楽曲 第十二話

 いつもと違う天井。違うシーツ。あぁ、ここは李奈の部屋だ。千紗はそう気づいて李奈の部屋のベッドで目を覚ました。


「李奈上手やったな。めっちゃ良かったな。いっぱいいろんなことしてくれたな。一回だけなんや。あんなんされたらまた欲しなるやん。今度おかずにしたらあかんかな」


 千紗はまだ覚め切らない頭の中でこんなことを考えていた。相変わらずピンク色である。

 すると横から李奈の話し声が聞こえてきた。裸の千紗はシーツを被ったまま横を見る。すると李奈の後頭部を捉えた。李奈はスマートフォンを耳に当てている。

 李奈は既にベッドを出ていて、ベッドの横で床に座っていた。サイズの緩いTシャツを着ているのだが、李奈は恐らくTシャツの下は何も身に着けていない。千紗はそう予想した。


「もしもし先生? 今私の部屋で千紗預かってます。横で寝てる女放り出して今から千紗引き取りに来てください。……。すぐぃや!」


 千紗はびくっとして身体が跳ねた。いきなり李奈の口調が変わった。乱暴だ。千紗と喧嘩した時とは比べ物にならないほどに。千紗はこんなに強い口調の李奈を初めて見たような気がした。


「これ以上私の親友泣かせたらたとえ先生でも許さんで。今すぐ引き取りに来んのやったら今から私がそっちに乗り込むからな。ええ加減にせんと私が千紗もらうぞ。ごちゃごちゃ言ってんと早よぃや。まだその女とおるつもりならしばくぞ」


 李奈は電話を切ると目の前の円卓にスマートフォンを置いた。


「李奈?」


 千紗が声を出すと李奈が振り返った。そして優しい笑顔を向けた。


「起こしてもうたな。ごめん」

「ううん、起きとった。今から先生来るん?」

「うん。いっぺんちゃんと話し?」

「無理や」


 李奈はベッドに身を乗り出し横になったままの千紗の頭をそっと撫でた。


「そんなこと言わんと。先生キスされとったんやろ? それって受け身やん。いっぺんちゃんと気になること聞いてみ? それから恭介さんのこともちゃんと説明し? あんたら普段は仲ええくせに肝心なことちゃんと話さへんのやもん」

「んー。うちにできるんかな」

「一歩踏み出さな何にも変わらへんで」


 千紗はじっと李奈の目を見た。李奈は頭を撫でたまま優しく千紗を見る。


「先生来る前にもっぺん夜のやつして」

「だーめ」

「せめてちゅうして」


 李奈は千紗の顔に自分の顔を寄せた。一瞬、千紗の頬に李奈の唇が触れた。


「口がええ」

「それはだーめ。止まらんくなるやろ? 一回だけ言うたやん」

「むー」

「さ、先生来るから服着よっと。ちゃんと話しや。約束やで」


 そう言って立ち上がった李奈を千紗は恨めしそうに見た。


 しばらくしてタスクは李奈の部屋に来た。李奈は玄関まで対応に行った。


「千紗中にいますからここ使って話して下さい。私沙織の部屋行ってます。終わったら携帯鳴らすか呼びに来て下さい。それから電話での暴言は謝りません」


 部屋にいる千紗に玄関から李奈の声が聞こえてくる。千紗は窓を背に円卓の前に座っている。昨晩タスクの部屋を飛び出したままの服装だ。心臓が波打つのを感じる。音まで聞こえてきそうだ。

 そして部屋のドアが開いた。タスクが姿を見せる。タスクはすぐに部屋を出たのであろう、ラフな部屋着姿だ。千紗は何も言わず腕を前に差し出した。円卓を挟んで正面に座るように促したのだ。タスクはそれに従い千紗の正面に座った。


 沈黙。


 顔を合わせて数分経つがお互いの顔をちらちら見合ったまま会話が始まらない。時計の秒針の音が必要以上に響く。


「千紗の、居場所、だったんだよな?」


 最初に口を開いたのはタスクだった。千紗は目を伏せた。


「ごめん。スタジオにそんなに愛着持ってくれてるなんて知らなくて。これからは気を付ける」


 千紗はそれを聞いてぶんぶんと首を横に振った。


 そしてまた長い沈黙。


 次に口を開いたのは千紗だった。この場で初めて千紗が声を出す。


「昨日の女の人……」


 言葉が続かなかった。しかしそれを補うようにタスクが口を開いた。


「サバハリのインディーズの時のマネで葵。俺の元カノ。付き合ってたことはメンバーすらも知らない」

「したん?」


 少し間を置いてタスクは弱く首を縦に振った。


「ほっか」

「千紗は李奈と――」

「え!?」


 千紗は驚いて出した声でタスクの言葉を遮ってしまった。女同士の自分たちの関係が疑われているのかと焦った。そしてその不安は的中した。


「さっきの李奈の電話。李奈が『私がもらうって』って言ってたのが脅しじゃなく本気に聞こえたから。それに以前李奈が物心ついた時から好きな人が近くにいたって言ってたことがあったから。二人は幼馴染なんだろ?」


 千紗は黙ってしまった。けど李奈にタスクと話すと約束したのだから会話を続けなくては。


「偏見持ってるん? そういうのに」

「いや。俺は異性愛者だけどそういう人に偏見は持ってない」

「した」


 千紗はタスクの見解を聞いて正直に答えた。


「そっか」

「人に言わんでな。李奈の名誉のために」

「わかった」


 そしてまた沈黙。


 三度目の沈黙を破ったのは千紗だった。


「先生は昨晩してみてどうやったん?」

「虚しかった。李奈に言われた通りにここに来る前放り出した。虚しかったからこそ心苦しかった。したことを後悔した」

「そっか」

「千紗は?」

「めっちゃ良かった」


 この女、正直である。


 そして四度目の沈黙。


 次にこれを破ったのはタスクだった。


「こないだ東京空けた時、一緒にいた男の人って……」

「見てたんか。お姉ちゃんの元カレで宇賀恭介さん」


 千紗は話し始めた。


 六月の上旬。千紗はこの日サバイバル芸能の三階のスタジオで練習を終え、二階の事務所に用があり階段を下りた。そして事務所にいると一人の男が社長室から事務所を抜けて出てきた。これが宇賀恭介である。


「え?」

「え? 千紗?」


 二人は顔を合わせると言葉を失った。しかしすぐに、そして一気に千紗に怒りが込み上げてきた。


「同じ事務所やったんか。ようやく会えたわ」


 憤慨のオーラを感じた恭介はすぐに千紗の腕を引き事務所を出た。


「何すんねん!」


 事務所を出た先のエレベーターの前で千紗は荒く腕を振りほどいた。


「今からどっか入って話しよ?」

「おう、ええわ。望むところや」


 千紗は他のメンバー三人を待たせていたので先に帰るようにメッセージを送り、メンバーが事務所から離れたのを女子トイレから確認した。そして恭介と一緒に事務所を出た。

 二人は事務所の最寄り駅近くの喫茶店に入った。そして最初に恭介の口から出た言葉は千紗にとって衝撃的なものだった。


「百花元気してる? なでしこネットで検索してもどこにも名前出てこないから」

「は? 誰にも聞いてへんの? お姉ちゃんあんたが音信不通になってから倒れて、二年前の二月に死んだで」

「うそ……」

「心臓の病気や。別にそれはあんたのせいやないけど」


 この後千紗から百花の経緯を聞いた恭介はしばらくしゃくりあげながら泣いた。そして泣き止むと言った。


「千紗バンド続けてたんだな。まさか同じ事務所だったとは」

「今まで連絡寄越さんかった訳を言え」

「うん。今でもうちの事務所って育成援助金をもらえるのは一年なのか?」

「せや。年齢や期待値によって延長してもらえる場合もあるけど、基本的に育成契約は一年や」


 恭介は話し始めた。千紗は腰を折ることなくしばらく黙って聞いた。


「俺も所属一年目は育成契約で百花との遠距離交際は特に問題なかった。その頃は舞台を中心に下積みをしてた」


「けど芽が出ないまま二年目に突入して完全報酬制になった。家賃も自己負担になった。なかなか稼げなくて、生活が苦しくてよく携帯止められてたんだ。それで疎遠になった」


「今の千紗の話だと俺の二年目の夏に百花は入院した。その頃にはもう生活苦から携帯解約して本体を質に売ってたんだ」


「更にその年の年末に当時のイーグル芸能で不倫騒動が起きた。俺にとっては手ごたえを感じ始めた頃でこれからって時だった。けど事務所がもうぐちゃぐちゃで仕事にありつけるどころじゃなかった」


「とうとう俺は家賃も払えなくなった。そして年が明けて舞台仲間のところに転がり込んだんだ」


「その後事務所がサバイバルに変わったけど、当時はまだ無名の弱小事務所だったから生活変わらなくて、そのまま今に至る」


 ここまで聞いて初めて千紗が声を出した。驚いた表情をしている。


「マジかいな? もしかしてそれから今まで地元の誰とも連絡とってへんの?」


 恭介は黙って首を縦に振った。そしてまた話を続けた。


「この夏に撮影が始まる映画でやっとまともな役が取れたんだ。事務所がそのギャラを分割して前借りさせてくれるって配慮してくれて。これからやっと人並みの生活ができるんだよ」


「社長が生活が安定するまでは自分の車も貸してくれるって。赤のセダンなんだけど。ガソリンは事務所持ちだし、電車代が掛からないし、コインパークも請求していいって」


「だからそろそろ一回大阪に帰ろうかと思ってた。社長がその交通費も一回は出してやるって言ってくれて。今言った俺の待遇は内緒にしてな、社長は立場がある人だから」


 恭介が懇願するように言うと、この時千紗は既に穏やかな表情になっていた。


「そうやったんや……。そんなに苦労してたんや。そんなことも知らんと」

「いや。……千紗頑張ってんだな」

「頑張ってはおるけどまだまだや。うちの商店街の豆腐屋の娘ともまだ一緒にやってんで」

「へぇ、あのめっちゃ可愛い子だよね?」

「せや。恭ちゃん大阪弁しゃべらんのやな?」

「役作りのために矯正した。大阪帰ったら百花の墓参り行きたい」


 この言葉に千紗は俯いた。そして表情が曇った。


「お父さんが許してくれるか……」

「怒ってんのか?」


 千紗は小さく頷いた。

 千紗の父は百花が死ぬ前に書いた手紙が封を開けられずに返って来たことに激怒した。それこそ葬式で親戚中から止められるほどに暴れた。当時高校一年の千紗は父の取り乱した姿を目の当たりにしていた。それを恭介に話した。


「いっぺん聞いてみるわ」


 そう言うと千紗はその場で父に電話を掛けた。しかし電話口で父は激怒した。それを宥める母の声も聞こえた。事情を説明しても取り合ってくれなかった。


 ここから千紗と恭介の付き合いが始まった。

 忙しい合間を縫って会っては、父に電話を掛け、説得し、電話を恭介に変わって直接話をさせようとする。しかし取り合ってもらえず。これを繰り返した。同じ事務所なので万が一を考えて事務所の近くで会うようにした。どちらもまだこれからとは言え週刊誌対策だ。


 二人は父の説得ができないまま帰省の日程を合わせた。そして二カ月以上の説得を要してようやく父が電話で直接恭介と話をし、墓参りの許可が下りた。

 出発前になんとか許可が下り、二人は心置きなく八月二十二日から恭介の運転する車で大阪へ帰ったのだ。千紗は自分の実家に一泊し、恭介も四年以上ぶりに帰った自分の実家に一泊した。墓参りの目的が達成された二人は今後連絡を取ることはあっても特別用もなく会うつもりはない。


「家庭の話やからなかなか人に言えんくて。李奈にも」

「そういうことだったんだな。だからうちの問題って。うちって家のことか」


 話を聞いたタスクは納得した。ちなみに封を開けられていない手紙を送り返したのが自分だとここで気づかないのがこの男の鈍さである。


「先生、葵さんとの今後の関係は?」

「元カノ。元マネ」

「男女の距離は取る言うこと?」

「うん」

「わかった。うちはもう聞きたいこと聞けた。先生他には?」

「もう大丈夫」

「李奈呼んでくるわ」


 千紗は李奈を呼びに行った。李奈は二人の様子を見て安心した。ただここまで来てまだ結ばれない二人に呆れてもいた。


「仲直りしたんやから手くらい繋ぎぃ」


 二人の背中を見送る李奈が冷やかすように叫んだ。千紗は振り返らずにタスクの一歩前を歩く。そして最初の路地を曲がった。すると千紗が立ち止まった。


「ん」


 千紗は喉を鳴らして言いながらタスクに手を差し出している。


「え?」

「李奈が繋げ言うたから。今日だけやで。先生と恋人いうわけちゃうからな。勘違いすんなや。うち好きな人おんねんからな。李奈が言うたからしゃーなしやで」

「わかってますよーだ。じゃぁ失礼します」


 タスクは千紗の手を握った。千紗はその手をしっかりと握り返した。


「週刊誌に撮られないといいな」

「今すっぴん部屋着やから大丈夫やわ。それにまだ名前売るんもこれからのドラマーと覆面作曲家やぞ。追われとらんわ」


 そう話しながら二人はタスクの部屋に帰った。そして千紗は念願の一服をした。


「は? 今なんて言った?」


 二人が煙草を吸い終えた後に言った千紗の一言にタスクは驚きの声を上げた。


「二度も言わすな、アホ。仲直りのちゅうや。仲直りのちゅうせぇ。先生と李奈とは同時に喧嘩してもうたんや。せやから先生ともせなフェアやない」

「本気かよ?」

「勘違いすんなよ。今回は特別やからな。恋人いうわけちゃうからな」

「わかってるよ」


 タスクはベッドを背もたれにして床に座り、足を伸ばしている千紗に顔を近づけた。四つん這いの格好で尻を突き出していて間抜けである。そしてお互いの唇が触れた。

 唇で二人の煙草の味が混ざる。


 タスクは千紗の唇に長く触れると離れた。


「長いわ、アホ。調子に乗るな」


 そう言われてタスクは頭をはたかれて、いや、どつかれてしまった。

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