第25話 望まぬ来訪者

 研修も佳境に入り、いよいよ瀬里花も追い詰められてきた。それはあの自主企画コンテストの件である。


 相変わらず瀬里花の数字は少しも増えていなかった。ほとんどを研修と母の手伝いに時間を費やしてきたのだから、仕方のないことかもしれない。後は例のガチャくらいか。


 追い詰められた瀬里花は、魂が抜けたように、母のお店のカウンターで真っ白になっていた。


「いらっしゃいませ」


 母の嬌声が店内に響き渡る。きっといつもの常連さんだろう。瀬里花は特段顔を上げることもなく、カウンターに顔を伏せていた。


「ご無沙汰しております。エナさん」


 男の声に、ガサッと母が抱きついたような音が響き渡る。どうやら常連さんではないようだ。いや、まさか昔の男だろうか。それなら母が迷うことなく男に抱きつくのはわかる気がする。酔い潰れた時、母は必ず昔の男の話をするからだ。


「もうー何年ぶりかしら? また一段と凛々しく男らしくなって。職場でも女性にモテて仕方がないんじゃないのかしら?」


 年下男子だろうか。母が珍しくベタベタしていそうだ。これではどちらが客かわかったものじゃない。瀬里花は出来るだけ関わりたくないなと思った。


「いえいえ、僕は相変わらず独り身ですので。それに今日はちょっと挨拶に伺いました」


「そうだったわね。ふふっ、どんな顔するかしら?」


 何やら雲行きが怪しい。革靴が床を蹴る音が、どんどん近づいてくる。これはもしかすると母に何か仕組まれたかもしれない。でも、誰だ。誰なら母が気を許す? 誰なら瀬里花と顔見知りだというのだ?


 答えはその声が思い出させた。


「もう諦めたのかい?」


 聞き覚えのある嫌味たらしい声。


「もう全てを諦めて、酒に溺れて逃げ出してしまったのかい?」


 確かにアルコールを飲んでいた。確かに諦めさえ覚えていた。


「そうして君は愛車を見捨てるのかい?」


 しかし、愛車に関しては、絶対に諦めたりはしていなかった。


「そんなわけないじゃない!?」


 顔を上げた瀬里花。目の前にはスーツ姿のあのが立っていた。目にかかるほど長い髪が、彼の息で微かに揺れ動いている。


 ――どうして。


 そう、どうして?!


「何であんたが来るのよ?!」


 男は一度母を見て、静かに溜め息をついた。やはり母の仕業のようだ。しかし、いつの間に柊木と知り合いになっていたのだろう。この店には一度足りとも来たことはなかったはずなのに。


「君は本当に九条大橋店に来る気があるのかなって思ってね。ちょっと心配になったんだ」


 腹の立つ物言いだ。皮肉にしか聞こえない。瀬里花自身、まだ諦めたわけではなかったのだから。


「言われなくても行くわよ!」


「どうやって?」


 静かに、そして真顔で呟く柊木。


「えっ?」


「君はどうやってあの店のスタッフになるつもりなんだい?」


 ――決まってる。


「そんなの……なるしかないじゃない!」


「なるしかないか……」


 瀬里花の側にある空のグラスを見て、鼻で笑う柊木。


「ふっ、あの店は、たった車を一台売っただけで辿り着けるような、そんな店じゃないぞ?」


 そんなことはわかっている。層が厚いのも、選ばれた新人しか行けないのも。店に配属されたとしても、自分より凄いライバルしか周りにいないことを。


「でも、どうしようもないじゃない……なるしか……本当になるしかないんだから!」


 それでも瀬里花が今酒に逃げているのは、今まで人付き合いを避けてきたツケのようなものだろう。そう、瀬里花には頼るべき相手がいないのだ。


「君は確かに入社式の日に、値引き無しで新車を売ったのだろう。それは確かに今までどんな新人にも出来なかったことだ。だが、僕は新人時代、たとえば君のように四月五月と研修に明け暮れている間に、新車を五台は売ったぞ? 僕の新人時代と比べても、今の君とはかなりの差があるわけだ。いや僕だけじゃない。九条大橋店にいるスタッフは、みんな何かしら突出した力を持っている。君はどうだ? 君は今何をしている? みんなが努力している時に、君は何処で油を売っている? 期待していたのに、実に残念だよ」


 油は売っていない。母の手伝いをしていただけだ。そしてほんの少しお酒を飲んだだけだ。


「僕が言いたいことは以上だ。後は君の好きにしてくれ。僕は逃げも隠れもしない。ただ這い上がってくるものをで待っている」


 本当に性格が捻じ曲がっていると思う。高みの見物をしたいだけなのだと思う。

でも、そんな彼を追い越したいと思うのは、瀬里花が彼に嫉妬をしているからだろうか。


「何よ、あいつ!」


 柊木が出ていった店の中で、瀬里花は一人苛立ちをグラスにぶつけた。割れこそしなかったが、カウンターに打ちつけられたグラスは、物凄く鈍い音を立てていた。それが何も言えない自分のようで、酷くみすぼらしく感じられたのだった。


「何であいつを呼んだの?」


 母は静かに笑うだけだった。微苦笑というものだろう。その表情の意味を、その笑みの理由を、まだ瀬里花は知る由もなかった。


「セリ、これ彼からよ」


 母は手に白い紙を握り締めていた。瀬里花の側まで近づくと、そっとそれをカウンターに置いた。瀬里花は四角に折られた紙を広げると、じっくりとその内容に目を通したのだった。


「彼がこうしたらどうかって。折角あなたのファンがたっくさんいるんだからって。ねっ、可笑しいでしょう? あの子。あんなこと言って実は優しいのよ?」


 その紙には彼なりの秘策が記されてあった。黒のボールペンで書かれた文字は汚くて、走り書きなのは間違いがなかったが、それでもその最後の文字に、瀬里花は目を奪われたのだった。


「happy birthday!」


 ――って……。


!!」


 そして、彼の提案通りに、瀬里花はこの店のSNSのグループチャットに、初めて参加したのだった。翌朝、瀬里花は信じられない光景を目にすることになる。

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