第6話 失敗をしなくてはダメですか?

「そういえば、一ノ瀬さん。値引きはどうしましょう? それに多分、車だから諸費用もかかりますよ?」


 もちろん、入社したての瀬里花には、値引きの基準もわからなければ、車の諸費用が一体どういうものかも理解していない。その辺りは間違いなく一ノ瀬の方が上手だろう。


「諸費用はまあ大体わかるわ。今まで何台も新車を買ってきたからな。カティアラなら、まあ、二十五~三十万くらいだろう」


 なるほど、そういうものなのか。いや、逆にそんなにかかることに驚きを隠せない瀬里花。一ノ瀬は当たり前だと言わんばかりに、指を折って何かを計算していた。


「じゃあ、後は値引きですね。ちょっと、教育係の川野に確認してきます」


 そう、彼はそのための係だ。逆にここで何もしてくれないようなら、彼の価値はないに等しいと瀬里花は思う。椅子から立ち上がろうとした瀬里花の手を、一ノ瀬が掴む。そして微笑みながら、首を左右に振った。


「値引きは無しでいい。俺としては、あんたが担当になってくれるだけで、そしてまた次にあんたと話せるだけで十分意味がある。それになあ、瀬里花ちゃん。まさか入社式の日に新人が新車を売って、しかもそれが値引きゼロだったとなれば、箔がついていいだろう?」


「箔って、そんなの要りません。それに値引きゼロだなんて、大切なお客様である一ノ瀬さんに、不要な無駄遣いはさせられませんよ」


 彼の人柄に触れた瀬里花には、逆に出来る範囲を超えた値引きをしたいくらいだった。


「嬉しいことを言ってくれるが、瀬里花ちゃん。俺の金が無駄遣いかどうかを決めるのはこの俺自身なんだ。俺は今日のこの時間に、そしてこれからのあんたとの時間に先行投資をするだけさ。水商売だって、アイドルグッズにお金をかけるのだって同じことさ。みんなそれに価値があると思うから、金をかける」


「そういうもの……なのですか?」


 不安気味に声を細くする瀬里花に、一ノ瀬は自信満々な顔つきで、大きく頷いたのだった。


「人間の嗜好なんて、いつの時代もそんなものさ。好きなものには金をかける。必要なものにも金を費やす。だが、それ以外のものには金をかけない」


「それはわかります。私もそうですから。でも……」


 それとこれとは違うと思う。そんな瀬里花の気持ちを汲み取ったのか、一ノ瀬は急に真面目な顔になった。


「瀬里花ちゃん。これはな、俺のわがままなんだ。俺はな、ただあんたのファンなんだよ。だから、俺は入社式当日に、値引きゼロで新車を売ったあんたを見たいんだ。少なくともこの会社では、まだそんな話を聞いたことがねえからな。だから、ここからあんたが、いいや許斐瀬里花が、新しい伝説を作るんだ」


 ――あーあ。


「もう、私、一ノ瀬さんに完全に惚れられていますね」


 悪戯っぽく笑う瀬里花に、一ノ瀬は満面の笑みで、右手の親指を突き上げた。


「ああ、一目惚れだ」


 一体何人目の告白だろう。だけれど、瀬里花の心に染み渡る声だった。


「じゃあ、改めて注文書を頼むわ」


「かしこまりました」


 テーブルから離れる瀬里花。教育係の川野を探すと、事務所らしき部屋の壁に、背中をもたれて話す川野の姿が見えた。カツッカツッと、ヒールの音を立てて近づく瀬里花。川野は隙間から顔を出すと、すぐに態勢を変え、ニコニコしながら瀬里花の到着を待っていた。


「許斐さん。初めての商談はどうだったかな。わからないことだらけで、大変だっただろう?」


「はい、まあ……」


 愛想笑いをしてみせる瀬里花。


「最初はみんな失敗するものだ。いや、失敗をするから、次同じ過ちを繰り返しまいと、みな努力する。僕はね、君にもそうあって欲しいと願っている。さあ、後は本社営業一課のエースの出番だ」


 川野の言葉に、事務所から背の高いやせ形の男性が現れた。髪は長めでパーマがかり、国産車の営業というよりは、外車か宝石店の販売員のように気障っぽく見えた。女性受けは正直良くなさそうだった。


「許斐さんだね。僕も君と同じ営業の秦野だよ。さあ、何がわからない? 何が知りたい? 営業の中の営業のこの僕が、可愛い新人の君に教えてあげよう」


 男のくせに髪をかき揚げる辺り、やはり随分と痛い人のようだ。自己陶酔しすぎると、気持ち悪いだけだよと言ってあげたかった。


「秦野先輩ですね、初めまして、許斐です。えっとですね、私、注文書の出し方がわからなくて……」


「ああ、注文書な。みんなそこで躓くよな。注文書はな、まずお客様のご要望を聞きながら、パソコンで見積りを作ってだな……って……はい? ええっ? 注文書おおっ?!」


「ええ、先輩。グレードや装備も決まったので、お客様に注文書を作って欲しいと言われました。てへっ」


 わざと横に舌を見せて、テヘペロをしてみせる瀬里花。普段はわざわざすることはないが、男社会であるカーディーラーで生きていくには必要な技だと理解している。


「何だとー?!」


 課長の川野も、目が飛び出すかと思うほどに大きくしていた。その背後に隠れていた他のスタッフたたも、驚きの声を上げ、野次馬のように集まってくる。


「あまりお客様を待たせたくないので、先輩、わかりやすく教えて下さいませんか?」


 わざと身体を斜めに捻り、髪の毛先を触りながら、弄らしそうに秦野を見上げる瀬里花。彼女の色目に落ちない男はいなかった。


「よし、じゃあ僕がやり方を教えてあげよう。許斐さん、こっちに来て、僕の隣に座って?」


 言われた通りにしていくと、みるみる一ノ瀬の選んだ仕様の見積書が出来上がっていった。背後で間違いがないか、粗探しをするかのように覗き込む他の先輩社員たち。


「君の手帳通りに作るとこんな感じだけど、そういや値引きはどうしたんだい? まさか一割とか二割とか勝手に引いていないよな?」


 秦野の言うことももっともだ。実際、値引きに関しては、瀬里花さえ未だ納得がいかない部分があった。でも、それが一ノ瀬の長井なのだから仕方がない。


「値引きは無しでいいと、お客様に言われました。私に箔をつけたいそうです」


「はあああー?! 意味わからん!」と秦野。「お前騙されてるぞ」「そうだ、そいつは何か後で因縁つけてお前の身体を……」とまたそれぞれ別の男性スタッフが、ご丁寧に心配をしてくれる。


「一ノ瀬さんからのご依頼なのです。だから秦野さん。彼の言う通りに注文書を作って下さいませんか?」


 瀬里花は、あえて彼の手を取りながら訴えかけた。


「あ、ああ……」


 不安げな表情で、秦野はプリンターで注文書を印刷する。左に車種名やグレードにボディーカラー、そして仕様や諸費用などの金額に総合計金額。右にはお客様情報の記入欄がある。秦野の説明によると、左の項目や金額をお客様と確認した上で、間違いがなければ、右のページにサインや印鑑を貰えばOKとのことだった。


「後、支払い方法と支払日は絶対に確認な。銀行とかのローンでも何でもいいけど、金が入らなければ、車は登録も出来ないし、渡せないから」


 登録って何だろう。聞きなれない言葉だ。まあ、これから研修で習うからいいかな。それより早く一ノ瀬の元に戻らなければ。怒っていなければ良いけれど。


「わかりました。じゃあ、お客様にサイン頂いてきますね」


 とにかく事務所にいた人間全てが、口を開けて、ただ唖然としていたように思う。そして一ノ瀬の元に戻ると、彼は満面の笑みで瀬里花を待ってくれていた。


「ほら、今の間に、隣の銀行で金下ろして来たぞ。五百万ある。必要な分だけここから取ってくれ」


 この人は、本当に人を驚かせるのが好きなんだなと瀬里花は嬉しくなった。


「釣りはいりませんよね?」


 冗談っぽく言うと、困り顔をする一ノ瀬が何だか面白かった。


 そして、入社したその日に、値引きゼロで高級車の受注を貰った新人が出たという噂は、瀬里花の知らない内に、社内中を駆け巡ったのだという。彼女の伝説は、まだ始まったばかりである。

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