3.封印者

 ジェフ・キャスリンダーも、ヴァネッサ研究室ゼミナールという場所を徐々に理解してきた。

 研究室のメンバーと行動を共にする上で、守るべきルールがいくつかある。


 その一つは、研究室のドアを開けるときの注意点だ。

 内側から飛び出してくる「何か」に備え、ドアは慎重に開けること。さらに言うなら、ドアの前に立つ際には耳を澄ませ、気配を探り、異常がないかどうか確認した方がいい。

 実験に失敗したエレノアや机や爆炎が飛び出してくるかもしれないからだ。


 ――だが、十分な注意を払っていても、それでもなお被害を受けることはある。

 それもまたヴァネッサ研究室ゼミナールのルールであり、この日がまさにそうだった。


「わ」

 一瞬、大型犬かと思った。

「あ――」

 ドアから飛び出してきたのは、そのくらい小柄な一人の少女だった。

「あああぁぁ――ひゃあああ――――!」

 長く尾を引く叫び――歓声とも雄叫びともとれるような声をあげながら、少女が突進してきた。ジェフはかわしそこねた。

 というよりも、回避を選択することができなかった。

 背後にはメリーがいて、ジェフが飛びのけば彼女に激突することは明白だったからだ。


 結果、ジェフは彼女の突進を受け止めることになる。

 半ば反射的に体を旋回させ、反撃の右肘を打ち付けようとしたところで自制する。

 ――この相手は、竜ではない。


 つまりジェフは極端に体のバランスを崩したため、いともたやすく転倒した。

 衝撃とともに、腹の上に何かがのしかかってくる感覚。

 この学園に来てからというもの、こういう流れになるケースが多い。もはや慣れてしまったと感じるほどに。


「あ、あー。もう。なに?」

 ジェフの腹の上に乗った少女は、ぐしゃぐしゃにもつれたブラウンの髪をかきむしった。

「ジェフ! 何やってるの、そんなところで?」

 少女は笑った。おかしくてたまらない、といった風に。

「ドアの前で寝てると危ないよ!」

 彼女はただ小柄なだけではなく、見た目も相応に幼い――十歳には達しているだろうか。実際、この学園の生徒としては、ジェフが知る限り最年少の存在ではある。


「ミシェル」

 ジェフは彼女の名を呼んだ。

 この幼い少女の名を、ミシェル・リヴァーズという。ジェフが所属するヴァネッサ研究室ゼミナールの、長らく謹慎中であったクラスメイトだった。

 ダルハナン・ウィッチスクールにおける、最年少入学記録を更新した『天才』の一人。

 生まれつき多大な魔力価を保有しており、震月マハの申し子とすら呼ばれているという。震月マハとはこの大陸から観測できる五つの月のうち、小さく赤く輝く、魔導士たちの守護月とされている天体のことだ。


「そこをどいてくれ」

 ミシェルに対して、ジェフは論理的な交渉を試みることにした。

「きみは竜より軽いが、この状態では俺が立ち上がりにくい」

「んん」

 ミシェルは動物的な唸り声をあげ、そしてまた笑った。

「やだ。そんなところで寝てるジェフの方が悪いよ!」

 ジェフの腹の上で飛び跳ね始める。この少女の行動原理は、まったく理解しがたい――ジェフは思う。彼の上で飛び跳ねるのが、それほど愉快な娯楽なのだろうか。


「ミシェル。そもそも俺がここで寝ているのは、きみが――」

「そこまでです」

 ミシェルの体が不意に持ち上げられ、ジェフの腹が軽くなった。

「ミシェル・リヴァーズ。警告します。継承者マスタージェフを煩わせないように」

 銀髪の少女が、ミシェルを抱え上げていた。ミシェルはもがこうとしたが、無意味な抵抗だ。近くの地面へやや乱暴に下ろされる。


 そうして銀髪の少女――スリカ・ヤヴォンは、祈るように深く頭を下げた。

「遅れて申し訳ありません、継承者マスタージェフ。私の不注意でした。御身に怪我などありませんか?」

「すまない、スリカ」

 ジェフは灰色のマントを払い、立ち上がる。

「感謝する」

「もったいないお言葉です」


「っていうか、スリカさん」

 メリーは少し気味が悪そうにスリカを見ていた。

「いつから、私たちの背後に……?」

「食堂からお傍に控えていました。万が一にも、あのモニカ・シュルツが継承者マスタージェフに危害を加えては一大事なので」

「は、はあ……スリカさん、なんか怖いんですけど。私、ぜんぜん気が付きませんでした……」

「それは問題ですね、メリー。あなたも修練してください。継承者マスタージェフの御身を守る上で、こうした技術は重要です」

 スリカは至って真剣に、メリーを見つめた。そこには、敵意や不快感の類はない。少し前とは大きな違いだ、と、ジェフは思う。


 あの《小遠征》が終わってからというもの、メリーに対するスリカの態度は変わった。

 ジェフは知らないが、ワイバーンとの交戦時、彼女らも別の敵と遭遇していたらしい。スリカが言うには、そこでメリーが『無視できない攻撃性能』を発揮したのだという。

 それ以来、スリカはメリーをなんらかの同志として扱っているようだった。


「スリカ、もういいから下ろして! はやく!」

 ミシェルは足をばたつかせて抗議した。

「私、忙しいの。宝探しに行かなくちゃ」

「宝探しか」

 呟いてみて、ジェフは思い出す。そういえば、スノウがそのようなことを言っていた。

「なんだ、それは?」


「――そう! よく聞いてくれました、ジェフくん!」

 教室の内側から、かなり興奮した声が飛んできた。

「私、宝の地図を見つけてしまったみたい! 早く来て、メリーちゃんも、スリカも。一緒に作戦会議しよう!」

 そこには満面の笑みを浮かべたエレノアが仁王立ちしており、机の上に古めかしい羊皮紙を広げている。その傍らではユリーシャが苦々しげな顔で腕組みをしていた。


「あまり本気にしない方がいい」

 ユリーシャは首を振った。

「エレノアのいつもの発作だ。学園のガラクタ部屋から、また奇天烈なものを見つけたようだ」

「そんなことないよ、ユリーシャはいつも非協力的だなあ」

「いつもひどい目に遭うからだ」

「今回こそは、本物っぽいんだってば。わかる? なんと伝説の彫金師、《封印者》ヴィルマの工房が――」


「ヴィルマ?」

 ジェフはその人名に反応した。そうせざるを得なかった。

「ヴィルマ・カーラギス?」

「そう! 知ってるね、ジェフくん! さすが!」

 エレノアは嬉々としてジェフを指差した。

「伝説の九人の英雄の一人。いま現在に至るまで最高の彫金師! 彼女の工房が、この学園に隠されているんだって!」

「――そうか」

 嬉しそうなエレノアとは対照的に、ジェフは深刻な表情を浮かべた。


 ヴィルマ・カーラギスならば知っている。

 確かに伝説の英雄の一人――会ったこともある。ジェフの杖を作ったのも彼女だった。老師、グラム・キャスリンダーはヴィルマを評して「さまよえる猛毒の嵐」と表現した。

 彼女の工房ならば、非常に危険なことになる。


――――


 ヴィルマ・カーラギスは五百年ほど昔の時代の英雄だ。

 叡智と慈愛に溢れた魔女。


 大陸の半分が未知なるものに覆われていた頃、人は神々とともに、荒れ狂う《拒絶者》たちと戦っていたという。

 伝説が語るところによれば、その戦いに終止符を打ったのが九人の英雄だった。

 彼らはそれぞれの力を振るい、《拒絶者》を滅ぼした。


 ヴィルマは特に《しるし》を道具に刻む力に優れており、いくつもの強力な武器を作り出したとされている。

 そして同時にヴィルマ・カーラギスとは、《拒絶者》たちの武器を奪い、これを封印した存在でもあった。

 最終的に本人は鋼の甲冑に《しるし》を与え、自らの精神をその内側に封じ、永遠の時を生きているとも噂される。


 ――ジェフはそれらが、おおむね事実であることを知っていた。

 違うのは「慈愛に溢れた」という部分、それから「鋼の甲冑に精神を封じた」という点だ。彼女が精神を封じたのは、小さな黄金の彫像だ。


「つまりね、《封印者》ヴィルマは数々の工房を持っていたんだけど」

 エレノアは羊皮紙に指を乗せ、慎重にそこに描かれた図を辿る。まるで、小さな生き物を撫でているような、いっそ愛おしげですらある手つきだった。


「この学園――旧城塞の地下深くにも、その工房があったっていうこと!」

 エレノアはひどく興奮しているようで、その喋り方は異様な早口だった。聞き取るのにも苦労する。

「もともとこの学園って城塞だったでしょ? じゃあその城塞がなんでここに築かれたかっていうの、私、気になってたんだよね。でも、この地図を発見してわかっちゃったんだ。この地下にはヴィルマ・カーラギスの工房があって、その秘密兵器か何かを利用するために、城塞を建設したんじゃないかなって」


「すごいね! エレノア!」

 ミシェルが飛び跳ねた。

 彼女は単にエレノアの興奮が伝染しているだけなのではないか、とジェフは思う。エレノアの説明の半分も理解しているかどうか。

「秘密兵器だって。私、すごく見たい! 見たいな!」


「いや、まあ、その……エレノアさんの仮説が正しいとして、ですね――」

 メリーは気が進まなそうに、エレノアが撫でている羊皮紙を見下ろす。疑惑に満ちた視線だった。

「さらに百歩譲ってついでに、この地図? が、信用できるとして――」

 疑惑の視線が、徐々に困惑に変わっていく。

「エレノアさん、これ読めるんですか? 私には単なる落書きにしか見えないんですけど」


 メリーの言うことには、一理ある。

 ジェフも同感だ。

 エレノアが「地図」だと主張するこの羊皮紙には、一頭のイノシシのような、獣を思わせる存在が大きく描かれている。ひどく下手な落書きのようだ。鼻先や背中のあたりに、いくつかの丸印が点々とあるが、意味は不明に思える。

 これのどこが「地図」なのかわからない――普通に考えれば。


「だって、地図だよ。これね、ここ。書いてあるでしょ」

 エレノアの指が、羊皮紙の隅をつつく。

「ヴィルマ・カーラギス。これは工房の地図です。有望な後進のために、ここに封じます、って。ほら! ヴィルマの《しるし》もある!」

「えええ……あの、すみません。エレノアさん。夢を壊したりしたくないんですが、本人が書いているとは限らないんじゃ……」


「無駄だ、メリー」

 諦めきった呟きを漏らしたのは、ユリーシャだった。

「それは私もさっきエレノアに指摘した。だが」


「可能性があるなら、探してみる!」

 エレノアは胸を張って宣言した。

「『有望な後進へ』って書いてあるし。もし本物だったら、私、めちゃくちゃ後悔すると思うから! それに――ちょっと閃いたこともあるんだ!」

「おおおー!」

 ミシェルが飛び跳ねながら歓声をあげる。

「エレノア、すごい! もう場所わかる? 秘密兵器どこ? 見たい!」


 盛り上がる二人をよそに、メリーとユリーシャは顔を見合わせ、まったく同じタイミングで首を振った。

 スリカは無言のまま後退し、ジェフの背後へ隠れるように位置取りを変える。

 三者ともに、関わりたくないという意思が透けて見えるようだった。


「だからね、ジェフくん!」

 エレノアは唐突に振り返った。

「私、宝探しをしたいな。……一緒にどう?」

「わかった」

 ジェフは即座にうなずいた。

「協力しよう。一刻も早い捜索が必要だ」

「おおっ! すごいやる気!」

 エレノアが両手で握りこぶしを作り、空に向ける。メリーとユリーシャは同時に口を大きく開けた。驚愕を意味する表情だったと思う。


(やむを得ない)

 ジェフには思い出すことがある。

 ヴィルマ・カーラギスという魔女についての記憶だ。

(この地図のような、一種悪ふざけのような記述――)

 ヴィルマならば、やりかねない。むしろ、喜んでやる。

 ジェフにはそうした、確信めいた予感があった。


(そして彼女が封印した工房があるとすれば、そこには)

 ジェフは無意識のうちに、ベルトに吊った黒檀の杖へ手を伸ばしている。

(大きな脅威が『封印』されているだろう)

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