13.呪界結線
奥へ向かうにつれ、洞窟は下り坂になっていた。
かなり急な傾斜もあったが、ユリーシャの灯した魔法の照明を頼りに、それなりの距離を下ったように思う。
幸いにも、トロールともすれ違うようなことはなかった。
緊張と疲労から、誰もが言葉少なになっていった――こういうときこそよく喋るスノウは、洞窟に入りたがらず、後で空から追いつくつもりのようだった。
ジェフの感覚で、そのまま十五分は歩いただろうか。
行く手に光を感じ、わずかに足を速めたたとき、唐突に視界が開けた。
「おおおー」
エレノアが真っ先に踏み出して、感嘆の声をあげた。
「すごいね、これ! 見てよ!」
籠手に覆われた右手を、目の上にかざす。傾きかけた陽光は、暗がりに慣れた目にはまぶしすぎた。
奇妙な地形だった。
峡谷からビター・スケイル川に向かって張り出した、岩棚の一種といえるだろう。それもかなり広く、一面が植物に覆われている。
岩棚の一つが、小さな森を形成している――そういう場所だった。
覗き込めば、ビター・スケイル川の碧い流れが見下ろせた。
「ほんと、すごい元気ですよね……エレノアさん……」
エレノアと対照的に、メリーは極度に疲労しており、とても景色を楽しむ余裕をないようだった。
「っていうか、疲れとか感じたことないんですかね、あの人……なんか特別なマッシュルームでも召し上がってらっしゃるんじゃないですか……? 私とか、もう、限界なんですけど……!」
「きみのは、単なる体力不足だと思う。もう少し鍛錬が必要だ」
ジェフは正直な感想を告げた。
事実、ユリーシャもスリカも、彼女ほどには疲れていない。スリカは涼しい顔でジェフの背後にたたずんでいるし、ユリーシャも周囲を警戒しつつ歩き出している。
「ここは、《巨人の歯》の一つだな。あの洞窟がここまで繋がっていたとは」
ユリーシャが呟いた。
「ビター・スケイル川を覗き込む、多数の岩棚。本来の目的地に近づいてはいるが――ここを下るのは、骨が折れるな」
「うん、まあねえ。私が即席の箒を作ってもいいんだけど」
エレノアも困ったように笑い、崖の縁から下方を覗き込んだ。かなり遠い。
「この高さを安全に飛んで下るなら、ちょっと気合い入れて作らないと……時間かかりそう」
「そして、その必要も、恐らくない」
慎重に進めていた、ユリーシャの歩みが唐突に止まった。
「これだ」
かがみ込み、杖の先端で指し示す。
その一帯は、雑草が意図的に抜き去られており、土が露出している。そして、大きな《しるし》がそこに刻み込まれていた。
「明白な証拠だな」
雨が降ったくらいでは消えないよう、黒い松脂のようなものが塗りこまれている。さらに《しるし》の周囲を囲むように配置されているのは、鉄製の杭だった。人間の腕ほどの長さがある杭。
見たところ、その一本一本にもさらに《しるし》が刻まれているらしい。
「なるほど」
ジェフは《しるし》の一部に触れ、そこに残った
ばらばらになった部品のいくつかを手に取ることで、完成品を推測するようなものだ。
「恐らくは『熱狂』と『成長』の
「ん。ああ――私もそう思う」
少し驚いたような顔で、ユリーシャはうなずいた。
「よく推測できたな。かなり散逸していたが――まあ、その通りだろう。トロールどもはこの《しるし》で生み出されていたようだな。そして、この杭も」
やはり慎重な手つきで、彼女は鉄の杭を抜き取っていく。
「呪界結線、と呼ばれていた。旧帝国の技術だ。生物に《しるし》を与えるときに、直接突き刺して使う――現在の王国章典では使用を禁止されている。これだけで十分な証拠になる」
杭はハンカチで包み、ローブに収める。几帳面に、一本ずつ別々に。続いて、今度は紙の束を引っ張り出し、スケッチを始めた。
「この《しるし》も模写していこう。これを施したものが何者か、特定できる」
《しるし》の形は、指紋に似ている。
個人によって生まれつき決まっていて、成長につれて多少の変化はあるものの、同じ《しるし》を持つ人間はいない。
よって《しるし》さえ特定できれば、それは有力な手掛かりになるはずだった。
「かなり複雑な《しるし》だな。少し時間をくれ」
それだけ言って、ユリーシャは真剣な目つきで筆を走らせる。黒々とした墨が、紙の上に繊細な模様を描いていく。
「――ユリーシャがああなると、長いから。人の話も聞こえなくなるし」
エレノアは、すでに草の上に腰を下ろしていた。
「少し休もう。それがいいよね。メリーちゃんとか、限界っぽいし」
「すみません……」
崩れ落ちるように、メリーはその場に座り込んだ。そのまま倒れ込みそうになって、どうにか両手で体を支える。
「み、水……水、飲まないと……! 死ぬ……死んで怨霊になってしまう……!」
背嚢を探って、水筒を引っ張り出す。そうして水を注ごうとしたところで、ジェフを振り返った。
「あ。そ、そ、そうだ……ジェフさんも、飲みますか? うちの実家から、ぬす……あっ……そう。持ち出して来た高級なキヴカなんですよ。いっぱいあるので、よろしかったら……!」
「わかった。小休止だな」
ジェフはうなずく。老師との訓練でも、水の重要さは嫌というほど教えられた。
思い出すのは、荒野でのこと。一かけらの食料だけを持たされ、水源を求めて、北部のルクーン砂漠を彷徨った。あれほど死に近づいたと思ったことはない。
その経験から、ジェフは思い知っている。
水を分け合うというのは、命を分け合うにも等しいことだ。
「ありがたくいただこう」
ジェフは礼を言って、メリーの
「――どうぞ。《
彼女の手中にあるのは、水の注がれたコップだった。
「北部の葉を使った
「そうか」
確かにその
「いや――いやいや、いや!」
だが、ジェフが何かを返答するより速く、メリーが自らの水筒を押し付けるように差し出した。
「私の、これ! これは非常に高級な、貴族の間でもあんまり流通してないやつなんですから。こっちを飲んだ方がいいですって……!」
「ふ」
と、スリカがかすかに鼻を鳴らした。あるいは、嘲笑したように聞こえたかもしれない。
「高級だからといって、味が良いとは限りません。特に貴族は、高価なものを特別視する傾向があります」
「あっ」
メリーの顔がひきつった。
「ヒ、ヒヒッ! いま言いましたね! 王都グルメ研究会員である私に対する宣戦布告ですよ! 絶対にこっちの方が美味しいですからね!」
「そうですか。しかし《
「ううううぐぐぐぐ」
ついにメリーの喉の奥から、異様な唸り声が響き始める。スリカを呪うように睨んでいた。
ジェフは彼女を落ち着かせるべく、発言しようとしたが、何を言えば彼女が落ち着くのかまったくわからなかった。
(と、いうより)
どちらの
(何か問題があるのか?)
考えたが、推論すら立てることができない。どちらかが毒を入れているわけでもあるまい。ならば両方飲み干すだけのことだ。
危うく、ジェフはその提案をするところだった。
片手を上げて発言しようとした――その直前で、救われた。
「ええい――もう、静かにしてくれ!」
このとき怒鳴ったのはユリーシャで、筆をへし折りそうなほどに握りしめている。
「スケッチに集中できない! 休憩をとるのは構わないが、いまは切迫した状況にあることを理解してくれ。急がなければ危険だ!」
「う、あの、でも、それは」
口ごもりながら、メリーが何か言おうとする。しかしユリーシャは全く聞く耳を持たない。
「とにかく静かにしていてほしい! すぐに終わらせるから! そんなに騒いでは、いつ他のトロールどもに気づかれるか――」
「いや」
ジェフは片手でユリーシャの発言を制した。
小型の生き物の気配には疎いが、これだけ大量ならば、ジェフにもわかる。
「もう遅いらしい。来ている」
「そのようですね」
スリカもまた、首筋の入れ墨を撫でながら立ち上がっている。
「《
「へえー。私たちを?」
エレノアは、場違いに間延びした呟きを口にした。
「なんでだろ? そんなに注目されてるのかな?」
声には緊張感の欠片もないが、すでに戦闘態勢になっている。籠手に覆われた右手を開閉すると、手の平に淡い緑の《しるし》が輝く。
「な、なんです、あれ?」
メリーは杖を握りしめ、洞窟の方向を指し示す。
毛皮に覆われた巨体の群れが、その暗がりから走り出てきていた。
「さっきまでのトロールより、なんか、やたら強そうじゃないですか!」
彼女の言う通り、先ほどまで相手にしていたトロールとは背丈が違う。頭一つ分は大きいだろう。両腕はいっそう長く、鉤爪が生えている。吠えるように口を開くと、牙が生えそろっているのがわかった。
彼らは陽光の下に出ると、わずかに戸惑うようによろめいた。
が、それも束の間のことで、大きく首を振ると再び動き出す。跳ねるように向かってくる。
「まずいな。今度は成体か」
ユリーシャは一人、前へ進み出る。表情には怯えと不安が少しずつ混じっていたが、決して焦りの色はなかった。
これが本来の彼女なのだろう。
「みんな、固まれ! さっきまでの幼体よりはるかに強いはずだ」
「は、はるかに強いって」
本人でも、間の抜けた質問だと思ったのかもしれない。メリーは一瞬黙ったが、結局はその先を尋ねていた。
「ど――どのくらい、どういう風に強いんです?」
「すぐにわかる」
ユリーシャの構えた杖の先端に、赤い光が灯った。
――――
生徒会長、コーデリア・マーレイは、押し寄せる報告のすべてに目を通さなくてはならなかった。
引率の一人としてこの『小遠征』に同行することになったときから、奇妙な予感はあった。
今年の新入生には、ジェフ・キャスリンダーがいたからだ。
果たして、予感は現実のものとなった。
開始からわずか一時間ほどで、森林の入口に設けられたテントへは、「異常事態発生」の連絡が間断なく押し寄せていた。
気にかかるのは、ユリーシャのことだ。ユリーシャ・マーレイ――彼女のただ一人の妹。彼女とジェフの
できれば自分で探しに行きたい、というのが本音だ。
だが、いまは私情を挟み、保護されるべき生徒に優劣をつけるべきではない。
ゆえに報告にはすべて目を通し、引き上げてきた生徒の収容に全力を尽くす。捜索に関しては、教師陣が全力を尽くしているだろう。
コーデリアは生徒会長として、できることをしなければならない。
「……コーデリア」
この瞬間もまた、黒い巻き毛の女子生徒が顔を覗かせた。
彼女の名を、ケイト・ペラルタという。役職は副生徒会長。ダルハナン・ウィッチスクールにおける、生徒会三役の一人だった。
冷静な思考力と、高い魔導の技術を兼ね備えた、頼れる人物――だが、このときの彼女は、胸を押さえて青ざめた顔をしていた。
こんなことは、滅多にあるものではない。
「何があった、ケイト」
学園への報告書を記す手を止め、思わずコーデリアは立ち上がっていた。
「負傷しているのか?」
「いえ。けど……似たようなもの、ね」
言葉を発するのも苦しそうだった。テントへ入ろうとする足取りがふらつき、転倒しそうになる。コーデリアは慌ててケイトを支えなければならなかった。
「体力を消耗しているな? まさか、きみは使い魔を放っていたのか」
「まあ、ね。当たり。連絡のつかない生徒を、見つけられるかもしれないと思って」
「馬鹿なことを。生徒会としての我々の役目は、あくまでも――」
「わかってる。それより聞いて。私のレナードが――使い魔が、捜索中にやられたの。抵抗する暇もなかった」
ケイトは大きく息を吐き、呼吸を整えようとしているらしい。その試みは、あまり成功しているとはいえなかった。
「強力な魔導士の男がいるわ。恐らく、彼がこの事態の原因ね。通信魔導を妨害しているのも、彼だと思う」
「きみの使い魔が、やられるとはな」
コーデリアは、相手の技量をすぐさま上方修正した。
ケイトは使い魔の使役に関して、学園でも頂点を争う腕の持ち主だった。特に使い魔との同調技術においては、教師陣ですら誰もケイトには及ばない。
そのケイトが、『強力』だと言っている。
「無理をせず、休んでくれ。こちらは、生徒を保護しつつこの森を離脱する。トロールにグリフォン、そして強力な魔導士――いま、この場にいる戦力で戦うべき相手ではない」
「それだけじゃない――」
ケイトは強くコーデリアの肩を掴んだ。残った気力を振り絞って掴んだような力だった。
「私のレナードが、直前に見たの。峡谷の洞穴。うずくまっていたわ」
「何を?」
「間違いない。あれは、きっと」
一度、息継ぎをするように深呼吸をすると、ケイトはその単語を呟いた。
「竜だったわ」
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