第二章 チェリスト 墨田幹弥・ヴァイオリニスト 墨田淑子の場合

 髪の毛の先端から汗の滴が落ち、頬を伝う感触を透はくすぐったく思う。足を一歩出すと、頬を伝う汗が木の床に落ちる。楽器ケースを握る掌にも汗が滲む。

 階段を昇り、扉が開いたままの楽屋に入り、両手に持っていたトロンボーンのハードケースをゆっくり床に置く。体を起して楽屋の時計を見ると午後十時を過ぎていた。透は深く息をついて呼吸を整え、再び楽屋を出て、下手の舞台袖に向かう。舞台袖の少し奥にあるトラックの搬入口に行くと、秦裕輝がいそいそとトラックから楽器を舞台袖に降ろしていた。

「なんで舞台裏の近くに楽器保管倉庫がないんだよ」

「その台詞、もう三十回くらい聴いた」

 透は秦が降ろした楽器を種類によって分類する。

「このホールの舞台裏に楽器倉庫ができるまでは俺は言い続けるぞ」

「それなら県議会か市議会に行って予算を請求する方が効率的だよ」

「小心者の俺にそんなことができるわけないだろう」

「その台詞は秦と出会ってから千回くらい聴いてる」

 秦裕輝はメトロポリタン・フィルハーモニー管弦楽団のファゴット奏者であり、透の音大時代の同期だった。透は三四歳、秦は三五歳。秦は音楽大学に入るために一年多くかかったため、透よりも一つ年上だった。

「調子に乗って前乗りなんてするんじゃなかった。こんな重労働させられるハメになるなんて」

「たまには僕の仕事に触れてみるのもいいじゃないか」

「俺にはステマネは絶対無理。椅子の配置をミリ単位で考えるなんて芸当、ひっくり返ったってできない」

「僕だって明朗なファゴットの音色を奏でるのは無理だよ」

 透は秦のファゴットのケースを手に取る。

「おっと。俺の嫁さんは他の楽器よりも丁重に扱ってくれよ。俺以外の人間に触られると機嫌損ねるから」

「はいはい」

「あーぁ。せっかく青森に来たんだからどっかでおいしいアップルパイでも買っておくんだった」

 秦の恨めしい声を背中に浴びながら透は来た道を戻る。ファゴットなどの木管楽器の楽屋も二階にある。階段を上がり、楽器を運ぶ。

 ここ、青森県民ホールの舞台裏と楽屋の造りは、メトロポリタン・フィルが拠点としているリヒテスホールとは大きく違ったものになっている。

 まず、このホールでは舞台と楽屋が別々のフロアに設置されている。リヒテスホールでは、演奏者が本番の舞台に向かうために移動するときに階段を昇ったりエレベーターを使う必要がないように、全ての楽屋が舞台と同じフロアになるように設計されている。指揮者とソリストに関しては舞台袖の中に楽屋があり、ほんの数歩歩くだけで舞台に上がることができる。

 それが、このホールでは指揮者の楽屋すらも舞台の一つ上のフロアに設置されている。すなわち、指揮者が楽屋から舞台に移動するときには廊下を歩き、階段を降り、さらに歩かなければならない。この地方公演も横溝が指揮をするが、楽屋で極限まで高められた集中力が、舞台までの移動の中で削がれることも考えられる。それは他の演奏者にも同じことが言える。

 ヴァイオリンやフルート、クラリネットなどの小さな楽器ならまだいいが、チェロ、コントラバス、チューバなどの大型楽器の演奏者は廊下の壁や階段の手摺などに楽器がぶつからないように注意を払わなければならない。本来は本番の音楽に向けなければならない集中力を他に分散させてしまう。そのことが演奏にプラスに働くわけがない。

 それに加えて、楽器の搬入口は舞台袖から若干離れているし、舞台上に楽器を保管する場所が設置されていない。それゆえに午後十時を過ぎる時間までトラックからそれぞれの楽屋に楽器を運ばなければならない。

 透は楽器を何回にもわけて運びながら、自分がいかに恵まれた空間で仕事をしているのか、ということを認識する。理想はリヒテスホールのように聴衆だけではなく演奏者のことを考えて、演奏者がストレスなく演奏できるようなホールが日本中に出来ることだ。苦境に立たされて「当たり前」の恩恵を感じるのではなく、全てを「当たり前」にしてしまえばいい。しかし、そういうわけにもいかないことは透にも重々わかっている。

 多くのホールは何もオーケストラのコンサートを行うためだけに作られているわけではない。歌謡曲のコンサートがあるかもしれない、演劇が行われるかもしれない、はたまた街づくりのためのシンポジウムが行われるかもしれない。つまりはこのホールも多目的ホールであり、用途を限定することができない。

 ファゴットのケースを置き、またトラックまで戻ると、トラックの荷台の中で秦が大の字になって寝転んでいた。

「なんとか、全部、外には、出した」

 もう秦の体に力は残されていないようだ。秦が呼吸をするたびに胸が大きく上下している。

「ありがとう。助かったよ」

「最後まで手伝うよ」

「いいよ。秦は明日リハーサルだろ」

「透だってリハーサルだろうが」

「僕よりも秦の方が体力使うだろうし。それに、明日は墨田夫婦を相手にしなきゃいけないんだから」

「そうだった。一人ひとりでもキャラ強いのに、二人いっぺんとなると、かなり苦戦が強いられるな」

「キャラがぶつかり合えば合うだけ良い演奏になる可能性も高くなる」

「まぁな。迎合し合えるだけの個性だったらぶつからないほうがマシだ」

「そゆことだ」

「でもま、同期がせこせこ頑張ってる中、先に帰るのはさすがに忍びない」

「そうかい。じゃあ頼もうかな」

 秦も楽器を持って楽屋まで運び始める。透が秦と出会って十五年ほどが経つが、ファゴット奏者としてどんどん優秀になっていっても、人間の根幹は全く変わっていない。不器用で口が悪くて小心者だけど、最後の最後は真面目で終わる。透はもちろんのこと、楽団員からも弟分として慕われている。

 透はそんな秦の背中を見送りながら、この青森という地に想いを馳せる。

 透にとって、どうしても忘れられない想い出の地。

 切ろうとしても切れない、絆しの土地。

 目を閉じれば、あのときの舞台袖の風景がありありと瞼の裏に浮かんでくる。

 そんな過去の記憶と現在の記憶が絡まり合いながら、新しいコンサートが始まろうとしている。

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