一鈴の絆 ~化ノ国物語~

木林藤二

第壱話 死中での出会い


 貞享じょうきょう某年(五代将軍 徳川綱吉の時代)、とある夏の夕暮れ。


 西の空は漆黒と茜色に混ざり、日は雲にとけ込みながら沈もうとしていた。

 うす暗く人気の無い川岸で、一人の男が川に向かって何かを投げ入れている。


──猫流しだ。


 目が開く前に産まれた子猫を川に流すのだ。この男の家では雌猫を飼っていたが、子が多く産まれた為、やむなく川へ流すことにしたのだ。雌猫は鼠を捕ることで評判の猫であったが、数年前に制定された『生類憐みの令』によって集落の猫の数は飽和していたのだ。目が開く前に川に流せば神に魂を返上したことになる、この辺りの里では昔からそう言い伝えられてきた。身勝手な人間の解釈だが、そうでもしないと今度は自分達の暮らしがままならない、そんな時代だった。


 本来なら『生類憐みの令』によって禁じられる筈の風習。このような辺境の地ではやむなしとして目を瞑られることも少なくは無かったのである。



 男が川に猫を投げ入れる様を、じっと橋の上から眺める一人の少女。


 彼女の名は莉緒りお、両親は物心がついた時からいない。遠い親戚をたらい回しにされ、男の家へと身請みうけされた。男の家も決して裕福ではない、また近いうちに他所へやられるのであろう。莉緒自身もそう考えていた。


 今日は男が猫流しをするというので一緒について来た。親猫に子が産まれた時は、莉緒も家の一人娘と一緒になって喜んだものだ。しかし男は既に貰い手が尽きたと考え、川へ流すことを決意したのだ。娘を連れてこなかったのは、悲しむ娘に邪魔されないように済ませようとした為。立場上反対できなかった莉緒は、せめて最後くらいは、とついて来たのである。


 川に猫を投げ終えた男が橋まで上がってきた。男は莉緒の隣に立つと川に向かい手を合わせる。そして動こうとしない莉緒に帰ることを告げ、歩いて行った。


 一人残された莉緒は橋から川岸に下りると下流へと歩き出す。辺りは既に薄暗く、真っ黒な水が流れる川を見つめながら想いをせる。


──私も猫に生まれればよかったな……。


 もし猫に生まれ、川へ投げ捨てられたならこんな寂しい思いはしなかったのに。

 お前達、人間にだけは生まれるんじゃないよ。


 そうだ、もし生まれ変われるなら燕がいい。

 燕なら自由に遠くへ飛んでいける。

 鉄砲で撃たれることも無い。


 捨てられた猫はもうみんな沈んでしまっただろう。莉緒は川に向かって手を合わせ、目を瞑った。

 さて、帰ろう。今頃は男の娘が遊びから帰ってきて、子猫がいないと泣きわめいてる頃だ。一体何と言ってなだめれば良いのだろう。


 そう考えながら川を後にしようとした時だった。


 莉緒は川の上流からぱちゃぱちゃと水の跳ねる音を聞いた。あゆでも跳ねているのか、そう思って振り返ると川の中央に必死でもがく子猫の姿が。


(…あの子で最後か。苦しまずにと思ったけど運が無いな。この深さだ、流れが急じゃなくても時期沈む。成仏するんだよ)


 莉緒は子猫から目を離さない。なぜか最後まで見届けようという気になり、子猫をじっと見つめていた。

 しかし子猫はなかなか沈もうとはしない。水に潜ったり浮かんだりしながらもがいている。


(……莫迦ばかな子だ! さっさと苦しまず沈んじまえ! 生まれたばかりのお前に一体なんの未練がある?!)


 流石に見ているのが辛くなる。石でもぶつけて沈ませようかと思い、辺りを見回した。


 そうこうしているうちに……。

 なんと子猫はもがきながらこちらへ向かってくるではないか!


「まさか…」


 そして遂に川岸のそばまで子猫は泳いできてしまった。思わず衣のすそをまくり川に入る。子猫をすくい上げると手拭いで包んだ。


「……おまえってやつは!」


 手拭いに包み、体を優しく拭いてやる莉緒。子猫は小刻みに震えながら口で一生懸命息を吸っていた。あまりにも小さい、だが何という生命力だろうか。ただ一心に『生きたい』という想いが川岸へと運び、莉緒に助けさせたのだ。


「しかし困ったな、おまえにはもう帰る家が無いんだよ」


 家の男に事情を話し、改めて貰い手を探させようか。そう考えて家路に帰る途中、声が聞こえた。

 それは泣き腫らした顔で莉緒を迎えに来た、男の一人娘の声であった。

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