「どういう風の吹き廻し?」

 実家のリビングに入ると透の母親であるすみれが出迎え、すみれは驚いた顔でそう言った。

「今さらうちのピアノを弾きたいなんて。もう十年くらい弾いてないんじゃない?」

「十二年だよ」

 すみれはリビングに隣接するリビングに行くとお茶を淹れてダイニングテーブルに座っている透の前に置く。透は熱いお茶を一口啜って、また湯呑を置く。

 次のコンサートの打ち合わせが終わり、その足で都内郊外にある透の実家へ戻ってきた。コンサートが立て続けに行われていたせいか、なかなか実家に足が向かず、今回の帰省は実に半年ぶりだった。

「あんまり久々に弾くとピアノの方もびっくりしちゃうんじゃない」

「というよりは僕が下手くそになりすぎてびっくりするんじゃないかな」

 透がそう言うとすみれは小さく微笑む。三十の時に透を産んだすみれは六十四歳になろうとしている。透はお茶を啜るすみれを時折じっと見て、老いていく母親を想う。年を重ねるごとに小さくなっていくように感じるその体をすみれはお茶を飲むことで暖めているかのように透には見えた。透は心の底の方に切なさを感じる。

「調律もなんにもしてないから状態はすごく悪いかもしれないけど」

「いいんだ。今自分がどれくらい弾けるのかを確かめたいだけだから」

「透がこの家でピアノを弾くなんて。あの頃が懐かしい」

 すみれは僅かに目を細める。

「確かにピアノを習わせたのは私と聡さんだけど、まさか音大に行くくらいにのめりこむなんて思ってなかったから驚いたわよ」

「そうなの?」

「当たり前じゃない。最初は手習い程度だって思ってたのに、ピアノのレッスンがない日だって小学校の音楽室で下校時刻まで弾き続けて先生だって心配してたんだから」

 小学生のときほどピアノの楽しさにのめりこんだときはなかったかもしれないと、透は思う。とにかく自分の十本の指が多彩な旋律を生み出すことがこの上なく喜ばしかった。だから、透のピアノへの傾倒ぶりに見かねたすみれと父親の聡は、透が小学六年生のときに自宅の一室を改築し、アップライトピアノを購入した。狂喜した透は学校から帰ってくると夜ご飯までピアノを弾き、ご飯を食べれば夜の九時まではピアノに熱中した。レッスンに行ったあともその日のおさらいや自分の弾きたい曲の練習などに明け暮れた。

「そのうちご飯も防音室の中で食べるようになるんじゃないかと思ってた」

「中学生のときに実際に食べようとしたら外で母さんが防音室の電気消して妨害しただろ」

「私だって必死だったのよ、あの頃は」

「父さんは?」

「書斎にいる。大学行き始めてから勉強詰めになっちゃって、あの頃の透を見てるみたい」

 聡は定年退職後、大学に入り直して西洋思想に関する研究を行っている。透も最初その話を聴いたときは驚いた。

「お茶、ごちそうさま」

 透は湯呑を流しに起き、リビングを出て隣にある防音室の前に立つ。

 分厚い扉。その中には、青春のほとんどを過ごした二畳の密室がある。

 仰々しい取っ手を掴み、廻す。重厚な扉を開くと懐かしい香りが漂ってくる。

 ピアノの木の匂いなのか、埃の匂いなのか、それとも美化された記憶の匂いなのか、どことなく甘い香りが透の鼻を刺激する。

 そして、その中にはアップライトピアノがひっそりと鎮座していた。

 重厚な扉を閉めると、外界の空気と音から完全に遮断され、つんとした静けさが耳をつく。

 埃よけの布を剥がすと、黒い光沢を持ったその体が現れる。

 蓋を開き、もう一枚布を取ると、そこには鍵盤が整然と並んでいる。

「久しぶり」

 透は少し顔を綻ばせながら小さな声で言う。

 十二年前のあの日から、このピアノはおろか、すべてのピアノを弾くことをやめてしまった。自分はピアノを断たなければならない、ピアノをこれ以上続けても何も生まれない。絶望の淵に立たされた透は、本当にそう思っていた。

 しかし、今の透にはピアノを弾く理由がある。

 一番大切な人に想いを伝えるために。

 自分の確たる存在を、愛する人に届けるために。

 透は人差し指でラの音を鳴らす。鍵盤から指を離すとピアノの音は防音室の壁に吸い込まれる。

 リヒテスホールの舞台で同じことをした佐川の姿を想う。

 自分は佐川のようなピアノを弾くことは絶対にできない。それは重々わかっている。

 しかし、佐川のピアノでは意味がない。自分で弾くからこそ意味がある、と透は思う。

 革ばりのピアノ椅子に腰かけ、両手を静かに鍵盤の上に置く。

 指に力をいれるのに躊躇する。

 自分は一体どれくらい弾けるのだろうか。指がもつれたりしないだろうか。

 ピアノを弾けば、あの日の苦しみがまた戻ってくるのではないだろうか。佐川の苦しみと共に昇華されたはずのあの苦々しい記憶が、また立ち現われてくるのではないか。

 そう思うと、透は最初の音を出すことができなかった。

 しかし、鍵盤から指を離さない。

 どうしても弾かなければいけない。

 ステージマネージャーという仕事の中では、他者が表現することを支援することに徹底していた。自分の中にある音楽を抑圧し、他者が織りなす音楽の魅力をさらに引き出すにはどうすればいいか、自分の表現を洗練させるのではなく、他者の表現を洗練させるにはどうすればいいか、そればかり考えていた。それが、ステージマネージャーという仕事だから。

 しかし、石黒の言葉が思い起こされる。

 唯一無二の音楽。

 それを創る資格は、自分にも、まだあるのかもしれない。ステージマネージャーとしてお、ピアニストとしても、その資格を持っているのかもしれない。

 そして、唯一無二の音楽を創ることができれば、また新しい自分に出会えるかもしれない。

 自分も表現者でいていいんだ。自分の音楽を抑圧しなくてもいいんだ。

 相反するものがぶつかりあったときに、新しく生まれるものだってある。

 透は、指に力を込める。

 鍵盤が高らかに歌声をあげる。

 ブラームス、ピアノソナタ第一番。

 ファンファーレにも似た、歓喜に満ちた堂々とした旋律で狭い防音室が一瞬にして満たされた。

 その音が響いた瞬間、透の頭からはあらゆる思考が吹き飛んだ。

 透は何も考えず、貪るようにブラームスのピアノソナタを弾いた。

 やがて現れる哀愁に満ちた旋律、そして繰り返される堂々たる主題。

 その旋律に耳を傾ける暇もなく、透は鍵盤を叩き続けた。

 過去の自分に取り憑かれたかのように、鍵盤を見ることもなく、ただ指だけが自由に動き、防音室の中に鳴り響く旋律の中にとっぷりと自分の体を浸していた。

 ピアノソナタ第一番は三十分にも渡る大曲だが、透は一気に弾ききった。

 最後の音が鳴り終わり、鍵盤から指を離すと、透は我に返ったように息を吸った。

 呼吸をしていた記憶すらもないほど、透は無我夢中にピアノを弾いていた。

 そして、透の体に激しい感情が押し寄せる。

 喜びでもない、不安でもない、歓喜でも狂喜でもない、怒りでも、苦しみでもない。

 長時間食べ物を胃に入れなかった人間が、物を食べようとしても胃が受け付けなくなるかのように、透の中に生じた感情は爆発的に膨張し、透の体の外へと出て行こうとしていた。それほど激しい胸の高鳴り、狂おしいほどの頬の紅潮を覚え、息は荒くなり、目は見開かれる。

 紛れもなく、自分の音楽だった。

 下手だったかうまかったかも覚えていない。体に刻みこまれた記憶が勝手に指を動かし、ピアノをかき鳴らしていた。

 時間が経てば、その激しい感情はだんだんと「喜び」に収束されていく。

 手が震え、表情には自然と笑みが浮かぶ。

 こんなに、素晴らしいものだったなんて。

 ピアノを弾くことが、こんなに興奮することだったなんて。

 たった十二年という年月でそんなことも忘れてしまっていたのか、と透は自責の念に駆られる。

 やっぱり、これしかない。

 桃香にすべてを伝えるためには、これしかない。

 透は小さな防音室の中で、大きな決意をした。


 二時間ほどピアノを弾いたところで、防音室から一度出る。

 リビングに戻るとまだすみれが座って読書をしていた。

「うるさくなかった?」

「ええ。ちょっと漏れてくる音楽がBGMみたいでちょうどよかったよ」

 透はダイニングテーブルに腰掛ける。透が座ったと同時にすみれは本から視線をあげて透を見る。

「透のブラームス、久しぶりだったな」

「下手くそだったでしょ」

「ええ。コンクールの直前に比べたら全然違う」

「だよね」

「透、桃香ちゃんと結婚するんでしょう」

 すみれの突然の言葉に驚くあまり、透は激しく咳こむ。

「なんで、そんな、こと、知ってんの」

 透はむせながらもどうにか話す。そんな透の姿を見ながら、すみれは優しい笑顔をつくる。

「母親だからよ」

 短くそう言うと、すみれはまた本に視線を落とす。

 こんなに説得力のある言葉をかつて聴いたことがない、透は強くそう思った。

 ブラームスの余韻と共に、夜は更けていく。

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