた。

 あらかじめ作成したセッティング表をもとに、椅子の数を合わせ、並べていく。今までの記憶を総動員して、前の演奏者と指揮者が重ならないように並べ、譜面台の高さも座る団員の好みに合わせる。今回ばかりは中途半端にするわけにはいかない。リハーサルがないために、たとえ演奏者のセッティングの好みが合っていなくてもそのまま本番を迎えなけらばならない。そうなっては、最高の演奏を成し遂げることは叶わない。

 慎重に慎重を重ねてセッティングを創っては壊し、作っては壊しを繰り返す。一箇所椅子の配置をずらすと連鎖的に他の場所も変えなくてはならなくなり、最後には破綻をきたす。また最初から並べ直していく。

 最善ではなく、最高を。そう自分に言い聞かせながら透は椅子を並べていく。

 この作業も、いたって創造的な営みだということに透は気がつく。ただ漫然と椅子を並べているだけではない。考察して、否定して、再考して、破壊して、創造する。創ったものを壊して、また創り直す作業を創造的な営みと言わずになんと言うのか。この作業も音楽の一環であり、すでに音楽の予感が立ち込めている。そう思うと、透の体がふわりと軽くなる。

 ようやく椅子と譜面台の配置がすべて決まったのが午前三時四十分。作業開始からすでに三時間が経過していた。しかし、透に休んでいる暇はない。次は「黒い怪物」をこの舞台の上に召喚しなければならない。

 透は舞台袖に向かい、そこに控えていた怪物を迎えに行く。運搬車に乗せられ、布によって覆い隠されている怪物は、じっと黙ったまま透が迎えにくるのを待っていた。決して怪物自身の意志で歌うことはない。誰かが鍵盤を叩かなければ音楽を奏でることはできない。透もピアノがなければ音楽を奏でることはできない。共依存、そんな言葉が頭に響く。

「行こう」

 透はそう言ってピアノに手をかけてぐい、と舞台に向けて押し出す。運搬車のおかげでスムーズにピアノは舞台に向かって動き始める。透は慎重にピアノを移動させ、舞台袖から照明が降り注ぐ舞台へと向かう。

 舞台から客席へとピアノが落下しないように、ゆっくり調整をしながら動かしていく。時には後ろから押したり、前から引っ張ったりして徐々に舞台の中心へと近づいていく。

 近づいたのはいいものの、ここからの微調整が難しい。ピアノ奏者、つまり自分と指揮者である横溝との位置関係を注意したり、ピアノの響きを調整するためにもピアノの向きは神経を使って調整をしなければならない。

 どうにか舞台の中心まで運ぶと、数センチ単位での調整が始まる。ぐいぐい、とピアノを押し、少しだけ向きを変える。向きを変えすぎたら引っ張ってもとの場所に戻す。そしてだいたいの位置が決まったと思ったら透は客席に走り、オケ全体とピアノの位置のバランスを見る。

 少しピアノが上手側に寄っている。透はまた駆け出し、舞台へと向かう。ピアノを下手側に数十センチ分移動させ、それに合わせて向きも調整をする。確定したら客席へと向かい、また調整が必要な部分を見つける。

 今回は客席に座る観客は桃香一人である。しかし、透にとってはいつものコンサートと変わらず、どの席に座っても満足して音楽を味わうことができるようなセッティングを心がける。そうしなければ、たった一人の聴衆にもよろこんでもらえるはずがない。

 椅子のセッティングと同じように、何度も何度もピアノと客席の間を行ったり来たりを繰り返す。一階席の視点からは合格点が出ても、二回席の視点から満足のいく景色が見えなければまた再考を余儀なくされる。ピアノの位置を変え、客席を何箇所も移動しながら、納得のいかない点があればまたピアノの位置を変えて、客席を練り歩く。これも、リハーサルができないのでやり直しがきかない。未練を抱えたままでは五十分にも及ぶ協奏曲を最後まで集中して弾くことはできない。

 腕時計を見るとすでに午前五時を指していた。客席からのピアノの位置は決まったように見える。しかし、この席では正しく見えても、隣の席に移動すれば間違って見えるかもしれない。隣では良く見えても、その隣の席では違って見えるかもしれない。そうやってすべての席から確認をしていたら絶対時間が足りない。

 透は心に湧き上がってくる恐怖心と対話しながら、「これでいい」と何度も呟く。これが、自分が今できる最高の仕事だ、これ以上のものは今の自分では作ることはできない。呪文のように何度も口に出しながら、舞台へと向かう。

 舞台へ戻ると、ピアノ椅子をピアノの前に置き、高さを調整する。

 そして、ピアノに覆い被さっていた布をゆっくりと剥がす。

 光沢を帯びたピアノが姿を表す。

 いつもであれば、その光沢は他のピアニストのためにある。艶やかなピアノの肌にはステージマネージャーである透の顔ではなく、ピアニストの顔が反射して写る。

 しかし、今日は違う。

 このピアノは透のためにあり、透の顔をくっきりと写している。

 ピアノの蓋を開け、鍵盤を覆っていた布も取り払う。

 まさか、こんなかたちで自分がリヒテスホールでピアノを弾くことになるとは透も思っていなかった。

 日本屈指のコンサートホールであるリヒテスホール。高校生のときから憧れていた舞台。そして、一度は完全に諦めた舞台。そこに透は、立とうとしている。

 自腹でレンタルをしているのだから舞台の上に立てるのは至極当然の話なのだが、それでも、ステージマネージャーの仕事に就いていなければ「リヒテスホールを自分で借りてコンサートを開く」という発想が絶対に出て来なかったはずだ、と透は確信する。

 透はピアノ椅子に腰掛け、鍵盤にそっと両手を添える。

 自然と手が動く。ゆったりとした旋律が生まれる。

 ショパン、エチュード十番の三。日本では「別れの曲」と呼ばれ、多くの人に親しまれる曲。

 一つ一つの音が粒となってホール内に拡散し、反射し、そして音楽となる。

 透は弾きながら、なぜよりによってこの曲だったんだろう、と自分で自分がおかしくなる。これから演奏するブラームスでもなく、そしてプロポーズの直前に演奏する曲目としては極めて不適当な邦題。しかし、手が自然に動き、「別れの曲」を奏でる。徹夜の作業によって正常な判断能力が欠如し始めたか、と透は思う。そして、曲が進むにつれて、顔も綻び始める。

 自分で演奏をしてみて、このホールの素晴らしさを再確認する。これまでの人生の中で、リヒテスホールでの演奏を舞台上で聴いたことはない。リハーサル時に舞台上に上がることもあるが、そのときはステージマネージャーとしてのスイッチが入っているため、悦に浸ることは少ない。ホールの中を飛び交った音がまた舞台に集結し、透の耳に届く。

 ホールの中心。この場所にはホールの中でもただ一人しか座ることはできない。

 今日限りの、今日だけの場所。

 今日が終われば、また自分はステージマネージャーとして働き始める。

 この場所との別れを予感して、自然とこの曲を演奏したのかもしれない。透はそう考えながら、ショパンの演奏を続ける。

 最終部になり主題へと回帰し、旋律は一度頂まで登ったあと、ゆっくりと、ゆっくりと消えていく。旋律はホールに別れを告げて、また静寂が戻る。

 透は目を閉じ、その静寂を味わう。

 自分の旋律によって作り出した静寂。いつもは自分ではない他者が作り出した静寂に浸るのが常だが、今日だけは違う。

 その静寂を破るように、下手の舞台袖から拍手が聴こえた。

 透は目を開けて、振り返ると拍手をしながら舞台に入ってくる秦がいた。

「お前、このあとプロポーズするっていうのになんて曲弾いてるんだよ」

 秦は笑いながら言う。

「随分早いじゃないか」

「長年の友人の大舞台だからな。いてもたってもいられなかったんだよ」

 秦は椅子の間を縫いながら歩き、ファゴットの席へと向かう。

「久々に聴いたよ、透のピアノ。もう大学四年以来か」

「どうだった?」

「まぁブランクを感じさせるのは否めないけど、元が元だからな。ホールに負けてない演奏だと思う」

「ありがとう」

「ただ、うちの堂々とオケと戦えるかどうかはわからないけどな」

 秦は得意げな表情で言う。秦はゆったりとした動作で足を組む。

 協奏曲はせめぎ合いの中で生まれる音楽だ。

 どちらかがどちらかを打ち負かしてしまえば、偉大な演奏は生まれない。拮抗した力関係の中で、戦いながら弁証法的に音楽を生み出していく。

「強いぞ、うちのオーケストラは」

 秦は言う。

「このオケが強いことは、誰よりも知ってるよ。痛いほどね」

 誰よりもこのオケを愛し、このオケに尽くしたいと思っているのは自分だという大きな自負が透にはあった。この演奏会は、メトロポリタン・フィルに対する恩返しでもある。

「でもまさか、こうして透と同じ舞台に立てるとは思ってなかった」

「僕もだよ。こんな日が来るなんて」

「良い一日にしよう」

「あぁ」

 秦と透は視線を交わし、言葉を交わす。

 見慣れた風景、でも、色褪せない風景。

 降り注ぐ照明が、秦を照らす。

 透には、秦の瞳に写る光がゆらゆらと揺れているように見えたが、その事実は言わないでおいた。

 開演まで、あと四時間半。

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