2.風呂場での問答

 八雲に包丁を突きつけたあやかしが今晩再び戻って来るとは考えにくかったが、念のためミコトは八雲を家まで送り届けてから帰宅を果たした。

 母の静江はまだ学校で仕事が残っているらしく、夕食は祖父の平造が代わりに用意しておいてくれていた。

 とはいえ、祖父もさほど料理が得意というわけではないので、おかずは商店街で買って来たであろうメンチカツと空心菜の炒め物などといった出来合いの惣菜ではあったが……。


「ケモノ臭ぇな……」


 食事を終えてから平造はそんな事を呟いた。

 だが、ミコトに目を合わせるでもなく、いつものようにタバコを咥えながら何やら古い文献に読み耽っている。

 ただの独り言かとも思ったのだが、


「ミコト……ちゃんと風呂入れよ?」


 と、明らかにミコトに対して言った言葉であった。


「あ……うん……」


 ミコトは怪訝な顔をしながらも自分の腕や脇の匂いを嗅いでみるが、別にこれといって変な匂いはしなかった。

 しかしまあ、ミコトだって年頃の女の子である。「ケモノ臭い」などと言われたら気になるのは当然というもので、さっさと風呂に入る事にした。


 筑波家の風呂は青タイルの壁に、床は古風なマーブル模様のはめ込み石。

 隅っこには、どこぞの銭湯に置いてある様な解熱剤の名前が書かれた黄色い桶と椅子が置かれている。こんな物をいったいどこで手に入れたのかとミコトも未だ知らずにいる。

 風呂場が狭い事もあり、バスタブもかなりサイズは小さい。小柄なミコトでも手狭に感じられる程で、もう一人、幼児くらいならギリギリ入る事が出来そうという容積だ。


「ふいぃ〜」


 全身を洗って湯船に浸かると思わず気の抜けた声が出る。

 今日は色々とあり過ぎて、今になってドッと疲労感が襲って来た。


「クズ……さっきのあやかしって何だったんだろ? 暗くて姿がよく見えなかったんだけどさ……何だか子供みたいな声だった」


 思い出そうとするように目を細めて天井を見上げる。その拍子に頭に巻いているタオルが外れそうになったので手で押さえた。


「ふむ……おぬしは気づいておらなんだか。先程、おぬしの祖父が呟いたひと言が良いヒントになっておるのじゃがのう」

「ん? ケモノ臭いって事?」


 言われてみればケモノに触れた覚えは無いし、あるとすれば先程のあやかし以外に無いだろう。


「まどろっこしい言い方しないで、何だったのか教えてくれても良いだろ?」


 退屈しのぎにタオルを取ると湯船に浸けて空気を含ませ、風船のような形に膨らませる。底から空気が漏れて、ポコッと泡が弾けた。


「奴も化け狸じゃよ。もっとも……伊予とは異なり、純粋な化け狸じゃがな」

「じゃあ、さっきのヤツ……あの大きさで狸の姿してたのか?」


 背丈は八雲とほぼ同じだった。普通に考えれば、動物のタヌキとはサイズが随分と異なる。


「そうじゃなぁ……。彼奴ら化け狸は本来の姿、半獣の姿、そして人間や他の器物といった姿に化けられるものでな。大半の化け狸は半獣の姿までしか化ける力を持っておらぬが、稀に変化へんげの術を極めた者が人間を含め、様々な物に化けられると言われておる。先程の化け狸は半獣の姿までしか変化する事が出来ない者のようじゃな」

「その……半獣の姿って、例えば信楽焼しがらきやきの狸みたいなヤツか?」


 ミコトは店先などに置かれている笠を被った狸の置物を想像していた。


「まあ……確かにあの姿が一番近いやもしれんな」

「あれなのか……」


 ミコトは苦り切った顔をして「うえっ」とばかりに舌を出した。

 置物ならば可愛げもあるが、あれが動いて喋るとなると些か不気味なものがある。


「しかし解せんのは、何故なにゆえ、化け狸があのような事をわざわざミコトに言いに来たのか……という事じゃ」

「伊予に関わるなって言ってたな……」


 眠気とややのぼせて来たのもあって、少し頭がボーッとして来た。

 ミコトは湯船から出ずに、その場で立ち上がると、火照った身体を冷まそうと窓を開ける。

 窓の外には庭の家庭菜園が広がっていて、その向こうに見えるのは物置き小屋だから、誰かに裸を見られる心配はない。

 そして窓の桟に両腕を置いて、その上に顎を乗せ、吹き込んで来る夜風に当たる。


「はぁ〜」


 学校では決して見せる事のない、実にだらしのない顔をして息をついた。


「伊予に関わるなって言われても、向こうから寄って来るからなぁ。それに……伊予に関わるなって言ってる以上、さっきの化け狸って伊予の正体も知ってる可能性が高いよな?」

「十中八九そうじゃろうな。しかし、そうなるとますます解せぬ」

「何で?」


 クズの話に集中しているのか、いないのか……。ミコトは疑問を投げかけながらも「もう少しナイスバディにならないかなぁ?」とでも言いたげに自分の胸を寂しそうに見下ろしながら、フニフニと弄んでいる。


「伊予はあの太三郎狸の末裔じゃ。ならば化け狸達にとっては英雄にも等しい。にも拘らず、困っている伊予に関わるなというのは理解し難い事じゃ。助けてやってくれと言うのなら分かるがな……」

「じゃあ、ひょっとしたら伊予が危ないかもしれないんじゃないか? 化け狸も一枚岩じゃないって事かもしれないだろ?」


 しかし、クズはその仮説も釈然としないものがあるのか、「ううむ……」と唸る。


「本来、化け狸達の結束は固いものじゃからな。伊予の身に危険が及ぶ事は無いと思うが……」

「ふ〜ん……。だったら今考えたって仕方な……ヘクチッ!」


 話を打ち切ろうとしたところで、『狂犬』には似つかわしくないクシャミをする。

 全裸のまま夜風に当たり過ぎたようだった。

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