8.緑の峡谷
《緑の峡谷》と呼ばれる峡谷群には、真偽定かならぬ由来の説話がある。
はるかな昔、獰猛な竜が振るった爪によって刻まれた、大地の傷跡であるという。
これは帝国が台頭するよりもさらに昔の時代の伝承であり、ジェフもそれが事実かどうか知らない。
だが、確かなことは一つ――この峡谷群には魔力価を多く含んだ植物が多い。学園の《翡翠庭園》の植物も、その大部分が《緑の峡谷》から移植されたものだ。
濃密な森の空気は、呼吸するだけで魔力価を活性化する、と語る者すらいる。
いずれにせよ、大陸における最大の魔力凝集点の一つであることは間違いない。
「実に素晴らしい、大自然の恩恵ですな」
森の中を歩く道中、スノウはいつになく機嫌が良さそうだった。
「老後はこういう森で気ままに暮らしたいもんです。わかりますかね、この気持ち? 王都は息苦しくていけませんよ」
ただし、ジェフは知っている。スノウが実際こんな森の奥で暮らし始めたら、話し相手に困って三日と経たずに出ていくだろう。
予定の小休止地点までは、そんな風にひたすらスノウの無駄口に付き合う羽目になった。
「――それでは、目的を確認する」
そう宣言したのはユリーシャ・マーレイで、いくぶんか憔悴した気配が声に滲んでいる。彼女の顔つきから判断するに、ここ数日はまともに眠っていないようだ。
危険な状態だな、と、ジェフは思う。
慢性的な疲労は、戦士を致命的に弱めてしまう。あらゆる判断力を鈍らせ、士気を奪う。それが原因で死ぬ者も多い。
「我々はこの小遠征で、全十五の
ユリーシャは地図を広げ、ジェフたち四人の前に掲げてみせた。
「目指すのは、ここ」
その白い指が指し示したのは、谷間の底、並んで生える歯の隙間のような地形だった。森の入口である現在地点からは、かなり遠い。
「《巨人の歯》と呼ばれる、崖の底だ。ビター・スケイル川の豊富な魔力価を、多量に吸い上げた植物が密生している。特にこれだ。ツキヤスリ」
地図の上に重ね、一枚の絵を差し出す。葉の細かい、ひょろりとした植物が描かれている。
「あ、すごい」
エレノアは指先で円をつくり、そこから覗き込むような仕草をした。彼女の右手は、相変わらず武骨な籠手が覆っている。
「《翡翠庭園》で見たことあるよ。このスケッチ、上手だね」
「ありがとう。これは私が描いた。自分でもよくできたと思う」
やや恥ずかしそうに咳ばらいをして、ユリーシャは絵をひっこめた。
「採集するべきは、このツキヤスリという植物だ。《巨人の歯》は到達困難な地点であり、一掴みでも回収できれば高得点が見込める。目標はこれだけに絞る」
「ええー、異形は? 狩らないの? 派手な武器とか用意してるんだけどな」
「不要だ。相手にするべきではない」
驚いたようなエレノアに、ユリーシャはことさら厳しく否定した。その目が、ジェフとメリーを見ている。
「危険性が高すぎるからだ。決して手は出さないでもらいたい。一応、念のために聞いておくが――」
ユリーシャの視線には、ごくかすかな期待があった。
「この三日間、二人とも、どのくらい上達している?」
「あ、ええと」
メリーは金髪の先を、指で弄ぶ。彼女なりに、気おくれする部分があるのかもしれない。
「が、がんばりましたよ。大進歩です。ええ。私は自分の影に片手を上げさせることができるようになりました。もう、自由自在なんです!」
「俺は自分の影を痙攣させることができるようになった」
メリーの後を、ジェフが続ける。
「初日のメリーと同じレベルに追いついた、というところだ」
これには、黙っていたスノウが堪えきれずに笑い声をあげた。
「やりますねえ、若! 驚くべきご成長ですな。夜も眠らずに特訓していただけはあります」
「スノウ、あまりからかうな。進捗が良くないことはわかっている。俺も片手を上げさせるぐらいのことは、できるようにならなければ」
「……わかった。もういい」
ユリーシャの閉じたまぶたに、大きな落胆の色が見えた。深々とため息をつく。
「では、やはり異形との戦いは避ける。目的はツキヤスリの採集。この一点に絞る」
「そ、そうですね。それが良さそうです。その……大天才である私はともかく、ジェフさんには、まだ実戦は早いと思います」
メリーは何度も、自分に言い聞かせるようにうなずいた。白樺の杖を掲げ、ジェフを振り返る。
「ジェフさん、危なくなったら私を呼んでくださいね。絶対に助けに行きますから。チームメイトですからね……約束しちゃいますよ、私……!」
「なるほど。わかった。これが『助け合い』だな」
感銘を受け、ジェフも自分の黒檀の杖に手をかけた。
「俺も約束しよう。俺もチームメイトが窮地に陥った場合、必ず助ける」
「え、ええ? そうですか? ジェフさんに助けられることありますかね? 私、秘めてる力とか、結構強いと思うんですけどね……! ヒヒッ」
言葉とは逆に、メリーはひどく嬉しそうだった。引きつった笑い声まで漏らしている。
心強いことだ、と、ジェフは思う。彼女は強い。前に向かう意志は、常に力をもたらしてくれるだろう。少なくともジェフは老師からそう教わっている。
「よし」
ここは自ら率先して協調性を発揮するべきだ。ジェフはそう判断した。
研究室のメンバーを見回し、できるだけ力強くうなずく。
「みんなで頑張ろう。出発だ。目的地へ向かう」
「その必要はない」
ジェフの宣言は、しかし、即座にユリーシャによって否定された。彼女はずいぶんと思いつめた顔で、はっきりと苛立っているように思えた。
「目的地は峡谷の奥深く、谷底にある。異形に限らず、危険な生き物も多く住む。メリー、ジェフ、きみたちの安全性を確保しながら探索することは困難だ」
「なるほど」
ジェフは素直にうなずいた。魔法の使えない自分は、彼女たちの足手まといになるかもしれない。
「では、皆で協力して――」
「違う。きみたちにはここで待機していてもらう」
ユリーシャの物言いには棘がある。それは明らかにジェフに向けられたものだ。
「エレノア。スリカ。この地点でメリーとジェフを防衛してくれ。私が単独で《巨人の歯》に向かい、資源を回収してくる」
「ええー?」
エレノアは、どこか間延びした驚きの声をあげる。
「ユリーシャ一人で? 危ないよ。それはちょっと厳しいんじゃないかなあ」
「考えた結果、最も勝算の高い作戦がこれだ」
断固とした口調には、やはり疲労の色が濃い。
「研究室のチームメイトひとりでも大きな傷を負えば、それだけで多大な減点要素だ。上位への入賞はまず不可能になる。比較的安全なこの地点で、新入生の二人を防衛するのが最善だ」
「そうかなあ」
「そうだ」
言い切ったユリーシャは、すでにジェフたちに背を向けている。
「ここを動くな。夜までには戻る」
ジェフが止める間もない。木々の間へ踏み込んで、下草を掻き分けながら歩き出す。必要以上に大股で、足早だった。
「取り付く島もなし、って感じですな。おっかないですねぇ」
一瞬の沈黙の隙に、スノウが一人で軽口を叩く。
「あのお嬢さん、いつもあんな感じなんですかい?」
「ううん、あの状態になったユリーシャ、久しぶりに見るなあ」
ユリーシャの背中を見つめ、エレノアは癖のある髪の毛をかきむしった。
「あれは去年の白リボン試験、思いっきり魔法を暴発させたとき以来かな。ああなると大変なんだよね。寝不足だし機嫌悪いし、人の話とか聞ける状態じゃなくなるっていうか。大丈夫かな」
「ぜ、絶対にそれって大丈夫じゃないですよ!」
メリーの声が上ずった。ジェフたちの顔を順番に見る。
「一人で行くなんて――ユリーシャさんって、そんな凄腕なんですか?」
「まあねー。秀才ってやつだよね。魔法の実力なら、同年代でもトップクラスなんじゃないかな……大事な場面で、ああいう悪い癖が出ちゃうんだけど。ね、どうしよっか?」
エレノアは少し迷っているようだった。視線の動きで、主にジェフとメリーを気にしているのがわかる。
「ユリーシャを追いかけたいんだけど、二人にはちょっと危険かも。ここに残っていて欲しいんだけど――いや、やっぱ付いてきてもらった方がいいかな? ここは安全っていっても、比較的っていう話だし――ううん。でも、ええと」
考え始めると、即断はできない。どうやらエレノアはそういう性質らしかった。結局、困りきった笑顔で、もう一度繰り返す。
「どうしよっか?」
「……私は」
やや唐突に、スリカ・ヤヴォンが口を開いた。彼女はほとんど影のように、ジェフの背後に佇んでいた。
「《
「おおっ」
奇妙なところで、エレノアが感嘆の声をあげた。
「スリカが喋った! しかも、自分から意見を……! すごいっ、なんかジェフくんが来てから積極的になった? もっと普段からお話しようよ!」
「はい。その必要があれば」
スリカの反応は冷たく、無機質だった。片手を振ってエレノアをあしらう。
「どうします、《
「一人では危険なんだな?」
その頃には、ジェフはすでに歩き始めている。ユリーシャの去っていった方向へ。
「彼女はチームメイトだ。協力して勝利することに意味がある。俺は追う」
「いやあ、さすがは若。感動しました! お供しますぜ!」
スノウが調子のいいことを言って、ジェフの肩に止まる。感動、というのは間違いだ。スノウの場合は、ただの興味本位に違いない。
一方のスリカは当然のような顔をして、無言で後に続ている。
「あ! 待ってください、置いていかないで! わ、私とはぐれると大変ですよ!」
メリーも慌てて追随する。
「私の眠れる力が必要だと思いますし! 置き去りにされて、万が一のことがあったら化けて出ますからね! 私の怨霊、たぶん半端じゃないですよ!」
騒がしく喋りながら、下草を掻き分けてジェフの背中を追う。
「あー……そうね。結局、みんなで行く作戦になるわけだ。たぶん危険だし、喜ぶのもあんまり良くないとは思うんだけど。まあ、うん」
一人、エレノアはやや遅れて続く。籠手に覆われた右手を開閉し、彼女は少し楽しそうに笑った。
「良かったね、ユリーシャ」
――――
《秘匿騎士》フレッド・アーレンは、闇の中で目を覚ます。
少しだけ明るい。
洞穴の入口から、陽光が差し込んでいるためだ。
「《秘匿騎士》フレッド」
ネルダの声がした。いつの間にか、頭上の岩棚に止まっている。
「侵入者、複数を検知しました。すでに森に入り込んでいます」
「おう。そうかい」
来る時が来た、とフレッドは思う。いくら巧妙に隠蔽しても、ちょっとした偶然がそれを台無しにする。そんなことは何度も経験してきた。
だから彼は欠伸をしながら、あえて気楽に尋ねる。
「どこの誰だ? 近所の猟師ってわけじゃあるまい」
「魔女見習い。ダルナハンの、学生たちです」
「だろうな」
吐き捨てるように言う。
やつらがこの森に、定期的に足を運んでいることは知っていた。呑気な遠足のようなイベントだ。ただし、その時期はもう少し先のはずだった――予定外の何かがあったに違いない。
「それか、あれだな。俺たちがここで悪いことを企んでるのに気づいたか?」
自分で言って、自分で笑う。だが、ネルダはその手の諧謔を理解しない。
「わかりません。調査をお願いします、《秘匿騎士》フレッド」
「やってみよう。だが」
フレッドは傍らの酒瓶に手を伸ばしかけ、やめた。これから少し、荒っぽい仕事になるかもしれない。
「学園のやつらに、ここが露見した場合は?」
「あなたに一任します、と閣下は仰せです」
「さすがは閣下、人の使い方ってのをお分かりになってる。帝国最強戦力、《秘匿騎士》の実力をご覧に入れよう」
腰のベルトに、杖を吊るす。材質は樫。よく手に馴染む。
「万が一の場合は、森ごと焼くぜ。なんていうか、あれだ――イーリオンを制御できる自信がなくてね」
フレッドの背後で、応じるようにかすかな唸り声が響いた。
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