「私って最初から舞台の上にいなきゃだめですか?」

 楽屋に戻った琴乃は開口一番そう言った。

「と、言いますと」

 透はおそるおそる言葉を続ける。

「四楽章で私が歌い始めるまでの約一時間を私が舞台上で待っていなきゃいけない合理的な理由がどこにあるのかって聞いてるんです」

 琴乃は怒りの感情を美しい声に籠めてそう言い放った。踵が低いパンプスを纏った長い脚をきつく組み、楽屋の一番大きなソファに腰掛ける。

「それは、その、指揮者の判断でして」

「私の喉の状態は私が一番わかっています。一時間の間、喉をあたためることもできずにじっと座っているよりも、一時間たっぷりとウォーミングアップをしてから舞台に入場し、歌い始める方が良い演奏ができると思いませんか? バーンスタインとウィーン・フィルだって四楽章が始まる直前にアルト歌手を舞台に招いていたわ」

 少年合唱団のリハーサルが上手く進むかどうかの心配をしすぎたせいで透は琴乃に対して注意を向けるのを怠っていた。本来であればリハーサルが始まる前に入場などの確認を指揮者も含めて行っておくべきだったが、時すでに遅し。琴乃の不満は頂点にまで達している。

「でもですね」

「でもじゃない。そうやって反論したいのであれば、横溝先生の説明をお聞きしたいわ。ちょっと、横溝先生にどうしてアルト歌手を初めから舞台上に入れたいかを聞いてきてくれませんか」

「ぼ、僕がですか?」

「他に誰がいるっていうんですか」

 実に困ったことになった。確かに演奏者と指揮者の意見が食い違うことは多々ある。ただ、伝書鳩として演奏者のクレームを演奏の最高責任者である指揮者に伝えにいくということは滅多に出くわさない。

 だがここで無下に断ってしまうと事態は悪化する一方だということも透はわかっている。とにかく透は「了解いたしました」という言葉を吐いて部屋を出た。

 冷や汗をかきながら扉を閉めていると「なんかあったの?」と丁度通りかかった音葉に話しかけられる。

「なんかあったってレベルじゃないです」

「あー、琴乃さんがお冠なんだ。業界じゃ琴乃さんは気分屋って有名だからねぇ」

「知ってるなら先に言ってくださいよ」

「ステージマネージャーたるもの、ソリストの気性くらいリサーチしておかなきゃだめだよ」

 音葉はウインクをしてその場を颯爽と去った。

 ステージマネージャーは音だけを相手にするのではない。人を相手にしなければ務まらない。音大時代の師匠にもそう言われていたことを思い出す。

 気を取り直して、舞台袖にある横溝の楽屋を訪ねる。

「横溝さん、失礼します」

 楽屋に入ると、横溝は既に帰り仕度をしていた。この後は別の場所で取材があると透は聞いている。あまり時間がない。

「本日はお疲れさまでした。明日の本番もよろしくお願いします」

「どうした、そんな青い顔して。何か不手際でもあったか」

「不手際といいますか、なんといいますか」

 透は渋々琴乃の主張を横溝に伝える。横溝は透の言葉を眉毛一つ動かさずに聞いていた。話が終わると「ふん」と鼻で僅かに笑う。

「威勢のいい若手ソリストは嫌いではない」

 そう言って、横溝は鞄を持ち、立ち上がる。

「透。ブラームスの交響曲第一番を演奏する際に、トロンボーン奏者の三人が『我々は第四楽章の中間部まで出番がないので、四楽章が始まるまで楽屋で音出しをしています』と申し出て、途中から入ってくることが許されると、お前は思うか」

「いえ、それは、許されないです」

「だろう。それと同じことだ。演奏者は演奏が始まったときには自分の役割を果たすべきところにいなければならない。アルプス交響曲のバンダのホルンであっても同じことだ。演奏が始まったときに楽屋にいるのであればそのまま楽屋で本番を迎えろ。そう言っておきなさい」

 横溝は低い声でそう言って、楽屋を後にした。

「それは僕も重々わかってるんだけどなぁ…」

 だが、その論理をそのまま伝えても琴乃は他の前例を引っ張り出して反論をすることは目に見えている。

 透は誰もいなくなった楽屋を後にし、扉を閉める。はぁ、とため息をついて天井を見上げる。今日はよくため息をつく日だ、と透は思う。改めてステージマネージャーは人を相手にする仕事だということを実感する。

 透が途方に暮れていると、舞台からコンマスの堀内が戻ってきた。透を見ると「おや」と声をあげる。

「どうしたんだい、そんなこの世の終わりみたいな顔しちゃって」

 柔らかい表情と甘い声で堀内は言う。右手にはまだヴァイオリンが握られている。堀内はリハーサルが終わり、人が全員はけた後の舞台でヴァイオリンを気ままに弾くことを趣味としていた。「この時間を独り占めできないんなら、僕はコンマスを辞めるよ」とよく公言している。

「堀内さん、明日本番迎えられないかもしれないですよ」

「おぉ。休みができるのかぁ。家でパガニーニでも弾いてのんびりしようかなぁ」

「堀内さんがそんなこと言うと本当に休演になりそうなのでやめてください」

「それで、何があったのさ」

 透は琴乃の文句と横溝の主張を堀内に説明する。堀内は頬笑みを崩さずに、ふんふん、と透の説明に耳を傾ける。

「なるほどねぇ。まぁ長島女史が言っていることも間違っちゃいないからねぇ。間違ってないというか、理想論というか。ヴァイオリン弾きにはあんまりない発想だけど、演奏者としてはいつだって万全の状態で舞台に登場したいからねぇ」

「それは僕もわかってるんです。わかってるんですけど、でもこのままだと演奏が始められないですよ」

「透くん。無理矢理論理をねじ伏せようとしてもダメだよ。相手はアマテラスなんだよ。アマテラスには岩屋の扉を自分で開けてもらうようにしなきゃあね。僕が話してみよう」

 堀内はそう言って持っていたヴァイオリンを透に預ける。そして舞台袖を出て、長島が閉じこもっている楽屋を優雅にノックをする。

「堀内です。入ります」

 そう言って、扉を開ける。琴乃は予想だにしていなかった来客に、驚きの表情を浮かべている。そんな琴乃の表情を知ってか知らずか、堀内はするりと楽屋に入り、琴乃の正面に座った。透もそれに続いて楽屋に入り、背中で扉を閉め、ヴァイオリンを持ちながら堀内の動向を窺う。

「リハーサルお疲れさまでした。見事な歌唱でしたね。明日の本番が実に楽しみです」

「光栄です」

 琴乃は短くきっぱりと言った。その言葉には「明日歌うかどうかはまだわからない」という決意が滲んでいるように透には聴こえた。

「勝手ながら、琴乃さんのおっしゃってることを聞かせていただきました。同じ演奏者としてはとても共感できるお話です。演奏者の理想と指揮者の理想はえてして相反するものなのかもしれません。指揮者というのは音楽もそうですが、演出にも目を向けますからね。確かに、横溝さんの言っていることは演奏者からしてみれば合理的ではないのかもしれない」

「おっしゃる通りです。最高の演奏が求められている身としては、最高の状態で舞台に立ちたいんです。それを舞台の上で一時間も待たなきゃいけないなんて。どう考えてもおかしいです」

 琴乃は声を荒げるようなことはしないが、淡々と自分の感情を言葉に乗せてアウトプットしている。透の肌にも琴乃の怒りがぴりぴりと伝わってくるように感じる。

 堀内は透の言葉を聞いていたときと同じように、琴乃の言葉も柔らかい表情で小さく頷きながら聞いている。そして、少し間を空けてから口を開く。

「しかし、この議論には大事な要素が欠けていると思いませんか」

 琴乃はわずかに眉を動かし、堀内の言葉に応える。

「明日のマーラーを聴きにくるお客さんですよ」

 堀内は真っ直ぐに琴乃の顔を見る。

「明日来るお客さんはマーラーの曲を聴きにくるわけですが、当然琴乃さんの歌を聴きたくて会場に足を運ぶわけです。そしてそのお客さんの期待は、琴乃さんが舞台上で座っているとさらに高まっていくんです。演奏中、指揮者の横で座っている琴乃さんを見ながら、お客さんは琴乃さんに早く歌ってほしい、早く四楽章になってほしいと思うんです。そして、琴乃さんが立ち上がるのと同時に、お客さんの期待はピークに達し、歌声を聴いて最高の喜びを得る。こうやってお客さんの期待感を高めるためには、琴乃さんの歌手としてのオーラが舞台の上に絶対必要なのです。確かに直前まで楽屋にいれば喉の状態はよくなるかもしれない。しかし、琴乃さんを見るためにきたお客さんはがっかりしてしまうんじゃないかな。がっかりしたあとに聴くマーラーは辛いものがあります」

 琴乃も、堀内の顔から視線を離さない。

「音楽は我々演奏者だけで作るものではない。演奏者と聴衆がいてこそ完成するものなのです。琴乃さんが舞台の上にいれば、お客さんも最高の状態を保つことができる。そうすれば、必ず良い演奏になります。横溝さんに代わって、僕からもお願いしたい。どうか、音楽の完成に、力を貸して下さい」

 堀内は、そう言って頭を下げた。

 琴乃はしばらく黙ったまま、堀内の方を見つめる。

 そして、琴乃の口から、ぽつりと言葉が飛び出す。

「聴いている人の心の状態なんて、考えたことなかった」

 堀内はゆっくりと頭を上げる。

「聴衆も、一緒に音楽を創りあげるという点では、演奏者なんですよ」

 この言葉を聞いて、透の心も動かされていた。

 普段、お客さんにどうしたら喜んでもらえるかということばかりを考えていた。

 それは裏を返してみれば、演奏者が主体で、聴衆が客体であるという二元論に基づいている。

 しかし、堀内の言葉は全く違う。音楽というものに主客の関係などない。その場にいる人間全てが音楽の担い手である。堀内の言葉を、透はそのように解釈した。

「わかりました。私、一楽章から舞台に出ます」

 琴乃は表情を変えずにそう言った。そして透の方を向く。

「あなた、ごめんなさい。横溝先生にそのように伝えてくださいますか。変更は無し、と」

「はい。仰せのままに」

 突然言葉をかけられて透は驚きながらも、琴乃に応える。

 堀内は、ゆっくりと立ち上がり、また琴乃を見る。

「大丈夫。あなたは偉大なソリストになる。僕は、そう思います」

 そう言って、小さく会釈をし、堀内は透からヴァイオリンを受け取る。

「ね。岩屋から出てきたでしょう」

 扉を出るときに、堀内は透に小さな声でそう言った。

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