第28話 展望スペースにて
★
どうして麻耶は秋津温泉に来たのかな?――毎年この時期、二人で紅葉を楽しんでいたから? 今岡さんとの思い出に
麻耶にできることと言えば、三つの「幸せな時間」に身を委ねることぐらい。ただ、幸せな時間は「今岡さんがいること」を前提に存在している――麻耶の行動は矛盾だらけ。
ここに来ることを決めたのは、確か一週間ぐらい前。きっかけは何だったのか、よく憶えていない――「今岡さんと見た、秋津温泉の紅葉がキレイだったなぁ」。そう思ったのは憶えている。おかしな言い方だけれど、いつの間にか行くことを決めていた。
旅館が常連の麻耶に勧誘の電話をしたの? そんな電話は掛ってきていない。麻耶の方から予約の電話を入れたんだもの。「十月●●日の夜、三〇三号室に泊まりたいのですが、空いていますか?」って。ただ、こんな混雑期に空いていたのは奇跡としか言いようがない。
いずれにせよ、自分から行こうと思ったのなら、何か理由があるはず。
理由がないとしたら――何かが麻耶を導いたのかもしれない。
★★
旅館の裏口を出た瞬間、思わずブルッと身震いした――空気がさっきよりも冷たくなっていて、ジャケットを着ていても肌寒く感じたから。裏庭には照明らしきものはなく、旅館の窓から漏れる明かりがその役割を果たしている。
思い出したように、麻耶は秋津大滝へ続く階段を目指して駆け出した。
建物から離れるにつれ足元が暗くなっていく。ちょうど階段の降り口が見えたとき、右足首に「ゴキッ」という音が聞こえそうな衝撃が走った。脱げたヒールが闇の中へと転がっていく――ヒールの
麻耶はその場にしゃがみ込むと、右足首を押さえた。
足元が暗くてどんな状態なのかはわからないけれど、ズキズキと痛みが感じられる。ただ、こんなところでぐずぐずしているわけにはいかない。早くしないと「彼女」がいなくなってしまう――すぐに脱げたヒールを履き直すと、麻耶は右足を
階段の降り口に辿りつくと、二十段程下りたところにある展望スペースに目をやった――
この時期、紅葉に彩られた秋津大滝はライトアップされていて、展望スペースも明るく照らされている。四人とも見た感じは男みたいで、麻耶の探している「彼女」とは別人の可能性が高い。でも、ここに来るまでに誰にも会わなかった。もしかしたら展望スペースのもっと先へ下りて行ったのかもしれない。
麻耶は痛みが走る右足に体重が掛からないように、手すりに
十段ぐらい降りたところで、足を止めて展望スペースの先を眺めたけれど、人影らしきものは見えなかった――焦っているせいか、それとも、右足の痛みが思った以上に酷いせいか、麻耶の中の弱気の虫が話し掛けてきた。
『「彼女」に会ってどうするの? 「彼女」に会えば今岡さんが助かるの?』
『わからない。でも、可能性があるならやってみる。後悔したくないから』
『今岡さんは
『「彼女」がタイムトラベラーじゃないって言い切れる? もし過去の世界へ行くことができるなら、今岡さんを助けられる――常識? 結果として麻耶の言っていることが正しかったら、「彼女」の存在そのものが常識になるの』
『そもそも「彼女」は存在するの?』
『フロント係は姿を見ているし、お母さんは声を聞いている。麻耶だって、「彼女」の書いた文字や茶碗についた口紅を見ている。これだけ証拠が揃っているんだから――絶対にいる!』
展望スペースに辿り着いたとき、麻耶は弱気の虫を振り払った。
不安な気持ちがないと言えば嘘になる。でも、麻耶が言ったことは
展望スペースにいる四人を間近で見たけれど、その中に女性はいなかった。予想通りと言えば予想通り。
麻耶は胸ぐらいの高さの柵に両手を組むように置くと、その上に顔を横向きに乗せたの。こうして両手と左足に体重をかけていれば、右足には負担をかけなくて済むから。部屋から全力で走ってきて、片足でケンケンをしながら階段を下りたせいか、まだ心臓がドキドキいっている。
顔を横に向けた瞬間、滝の水が左から右に流れているように見えた――赤や黄色の紅葉が、白い光の河の両岸を彩っている。縦のものを横にしただけなのに、それは全く違うものに映った。「今岡さんにも見せてあげたい」って思った。
秋津温泉に来るといつも二人で滝を眺めていた。
ちょうど二年前の今頃、薄着の麻耶が寒そうにしているのを見て、今岡さん、自分の上着をかけてくれたの。それなのに麻耶ったら「サイズが大き過ぎます」なんてクールに答えていた。相変わらず空気が読めない
その後、今岡さんが麻耶の肩を優しく抱いて顔をじっと見つめてきたときも、最初は「なにジロジロ見ているんですか? 私の顔に何かついていますか?」なんて言ってたから、どうなることかと思ったけれど、顔が近づいて来たら、おしゃべりを止めてちゃんと大きな瞳を閉じていたの。
心なしか、さっきよりも右足が痛くなってきた。
心臓の鼓動に合わせて、ズキンズキンってリズムを刻んでいるみたい。柵にもたれ掛かるように腰をおろしてヒールを脱いでみたら、見た目にも赤く腫れあがっている。さっきいた四人はもういなくなっている。冷え込んで来たから、丹前に浴衣姿では長くは外にいられないのだろう。
そうこうしているうちに、やっと心臓のドキドキも収まってきた。
『がんばって滝の方へ行ってみよう』
麻耶は自分を鼓舞するように、ゆっくりと立ち上がった。
でも、心臓の鼓動が再び速くなるのを感じたの――なぜって? だって、立ち上がったとき、麻耶の右側にいる「彼女」と目が合ったから。全身がぼんやりと白く光っているのは、ライトアップの光のせい? それとも――ヒトじゃないから?
つづく
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