二月になり「本番」まで残された時間は一ケ月半。

 仕事終わりに時々実家に帰っては防音室に籠ってピアノの練習に明け暮れていた。最初の頃は様々な作曲家の曲を弾いていたが、今ではブラームスのピアノ協奏曲だけを繰り返り繰り返し弾いていた。

 他の作曲家は譜面を見ずに弾いていたが、ピアノ協奏曲に対峙するにあたっては自分の部屋から当時使っていた譜面を引っ張り出して読み返した。

 その譜面はもちろん透が十和田湖のコンクールを受けるときに使用したものだったが、購入したのは中学二年生のときであり、十年近く使い込んだ形跡がいたるところに残っていた。鉛筆の書き込みがあり、その上にもまた書き込みがあり、そのまた上に…と地層のように文字が折り重なっている。苦闘の証。交響曲第一番を作るのに二十年かけたブラームスのように、透も、このピアノ協奏曲をちょうど二十年という時間をかけて完成させようとしている。そう思うと、そこに並んでいる過去の透が書き遺した文字が愛おしく見えた。

 実家でピアノをたっぷり弾いたあとはまたリヒテスホールに赴き、コンサートの運営に明け暮れる。ピアノを一晩中弾いたあとの頭はそれまで奏でた旋律とその日見つかった課題でいっぱいになっている。電車に乗って六本木に向かっているときも頭の中にはブラームスががんがんに鳴り響き、いつも同じ場所で同じミスをして旋律が止まる。目を閉じてしまうと頭に鍵盤が浮かんでしまい、指の動きを何度も何度も確認してしまうため、迂闊に眠ることもできない。自分の中に溢れている旋律と格闘しながら出勤し、頭をどうにか切り替えてステージマネージャーとしての仕事を始める。コンサートは待ってくれない。

 その日のコンサートは海外のヴァイオリニストを招聘して、グラズノフのヴァイオリン協奏曲を演奏し、メインプログラムがニールセンの交響曲第四番「不滅」となっていた。

 ニールセンの「不滅」は二組のティンパニが特徴的な動きをするため、セッティングの際にはティンパニの配置に気をつけなければならなかった。うるさすぎてもオーケストラと音が混ざり合わないし、かといって小さすぎてもアクセントがなさすぎて薄い演奏になってしまう。リハーサルをしながら微調整をして、どうにか二組設置することができた。

 開演時間の十五分前になり、楽団員が舞台裏に集まる。すると、その列の後方から楽団員ではない女性が透に歩み寄ってくる。楽団員ではないが、透には見覚えのある顔だった。

「八重樫さん、お久しぶり」

 屈託のない笑顔、口元から覗く透き通るように白い歯、ぴんと伸びた背筋。

 墨田淑子は透の目の前で立ち止まり、がっちり握手をする。

「ごめんなさい、驚かせちゃって」

 鳩が豆鉄砲を食ったような透の顔を見て、淑子は慌てて言う。そして、舞台袖で本番を待ちかまえているヴァイオリニストの方に目配せをする。

「彼女、私の大親友なの。ベルリン留学時代のルームメイトでね。久々に日本でライブするっていうから来ちゃったの。それで、共演の相手がメトロポリタンだって聞いて、八重樫さんに一言ご挨拶にって思って」

 さすがに舞台袖では淑子も声をひそめて話す。

 透が目を見開くくらいの表情になってしまったのは、もちろん訪問があまりにも突然だったから、というのもあるが、やはり「あの日」に見た光景がすぐに頭に過ってしまったからだ。

 墨田幹弥、淑子夫妻の、楽屋での表情。

 ステージマネージャーとして様々な音楽家の舞台袖での顔を見てきた透にとってもあの二人の印象は強烈に残っていた。

「それで、頼みごとがあるんだけど」

 淑子は透の耳元で囁く。

「なんでしょう」

「ニールセンの時間、ちょっとだけ話せる? 指揮者の楽屋でもいいから、ちょっとだけ時間があれば」

 透は一瞬返答に困ったが、小さく頷いた。

「ありがとう。じゃあ、グラズノフが終わったらお願いね」

 そう言って淑子は透から離れていった。

 開演時刻になり、楽団員、指揮者、ソリストを舞台に送り出す。淑子は舞台袖の隅にある椅子に腰かけ、舞台から流れてくるグラズノフの朗らかな旋律に耳を傾け、時折体で小さくリズムを取っていた。普段会話をしているときと音楽に触れているときの顔があまりにもかけ離れていて透は驚く。自分が演奏していないときであっても、これだけ集中力を高められるのか、と感心する。

 無事にグラズノフが終了し、ソリストたちが舞台から戻ってくる。カーテンコールを数回行って、セッティング替えに入る。透は暗くなった舞台に出てシミュレーション通りに椅子と譜面台の位置を変える。照明がない中でのセッティングなので集中力を高めなければ思うような位置に椅子を置くことができない。目を凝らして、速やかに椅子の位置を変え、また舞台袖に戻る。

 仕事をしているときにはブラームスは頭の中には蔓延らないのが透にとっては救いだった。

 メインに向けて、楽団員を送り出す。そして指揮者を送り出し、演奏がスタートする。

 そこまで見届けると、透は淑子が腰かけていた椅子の方を見る。すると、淑子も透をじっと見ていた。

 透は指揮者の楽屋へと向かうと、淑子も立ち上がって歩き始める。透は扉を開け、先に淑子を楽屋の中に入れ、あとから自分も楽屋へと入る。

「大したことじゃないの。大したことじゃないけど、一言言っておきたくて」

 淑子は脱いだコートとバッグを傍らに置いてソファに腰掛ける。透は定位置通り、扉の近くに佇む。

「青森のことを、きちんと謝っておきたくて」

 いつも快活な笑顔を浮かべている淑子は少し視線を伏せて、悲しげな表情を浮かべる。

「いや、別に謝っていただくようなことではないですよ。もう随分前の話ですし」

「そんなことない。プロとして、やっぱりあの場所であんな話をするべきではなかった。本当にごめんなさい」

 淑子は深く頭を下げた。

「八重樫さんも驚いたと思うの。一応、私たちは世間的にはおしどり夫婦として通っているし、他の人がいる前ではちゃんと繕わないといけないとは思ってたんだけど、夫の配慮が足りなかったわ」

 淑子は俯きながら話す。

「八重樫さんの目には、私たち夫婦はどのように映ったのかしら」

 淑子の言葉によって、また「あの日」の風景がよみがえる。

 凍てついた幹弥の声、凍てついた淑子の表情、凍てついた楽屋の空気。

 あの楽屋には音楽の気配は一切感じることができなかった。空気は対流せずにすべて床に向かって沈殿していくような重さがあり、透は体を動かすことはおろか、口を開くことさえもできなかった。

 ステージマネージャーとしてあの場で何をすればよかったのか、ということは今でもわからない。

「あんな夫だけど、あれはあれで私のことを愛してくれているの」

 淑子は少し表情を柔らかくして言う。

「もちろん、仮面夫婦というか営業夫婦だし、本当の意味では夫婦とは言えないかもしれない。でもね、多分共依存状態になっていると思うの」

「共依存、ですか」

「そう。私たちはどちらかを欠くことはできない。夫は私を罵倒し、上に立つことで自尊心を保っている。それくらい夫は追い詰められてるっていうことは私にはわかる」

 佐川の表情が浮かぶ。

 追い詰められた音楽家の表情。自分の指を砕いてくれと懇願した表情。

 音楽家は、どこかで追い詰められながら創作を行っている。

 幹弥も、その例外ではないということなのかと透は思う。

「私は私で、そうして罵倒されることで夫の精神状態を安定させていると思っている。私がいないと夫は音楽家としての自尊心を保つことはできない。そう思って、夫の言葉を受け入れてる。そんな風に、私たち夫婦はできているの」

 あの凍てついた表情には、そんな想いが隠されていたなんて。

「強がりに聞こえるかもしれないけど、あれはあれで夫婦の絆って言えるのかもしれない。幸せって言葉からはかけ離れてるかもしれないけど、そんじょそこらの夫婦よりも、繋がりは強いと思ってる」

 透は、桃香の顔を想い浮かべる。

 桃香と家族になろうとしているが、自分たちはどんな夫婦になるのだろうか。

 自分と桃香を繋げるものは一体なんなのだろうか。それは果たして、幸せなのか。

「絆って漢字はもともとほだしって読むのよね。意味は、自由を妨げるもの。私たち夫婦にぴったりの言葉。お互いをぐるぐるに縛り付けて、どこにも行けないようにして、そしてずっと一緒にいる。確かに、ある一面から言えば不幸かもしれないけど、私たちはそうやって繋がって生きていくしかない」

 自分と桃香が何を媒介にして繋がっているかなんて今まで深く考えたことがなかった、と透は自省する。もちろん、考えなくてもいいことであると言ってしまえばそれまでだ。桃香が隣にいてくれる、という当たり前のことは当たり前のこととして享受するべきかもしれない。

 しかし、それは当たり前ではないのかもしれない。この目の前の女性のように、強制的に結ばれているのかもしれない。

「ごめんなさい。お仕事中につまらない話しちゃって」

「大丈夫です」

「こんなことを他人に話せる機会はそうそうないから。私もね、すごくもやもやしたまま過ごしていたから、八重樫さんに話せてちょっとすっきりした」

 淑子は顔を上げる。瞳は僅かにしっとりと濡れていて、細い人差し指で優しく滴を拭う。

 淑子はコートとバッグを持って立ち上がり、扉へと歩く。

「ありがとう。八重樫さん、お元気でね」

 透が音をたてないように扉を開けると、淑子は楽屋を後にする。

 そして、そのまま振りかえらずに舞台袖から客席の方へと向かっていく。

 舞台から聴こえるニールセンの雄々しい音楽を聴きながら、その物悲しい背中を透は見送った。

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