10.黄昏のしるし
かなりの距離を、滑り落ちてしまった気がする。
全身の鈍い痛みについて、ジェフはどこか他人事のように把握した。そういう訓練を積んでいる。痛みで思考力が阻害されるようなことはない。
だから、彼の名をユリーシャが必死で呼びかけていることも、いまひとつ現実感が薄かった。
「――ジェフ!」
ユリーシャが顔を覗き込んでいる。
「ジェフ・キャスリンダー! 無事か? 意識はあるか?」
空が見える。どうやらジェフは仰向けに倒れているらしい。
スノウの影は見えないが、トロールが追ってくる気配もない。急斜面を転がり落ちないだけの知性はあるのあろうか。
「頼む、ジェフ。返事をしてくれ」
ユリーシャは泣きそうな顔をしていたが、負傷らしい負傷は見当たらない。せいぜい、こめかみの擦り傷程度のものだ。
どうやら、保護には成功したようだ。
「ジェフ、聞こえているのか? 頼む、目を開けて。私は――」
「問題ない。聞こえている」
ジェフは答えて、ゆっくりと瞬きをした。ユリーシャの表情には、確かに喜びの色が浮かんだ。一瞬だけのことだが、ジェフにもわかった。
「ジェフ! よかった、きみも無事か。負傷はどうだ? 痛むか?」
「多少は。だが、生きている。活動を続行できる――だからユリーシャ。まずはそこをどいてくれ」
「あ」
「若干、起き上がりにくい」
「うっ」
ジェフが体を起こそうとすると、ユリーシャは予想外の素早さで飛びのいた。ひどく気まずそうな顔だった。
「す、すまない。やや慌てていた。……重たかった、だろうか」
「いや。竜よりは軽い。トロールよりもさらに軽い」
「……それと比べるか、きみは」
なぜかユリーシャは少し不機嫌になったようだ。だが、もうジェフは慣れてきた。彼女は基本的に不機嫌なのだろう、と思うことにする。
「だが、本当に無事なのか? この距離を転がり落ちて、負傷はないのか?」
ジェフを見るユリーシャの目は、どこか疑うようだった。それとも彼女なりの、気遣いの視線だっただろうか。
ジェフには判別がつかないので、いずれにせよ正直に答える。
「正確にいえば、多少の骨折がある」
「な、なんだと!」
ユリーシャの血相が変わった。
「それはまずい――まずいぞ。医療魔導は苦手だが、最低限の処置をしなければ」
「問題ない」
「問題だ! こんなところで骨折など、命にかかわる負傷だろう! 患部を見せろ、ジェフ!」
「肩と肋骨だ。だが、やはり問題ない。見ろ」
「うぅわっ! うぃっ! あっ!」
ジェフが衣服の前をはだけると、ユリーシャはのけぞって奇声をあげた。これを聞くのは二度目だ。何かに似ていると思った。ある種の鳥の鳴き声――そうだ。ジェフは北部荒野の、土喰い鳥を思い出した。
「あまり驚くな、ユリーシャ」
「無理を言うな! み、見せろとは言ったが、いきなりそうする者がいるか!」
「悪いが、俺はそうする者だ。負傷が気になるなら見ればいい。すでに治癒しつつある」
「え。あ」
ユリーシャの目が細められた。ジェフの上半身――その表面を凝視する。
「ジェフ……なんだ、それは」
「黄昏のしるし、と、俺のお爺ちゃんは呼んでいた」
ジェフの腹部から胸部、そして背中にかけて、複雑で精緻な《しるし》が入れ墨として刻まれている。炎にも似た、滑らかな曲線で構成された《しるし》だった。
そしてそれは、ジェフの鼓動に応じて銀色に輝き、脈打っている。
「身体機能を強化し、魔力価を増幅する《しるし》の複合体だ。結果として、治癒力も高まる」
「馬鹿な」
その呟きから、ユリーシャの動揺が伝わってくる。
「信じられない。そんな《しるし》を体に常駐させているのか? その手の紋章使いも学園には存在するが――常に作動する《しるし》は――待て。きみは、どんな代償を支払い続けている?」
「色々と」
ジェフは服を戻した。
空腹感と満腹感の希薄化、睡眠障害、寿命――そのほかにも重要な人間としての機能がいくつか。竜を殺す者とは、そういう存在だ。
ジェフはそれを受け入れている。
「馬鹿な」
と、ユリーシャは繰り返した。
「信じられない……いったいどれほどの……」
自らの思考を追い損ねているように、彼女の戸惑いが伝わってくる。
それはそうだろう、とジェフも思う。これほど強力な《しるし》は、もはや竜殺しの間にしか伝わっていない。よほど珍しいに違いない。
「それより、ユリーシャ。これからのことだ。俺の傷は癒える」
「あ、ああ――そうか。この状況か」
ユリーシャは咳ばらいをすると、我に返ったようだ。ジェフの視線を追うように、頭上を見上げた。
「相当に落下したようだな。エレノアたちとは、ずいぶん離れてしまった」
「スノウがいる」
ジェフは周囲を見回し、彼の影がないことをもう一度確認する。
「俺たちの場所を伝えてくれるだろう。が――」
ジェフはユリーシャの腕を掴んだ。
「ここを動いた方がいい」
「う」
ユリーシャは先ほどの悲鳴を、また繰り返そうとしたかもしれない。
が、寸前で堪えた。
「あいつらは、諦めていない」
トロールたちが、斜面からこちらを覗き込んでいるのがわかる。そのうちの一人が、高低差そのものを理解していないのか、空中に足を踏み出すところも見えた。
「落下の衝撃で大半は行動不能になるだろうが、数匹は相手にしなくてはならない。ここでは不利だ。動こう。できれば洞窟のような、狭い場所で戦いたい」
「わかった。だが……ジェフ。いま言っておく」
ユリーシャは、強張った顔で彼を睨むように見た。
「先ほどまでのことは、謝罪する。どうも、少しきみを誤解していたようだ」
「そうか」
ジェフは笑おうとした。表情がうまく動かない。
「お互い、苦労するな。コミュニケーションが不得手のようだ」
「きみレベルだと思うと、すごく落ち込む。止めてくれないか」
傷ついたような顔。
またしてもユリーシャの気分を損ねたようだ――少し改善の兆しが見えただけに、これはジェフにとっても痛手だった。
一瞬、うつむき、そして走り出す。
感情と思考を切り離す――そのように訓練を積んできた。それがまずいのかもしれない、とは、いまのジェフには思い至らない。
背後で、トロールが転がり落ちてくるのが見えた。
――――
《秘匿騎士》フレッド・アーレンは、その死体を見る。
トロールだ。
首がへし折られている。
「あーあ」
フレッドはため息をつく。
「トロールどもめ。こいつらは、本当にちゃんと学習するまでダメだな。これで学園の連中に見つかっちまったか? やるしかないな」
ぶつぶつと呟く。
あまり気の進まないことだが、どうやら彼がやるしかないらしい。《魔人》ダーニッシュいわく、『最初の一撃』を。
どうせ、いつかは来る瞬間だった。
これ以上は、帝国が力をつけるほど王国も力をつける。
その均衡がとれる直前の開始――これは、ちょうどいいタイミングだったかもしれない。他の好戦的な《秘匿騎士》の連中に任せたいところだったが、事態がこうなっては、彼が進めるしかないだろう。
「仕方ないな。閣下も人使いが荒い」
しゃがみこんで、その負傷を見る。フレッドの細い目が、余計に細くなった。
「しかし、こいつは」
砕けた骨に触れる――血液がべったりと指に付着する。
「どうやってやった? この腕力、冗談じゃないぜ」
フレッドの声には、わずかな畏怖が滲む。
「悪魔かよ、こいつは。《
腰のベルトから、杖を引き抜く。滑らかな紫檀の杖。
「学園の秘密兵器かよ――なんなんだ? 一撃で殺してやがる。マジに悪魔だな。つまりお前が、それか」
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