第38話 夢の国

 歓送迎会当日。一足先に仕事を終わらせた瀬里花と未菜は、軽い身支度をして、一ノ瀬に指定されたお店に向かったのだった。


 繁華街の一画に、ネオンに輝く宮殿のようなビルがある。そして入口から伸びたガラスの階段が、夜の訪れと共に、怪しく青く光っている。


 ――clubクラブ angelic tiaraアンジェリック ティアラ. 


 二人が階段を歩く度に、ガラスが水面のように、青き波紋を広げる。その美しさに瀬里花も未菜もただ溜め息をつくしか出来なかった。


 黒い大きなドアの前に、ドアマンらしき男性が二人立っている。スーツに身を包み、髪型も奇抜で容姿も端麗、まんま近くのホストクラブから、ナンバー上位者だけを連れてきたようなそんな感じだった。


「ここでいいのかな?」


 瀬里花は一ノ瀬に渡された紙と、その店のネームプレートを何度も見比べる。どうやら間違いはなさそうだ。そして黒いドアには、本日、特別VIP様ご来店につき、貸切営業中と、大袈裟にプレートが掲げられていた。


「こんな店を、貸切出来るって、あのおじさん何者なんだろー?」


 未菜の言いたいことはわかる。母の店に慣れている瀬里花でさえ、仕事帰りの私服でそのまま入っていいものか、焦るレベルだ。しかし、そんなことは言ってられない。準備をするにしても、歓送迎会の開始の午後八時までは後一時間半しか残されていないのだから。そして最悪、もし瀬里花から見て、居酒屋のチェーン店にも、負けるようなものであったのならば、店を変える必要もあると、瀬里花は思っていた。どちらにしても、もう遅いのだけれど。


「信じるしかないね。一ノ瀬さんを」


「うん……でもちょっと楽しみかもー?」


 それは瀬里花も思っていた。まだ中にも入っていないのに、まるで魔法の国に来てしまったようなそんな錯覚にさえ陥る。煌びやかな光と、イケメン二人がすでに二人をお出迎えしてくれていたのだから。


「さあ、お嬢様方、ようこそいらっしゃいませ。クラブ、アンジェリックティアラへ」


 甘いマスクの男が、微笑みながら黒いドアを開いていく。厚みのあるドアはゆっくりと音もなく開き、やがて夢のような景色を、瀬里花たちに見せてくれたのだった。


「きれーい! すごーい!」


 未菜は中を見回し、少女のように飛び跳ね、目を輝かせている。それもそのはずだ。金色に包まれた煌びやかな部屋に、大聖堂を思わすクリスタルのシャンデリア。そして至る所に設置されたゆったりと座れる黒い革のソファーに大理石のテーブル。もちろん、床だって、黒い大理石張りだった。明らかにかなりの高級クラブの箱の造りだ。


「これで五千円……いや五万円の間違いじゃ……」


 瀬里花は身震いをしてしまう。貸切だけでもかなりの金額がするだろうに、それにお酒代まで入ると、すでに破産してしまいそうだ。それにこんな店で料理なんて出て来るはずがない。瀬里花は一瞬にして蒼褪めるのだった。


「おーい、瀬里花ちゃん。来てくれたか! どうだ、この店は?」


 目が点になってしまう瀬里花。これは危険だ。みんなお腹を空かせて店に入ってくる。こんなお店で普通の飲食などさせて貰えないだろう。中に入るまでは最高だが、そこで食べ物がないのでは、整備士たちからは間違いなく文句が上がるだろう。


「凄すぎて、どうもこうもないです。でも、一ノ瀬さん、こういうお店だって思わなくて、私、全然料理の手配とかしていませんよ?」


「がはっはっは、料理の手配か。まあ、まさかこんな店で普通に飯を食えるとは、誰もが思わないよな?」


 ニヤリと笑みを零す一ノ瀬。もちろん誰も思わない。だからこそ、瀬里花は今物凄く焦っているのだ。


「まーったく思いません。だから、何とかしないと……って、一ノ瀬さん、何やってるんですか?」


 クラブ独特の薄暗い灯りのせいで、一ノ瀬の姿がよく見えなかったが、何故か彼は白いコックコートにコック帽、そして首もとには緑色のスカーフタイと、明らかに今まで見たことのないいでたちだった。


「ははは、昔ね。ホテルで腕を振るっていたことがあってね。今日はその時の後輩たちの中から、手を空いているものを同窓会がてら呼んだんだよ」


 ――ああ。


 確かに一ノ瀬の奥には、ちょうど部屋の中央に、バイキング形式のようなコーナーが設けられていた。


「立食パーティにしようか迷ったが、疲れてるだろうし、ソファーで寛げるほうがいいだろう。ああ、あと、飯については心配しなくてもいいからな。バイキングコーナーはあくまで飯の分量が足りない奴用だ。ちゃんとコース料理を準備しているから、安心しな!」


 彼の言葉に、瀬里花はほろりとしそうだった。そして部屋の隅々には、色とりどりのミニドレスを纏った女性が十五人くらいはいる。そして入口にいたあのホストたちだ。これは成功しか見えなかった。


「こんな人数どうやって集めたんですか? しかもみんなレベルが高いですし」


「そうだろ? 今日ここに来ている奴らは、みんなどこぞの店で、ナンバーワンを張っているほどの実力者ばかりなんだぜ?」


「はい、女性もそうですが、男性がなかなかにカッコいいです」


「がはははっ、そうだろ? でも、俺の若い頃のほうがもっとカッコ良かったんだぜ?」


 普段なら聞き流す話も今日だけは聞いてあげようと、瀬里花は思った。


「まあ、どうやって集めたのかは企業秘密だが、なあに、あんたが心配するような特別なお金は全くかかっちゃいねえよ。ちょっとした知り合いたちに、学園祭の模擬店みたいなことするからって、軽く声をかけただけだよ。そしたら、みんな昔を思い出したのか喜んで参加してくれて、金も出さないのに、みんな物好きだよなあ」


「いいえ、一番の物好きは一ノ瀬さんです。それにしても、みんなホストさんとかホステスさんじゃないですか? 一体どんなつてなんです?」


 瀬里花の言葉に、可笑しそうに笑う一ノ瀬。だが活き活きとしていて、本当に嬉しそうだ。


「言っただろう? 俺の力を見せてやるってな。まあ、ここに来ている子たちは、あくまで知り合いだよ、遠い昔の知り合い。俺の一声で飛んできてくれるような、それはそれは可愛らしいな。それにな、俺としては、やっぱり瀬里花ちゃんにだけは恥はかかせられねえよ。俺の大事な担当さんなんだからな」


 胸が熱くなった。そんなことを言ってくれるお客様が今までいただろうか。上辺だけの言葉で褒めてくれる人は多い。内面を見ることなくプレゼントで気を引こうとするものも少なくない。でも、彼は違った。瀬里花の強いところも弱いところも認めてくれた上で、なお瀬里花に尽くしてくれようとするのだ。


「本当……一ノ瀬さんが若かったら、危なかったかもしれないですね」


「ん? 何がだい?」


「いいえ。ただの独り言です、ふふっ」


 まさか恋に落ちたかもだなんて、お客様に言えるはずがなかった。そう、ここは夢の国。瀬里花と未菜は、その夢に溶け込むように、一ノ瀬が準備してくれたドレスに着替えるのだった。


 ――さあ、夢の時間の始まりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る