The Ruin's Sky -The unknown’s War-

月野 白蝶

Act.01

-1-

 始めに認識したのは、潮の香りだった。

 ここは海の近くなのだろう、とぼんやり考える。

 目を開けると、住宅街の向こうに青々とした木々。

 それで、存外近くに山があることを知る。

 視線を落とせば、ひび割れたアスファルトに白線。どうやら、自分は道路脇の歩道にいるらしい。

 そして、手を見た。

 大きくなく、小さくもない、手。

 握って、開いて。手の平を見て、甲に返して。

 思った通りに動く、その、手。

 どうやら『これ』は『自分』らしい。

 そうして、ふと考える。

『自分』とは、一体何だろう。

 名前は、両親は、生い立ちは、友人は、一人称は、口調は。

 分からなかった。

 何一つとして。

 知識は言っている。これは記憶喪失なのだと。

 同時にこうも言っている。知識は残っているのだから、これはエピソード記憶障害なのだろうと。

 そこまで考えて、ふと首を傾げた。

 記憶を無くしたのに、何故自分はこんなにも落ち着いているのだろう。

 しかし、その答えは考えずとも分かり、一人で頷く。

 そもそも、何に焦ればいいのか分からないのだ。

 何も分からなくて、分からなすぎて、逆に落ち着いてしまったのだ。

 なるほど、と頷いた。

 これで他に人なり知人なりがいて、その人が慌てていれば、自分も一緒に慌てただろう。しかし、あたりには誰もいない。これでは自分が何者か問うこともできない。

試しに声を出してみた。少し低い声。自分はどうやら男のようだ。よくよく意識してみれば、下半身に付くものは付いている。間違いない。男だ。

 次に格好を見てみた。上着は白く長い……これは白衣だろうか。中にはワイシャツを着ている。下は濃い藍色のGパンに革靴。どれも着慣れている風だ。昨日今日着始めたという雰囲気ではない。だが、これはまるで研究者のような姿だ。正確に判断はできないが、推測するに自分の歳はまだ十代中頃のように思う。誰か研究者の助手でもしていたのだろうか。

 所持品は何か無いかと服を探してみたが、鞄が無いのは勿論のこと、財布どころか携帯電話一つ持っていない。昨今どんな田舎者でも携帯電話ぐらい持ち歩いているだろうに。

 ふと、白衣のポケットに何か感触を覚え、取り出してみた。

 それは、封筒だった。

 宛先に群馬県のとある研究所の名前が記されているそれの宛て名は、丁寧な女性の 文字で『神宮寺 司』様とあった。裏に返すと、今度は幼い文字で『あずさ』よりと書いてある。何度も何度も読み返したのだろうか。封筒は少しだけよれていた。中を見るのは勝手に人の私物を覗き見るようで申し訳ない気持ちになったが、この白衣に入っていたのだし、自分のものだと思うことにしよう。何より、『自分』の貴重な手掛かりになるかもしれないものだ。有事の非常事態だからやむなしと誰にとはなく弁明し、封筒を開けた。中には可愛らしい花柄の便箋に、裏面に書いてあったのと同じ幼い文字で文章が綴られていた。

 曰く、自分――『あずさ』は元気であること。

 曰く、兄――この場合は宛て名の『司』のことだろうが、そちらは元気かということ。

 曰く、母も父も会いたがっており、自分も会いたいということ。

 研究所は楽しいか。無理はしていないか。淋しいが、お国のために頑張っているのだから我慢している。一度でいいから返事が欲しい。

『兄』を慕う妹の言葉が、そこには並んでいた。

 この『司』という人物は、国のために何かする研究所にいたようだ。まさかこの年で研究員なはずがないから、やはり助手をしていたのだろう。

 知識は言っている。


――この研究所は、軍事兵器の開発機構なのだと――


 ゾクッと、背筋が凍った。

 何だ、今の知識は。軍事兵器? まさか、そんなはずはない。だって、だってもし自分が『司』で、その研究所にいたのだとしたら、自分はこの歳で軍に関わっていたことになる。

 そんなはずはない。

 そんな馬鹿な話があるわけがない。

 そうだ、もしかしたらこの手紙は自分に宛てたものではないのかもしれない。たまたま拾ったものである可能性だってあるじゃないか。

 きっとそうだ。

 そうに違いない。

 そうなんだ。

 だとしたら、


『自分』は『誰』だ。

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