7-4

「だめだ、もう走れない」


 情けない呻き声を上げ、おぼろくんは足を止めた。疲弊した様子で、膝に手を付いた前屈姿勢で乱れた呼吸を鎮めている。

 膝小僧と手のひらの間に挟まれた私の指。痛いといったら解かれそうで、血が止まるのを覚悟で我慢した。


「小春ちゃん、意外と体力あるね。かなり走ったのにへっちゃらなんだもん」


 意外とは心外だと口にしかけて思い留まる。意外性を与えられるほど、おぼろくんの中で私という人物像が確立されているということにも取れた。

 でもそれは間違いだ。私は今、立っているのもやっとだった。力の通わない足が自分のものじゃないみたいで、取り戻そうと何度も地面を踏みしめる。なのに、ちっとも戻ってこない。


 手を握られたとき、これまで一度も味わったことのない感覚に捕らわれた。その未知の感覚は一秒ごとに勢力を拡大し、今や体中で猛威を振るっている。


 さっきからずっと、体に身が入っていないような浮遊感で、全身がそわそわしていた。心臓がやけに早く鼓動を刻むたび、体がどんどん軽くなっていく。あんなに重たかった胃も頭も、今はちゃんと自分の体内に納まっているのか心配になるほど存在感を無くしていた。


「おぼろくんは、思った通り体力がないね」


 得体の知れない何かに乗っ取られている私の声は、いつもより甲高くて辺りによく広がった。その響きと同調するように、おぼろくんは細かく頷いている。私の異変には気付いていないみたいだ。


「運動不足かなぁ。最近体育サボりっぱなしだしなぁ。あぁ、食べたばっかりで走ったからお腹が痛いや」


 鼻筋に皺を寄せ前歯を見せて笑うおぼろくんは、私と繋がっていないほうの手で脇腹をさすっている。私の体はさらにふわふわした。

 おぼろくんが前屈姿勢をやめ背筋を伸ばすと、膝と手のひらに挟まれていた指がやっと自由になった。


「こんなに走ったの、久しぶりだよ僕」


「本当、いっぱい走ったね。ずいぶん遠くまで来ちゃった気がする」


「気だけじゃなくて、本当に来ちゃったよ。出発地点より、駅から離れてるよ」


 逃げることに必死で、駅を目指していたことなどすっかり忘れていた。おぼろくんばかりを見ていたせいか、周りの景色が様変わりしていることにも気付かなかった。


 いつの間にか陰気な路地から抜け出していたようで、視界が大きく開けている。ささやかな土手に守られた浅い川が、私たちと並行して穏やかに流れていた。

 街灯の寂しさはさほど変わっていないのに、月がよく見えて辺りは明るかった。月光を受けた川の水面が眩しい。


「よーし! じゃあ駅を目指してもうひとふんばり!」


 気合の入った声に身構える。だけどすぐに力が抜けた。また走り出すのかと思ったのに、おぼろくんの歩みは隣を勢いなく流れる川といい勝負だった。駅を目指しているというより、ただあてもなく散歩をしているといった雰囲気だ。


 大袈裟に腕を振って歩くから、握られたままの私の手まで一緒に揺れた。平静を装い、私も一緒になって手を揺り動かしてみる。

 すると、おぼろくんが高らかに声を上げて笑った。


「なんだか急にのんびりだね。さっきの激走が嘘みたいだよ。でもまだ、心臓はドクドクしてるけど」


「私も。そろそろ心臓、爆裂するかも」


「そうなったら、小春ちゃんからは血じゃなくてカレーが飛び散りそうだね」


 冗談じゃなく本気で危ぶんでいたのに、笑い飛ばされてしまった。

 つられてほくほくと緩んだ顔に夜風が当たる。全力疾走をしたせいか、それとも別の理由か、むやみに熱を帯びていた頬の温度が下がっていくのを感じた。


 おぼろくんも気持ち良さそうに、細めた目で顎を反らし、風を受けている。私の口元はますます締まりを失った。風になびくおぼろくんの髪。月明かりに照らされるおぼろくんの肌。


 黒と白のコントラストが瞼に染み込んでいく感覚を噛み締めていたら、目の中でしつこく繰り返されていた白と赤の点滅が、いつの間にか止んでいた。


「あら! お月様、まんまる」


 際どい感嘆詞を発し、おぼろくんが天を仰いだ。真似して夜空に溶け出す光りを見上げると、繋いだ手が滑り落ちそうになった。


 私は反射的に手を引っ込める。握り直してくれなかったらと思うと怖くて、完全に指と指が離れてしまう前に自ら断ち切った。

 もう握られないように、ポケットに両手をねじ込む。わずかに残るおぼろくんの手の感覚を、ワンピースの狭いポケットの中に閉じ込めた。


「ていうか、なんで逃げて来たんだろう、私たち」


「だって、あのままお兄さんと目が合ったりしたら気まずすぎるよ」


「逃げたら逃げたで気まずいじゃん」


「あ、そうか……ごめんね」


「別に、おぼろくんのせいじゃないけど。目が合わなくても逃げなくても、目撃しちゃった時点でもう十分気まずいんだし」


「そういえばさ、さっき美味しいって食べてくれたプリンね」


 突然プリンの話を始めるおぼろくんに驚きながら、私は思わずお腹を押さえた。

 食後のデザートに出された、これまでの常識を覆すほどにとろけるプリン。そっくりなえくぼを浮かべた親子が一丸となって勧めてくるものだから、私は恐縮しながら三個も平らげたのだ。


「あれ駅前のパン屋さんに売ってるプリンなんだけどね。あ、すごいよね、今時のパン屋さんって、パン以外にも普通に売ってるんだもんね。それも洋菓子屋さんのプリンよりもずっと美味しかったりするみたいだし。うちの母親なんて、パンよりもプリンのほうが美味しいとまでいい切るくらいでさ」


 口を挟む間もなく、プリンの話が畳み掛けられる。囀るような早口を聞いていると、路上で盛り上がるあのふたりのことなど、どうでもいい気がしてきた。私には関係のないことだ。そのことで私がとやかくいったり、傷ついたりするのは間違っている。


「せっかくだからプリンパンとか作ればいいのにね。あったら小春ちゃん、絶対喜びそう! いっつもお昼に楽しいパン食べてるもんね。マシュマロが乗ったやつなんて、モコモコしてて可愛かったなぁ」


 いつにない熱弁は、おぼろくんなりの気遣いなのかもしれない。そのことが分かっただけで、私はもう大丈夫。無敵だ。一撃で立ち直れる。ぐいぐい喋るおぼろくんの声を心に刻みつけようとして、私は一言一句に深く頷いた。

 そうするたび、目まぐるしい一日が嘘だったみたいに、気持ちがなだらかになっていった。


「それでね、そのパン屋さんに向かう途中にね、ワンちゃんを散歩させてるおばあちゃんとすれ違ったの。ワンちゃんが、あ、パグなんだけどね、ちっちゃいのにリードをめりめり引っ張るから、おばあちゃん大変そうで。そしたらおばあちゃん、いうこと聞かないとプリン買ってあげないよ? っていったの。そしたらパグちゃん、引っ張るのやめておばあちゃんの足元に寄り添ったんだよ。それっきり急におりこうさんになっちゃって、うわぁこのパグちゃんプリン好きなんだ、食べたいんだぁって思ったらたまらなくなっちゃって、結局撫でさせてもらっちゃったんだよ僕。それにプリンのファンが人間だけじゃないなんてすごいよね。感動しちゃった」


 身振り手振りをつけて犬とおばあちゃんの様子をつぶさに語るおぼろくんに頷き続けていたら、ふと、家に帰りたくないなと思った。兄のことがあったからじゃなく、ただ単純におぼろくんと別れがたかった。


 この先もおぼろくんと一緒にいられたら、どんなに幸せだろう。そう夢想して、何かが違うことに気が付いた。


 二度と会えなくなったとしても、この先の私の未来にはきっと、初恋の人としておぼろくんは永久に君臨し続ける。私が望んでいるのは、おぼろくんの未来にも私が存在していることなのだ。存在していないかもしれない可能性のほうがずっとずっと大きいから、強く願わずにはいられなかった。


 なんて自分勝手で、なんてわがままな願いだろう。


 私の心と連動したように、辺りがにわかに暗くなった。空から月が消えている。さっきまであんなにまんまるだったのに、月は光りの欠片も残さず、すっかり雲の中に隠れていた。夜の気配が溶け出す空気が肌に絡みつく。

 ポケットのぬくもりが消えてしまわないように、私は拳を固く握り直した。

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