第9話 わかっていたことですよね?

 声を荒らげる男性に、慌てて駆け寄る川野。こういった光景は、新人にはあまり見せたくなかったことだろう。いや、そもそもお客様の前では御法度だ。


「何だろうね……怖い……」


 未菜が怯えたように、瀬里花の背後に隠れる。それをやるならせめて男性相手にしなよと瀬里花は呆れ果てた。


「見た感じ、店内に人員が少ないから、それであの男の人が苛立ってる気がするけど」


 人が少なければ、一人当たりのやるべき仕事も当然増えるだろう。けれども、それを顔や声に出しては、接客業としては失格だろう。とは言っても、それが難しいことは瀬里花は痛いほど理解している。


「どうやら、今日は会議で受付の女の子たちが本社に行っているらしい。残った人員で店を回そうとしているが、普段女の子任せにしているから接客やお茶出し、サービスの受付が同時には出来ないみたいだ。流石に君らには受付も応対も教えていないし、そもそもこの店舗の問題だからな。困ったな……」


 川野が困ったように顔をしかめる。しかしその視線は、まるで新人を試すように瀬里花たちに向いているのが、彼の性格のエグさを物語っている。同じことを感じたのだろう。未菜が瀬里花のジャケットの裾を引っ張ってきた。


「私たちに何か出来ないかな?」


 上目遣いの未菜。瀬里花に何か期待されても困るのだけれども。瀬里花にはそもそも接客の流れがわからない。頭を悩ませていると、瀬里花の前に一人の男が歩み出てきた。


「力弥君だ……」


 未菜が瀬里花の手をぎゅっと握ってくる。背が瀬里花よりもだいぶ高く、短髪で顔の輪郭がはっきりとした好青年だった。


「よし、じゃあここは俺らの出番かな」


 力弥と呼ばれた男子が声を上げると、同調するように他の男子たちも力弥の周りに集まった。そして何故かみんな瀬里花を見てニタニタする。一体どういうつもりだろう。


「ねえ、力弥君。何をしたらいいかわかるの?」


 未菜が心配そうに声をかける。力弥は目を細めたまま、顔を左右に振る。


「さっぱりわからない。だが、俺らはもうこの会社の社員だ。お客様にこんな恥ずかしい店を見せたくはない。それにどの道、今日この店舗で実習だったんだ。出来ることをやるまでさ」


 見た目だけでなく声もなかなか良いものを持っているようだ。「へえー」とイケボの力弥に感心してしまう瀬里花。ちゃんと骨のある素敵な男子が入っていたようだ。後はどう出るかが楽しみで仕方がなかった。


「そうか、手伝ってくれるか。じゃあ、あのサービスマネージャーの向井さんに、指示を仰いでくれ。見た目はいかついが、女の子には優しいヤツだから大丈夫だろう」


「ちょっ、川野課長。それって、男には厳しいってことじゃないですか?」


 結城が焦りを露わにする。確かにその通りだろう。こういう時だけは本当に女で良かったと切に思う。


「まあ、何事も勉強だ。思うようにやって、いっぱい怒られてこい! それが君たちの今日の研修だ」


 まるで確信犯的な展開にも思える瀬里花。でも、本当にそこまで考えての店舗実習だったのなら、川野は末恐ろしい人間だと瀬里花は思った。


 やがてみんなは、サービスマネージャーの向井の元に集まった。川野の言うように近くで見ると、ゴツゴツしたかなりイカツイ顔をしている。元々整備士上がりだからだろうが、その身体の筋肉は今も衰えを知らないように服の上からも隆々としている。男子たちが怖がるのも無理はないと、瀬里花は思う。


「おお、見苦しいところを見せてすまんな。お前たちが来てくれて本当に助かるわ。今日は本当に人がいなくてな」


 言葉とは相反してその表情は険しいままだ。何故ならその手元は、コンピュータで別の作業の受付をしているからだ。そしてどうやら今彼の手元に積み上げられた色つきのクリアファイルを見る限り、かなりの量の仕事が溜まっているようだ。


「今は全ての作業が、コンピュータでの受付をし、作業終了後にはまたコンピュータで精算をしなければ、お客に車を引き渡すことが出来ないから、これが溜まるとお客様自体に迷惑をかけてしまうことになるんだ。そして今俺が入ってくるお客の応対をしているから、帰せるはずのお客さえ何人も待たせている状態でな」


 他にもサービスの受付らしきスタッフはいるようだが、別のお客様と長話になっているようで、今店舗内のサービスフロントには向井しかいない。それが彼の苛立ちの最も大きな原因のようだ。だとしたら、瀬里花たち新人スタッフがやらなければならないことは、その苛立ちの原因を取り除くことだ。


「よし、じゃあ男の営業はまず入口の外で待機し、車が駐車場に入ってきたら、即座に走ってその車のお出迎えをして、事故のないように駐車場に誘導すること。それからお客様がドアを開けたら、本日のご用件を伺って席にご案内してくれたらいい。そこから先は俺らがやる。だから、用件とお名前、車種などわかることだけはしっかりと俺らに伝えてくれ。仕事で最も重要な報連相ほうれんそう、真っ先に川野が教えてくれただろ?」


 ポカーンと口を開けてしまう全員。それを悟ったのか、向井は険しい表情のまま、大きく溜め息をつく。


「ったく、あいつの脱線癖はまだ直ってねえのか。まあ、いい。男の営業は今俺が言ったことだけしっかりこなしてくれ。そして記憶力に自信のねえやつは、ちゃんとメモを取れよ? 何のお客様かわかりませんじゃあ、二度手間だし、お客に不快な気持ちを与えてしまうからな」


 「はい!」と一斉に男子の声が揃う。男の低い声が揃うのは、聞いていて本当に心地良いなと瀬里花は感じた。もちろん、瀬里花にとって一番やばいのは、愛車のマフラーの排気音なのだけれど。


「それからお姉ちゃんたちは、来店されたお客へのお茶出しと、帰られたお客の飲み物の片づけをしてくれたらいい。まあ、今は作り方がわからなくて、ホットコーヒーしか受け付けていなかったがな」


 そう言って笑う向井。いや笑いごとでは済まされないと瀬里花は苦笑する。だってコーヒーが飲めないお客様もいるだろうに。


「ああ、それと正面の受付に二人くらい座っていてくれたら助かる。お客が来た時だけ立ち上がって挨拶な。それと電話がかかってきたら、とりあえず取って、俺らに繋いでくれ。お客の名前と誰宛かを確認して、よくわからない場合は、詳しいものにお繋ぎ致しますとか言っておけばいい」


 受付に二人と向井が言ったのは、この店舗、九条大橋店が、余りにも大きな店舗過ぎるからだろう。店内の席の数も多ければ、駐車場の数も本社と比較しても桁違いに多い。そんな超大型店舗に今スタッフがいないのだから、やはり新人研修を前提とした本社会議を行っている気がする。現場の人たちが可哀想だなと瀬里花は向かいに憐れむような視線を送った。


「じゃあ私たちは飲み物の注文あるまで、ここででゆっくりしてよっか」


 未菜がリラックスしたようにキッチンで屈みこむ。あの後未菜は、早々に瀬里花を連れて、キッチンの方へ向かった。残った女子の美波と河出が受付を担当してくれるようだ。いや、未菜が上手いように話をつけたようだ。やはりこの子はやり手である。


 ――でも。


 全てを彼女のスタイルに合わせるわけにはいかない。瀬里花には瀬里花のやり方があるのだから。


「ううん、まず私たちがやるべきことは一つ。ホットコーヒーしか出ていないお客様に改めて、お飲み物を伺うことだよ。きっと今飲みたくないコーヒーを、無理やりに飲まされているお客がいるかもしれないから」


 そんなお客様にとって、この店の印象はマイナスに傾いているだろう。それを挽回することは難しいかもしれないが、せめてその印象を和らげることは出来るかもしれない。それに外では男子たちがスーツを着て、無我夢中でお客様と応対をしているのだ。瀬里花たちはそのサポートを全力でするべきだと思った。


「そっかー、了解! じゃあ私が飲み物作る係やるから、瀬里花はお客さんに聞いてきて。その間に私色々と作り方覚えとく!」


 楽な方を選ぶのは流石は未菜だ。いやあまりにも世渡りが上手すぎて、逆に瀬里花は心配になった。


 と、ここで問題が発生した。店内には男性客が多い。そして飲み物を聞き直す男性がことごとく、瀬里花の容姿に目を奪われ、世間話や踏み込んだ質問の嵐が止まらないのだ。


「やばい、一人飲み物を聞くだけで長いことお客様に捕まる……」


 キッチンで未菜が不敵な笑みを浮かべているような気がして、瀬里花は歯痒くてならなかった。

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