英知の特別な人
「憲史、外で何があったの?」
英知がそわそわしているので事の顛末を話すと、彼は長いため息をついた。
「ごめん。僕のせいだ」
「あの男と何かあったのか?」
カウンターに再び腰を下ろし、残したままのスコッチに手を伸ばした。
「喧嘩でもしたのか? それにあいつが言っていた『特別』ってなんだ?」
英知が「本当にごめん」と、また詫びた。
「一昨日かな、別れようって切り出したから、やけになってたんだと思う」
「あぁ、それでか」
「ここのところ憲史を雇ったり、一緒に出かけたりしてたでしょ? それで、やきもちがひどくて、友達だって言っても信じてくれないから、もういいやって」
「お前、結構ドライだな」
「僕は、付き合う前に最初に言うんだ。僕には特別な人がいるって。その人を越えることは出来ないし、僕の気持ちを独り占めできないけれど、それでもいいのかって」
「あぁ、それで『特別』な人っていうのが俺じゃないかと疑ったんだな」
「だと思う」
「それって、前に言ってた人? 高校のときに自分から好きになった、たった一人の人ってやつ」
「うん」
「そうか。忘れられないんだな」
「そういうんじゃないんだよ。その人は確かに好きだけど、告白どころかモーションかける気にもならない。ただ、なんとなく好きなんだ」
「へぇ」
「だけど、なんとなく好きな人で、手を繋ぐこともない相手ってさ、ずっと好きなんだよね。困っちゃうよ。いっそ一度寝てしまえば、意外ときっぱり過去になるのかもしれないけど」
幸か不幸か、俺にはそんな経験はない。ピンとこないまま、「ふぅん」と相槌を打った。
「僕には絶対手が届かない人なのに、どんな恋人ができても、彼がずっと心の中に住んでいるし、嫌いにもなれない。おまけにその人、ずっとフリーなんだよ。誰かと付き合ったり結婚して諦めさせてくれれば楽になるのに」
「その人って、その、同性は対象外なんだろ?」
「うん、そうだね」
「その人が他の女と一緒になっても、お前は平気なものなの?」
「昔は嫉妬もしたけど、でも、しょうがないって思うようになった。その人が孤独に老いていくより、幸せになってくれたほうが嬉しいよ」
「すげぇな」
「なにが?」
「うん、あのさ、人の幸せを願えるのって、英知のすごいところだって思うんだ」
「なんだよ、突然。告白して関係を崩すのが怖い臆病者なだけだよ」
英知は照れ臭そうだった。でも、自己中心的な俺からすれば、臆病というよりもっと崇高なものに映った。
「まぁ、なんだ。お前も飲め」
「ありがとう」
「それで、俺にはスプモーニをくれ」
「お詫びにスプモーニはご馳走させてよ。嫌な想いをさせちゃったから」
「いいんだよ、気にしてない。それに商売なんだから、きっちり勘定してくれ」
英知はやっといつもの笑みを取り戻した。それを見た俺も、なんとなく安堵し、グレープフルーツを絞り出した彼の顔をじっと見つめた。前から綺麗な顔だとは思っていたが、こんな話をしたせいか、いつもより儚げに見えた。
英知が高校一年の秋に転校してきたとき、女子生徒が大騒ぎだったのを覚えている。初めて彼を見て、男の俺ですら見とれてしまうほど涼しい顔立ちに、芸能人になってもおかしくないと驚いた。他のクラスからもわざわざ顔を見に来た生徒が後を絶たなかった。
しかも、英知はそれを鼻にかけるような男ではなかったから、たまに男子生徒から妬まれることがあっても、味方のほうが多かったように思う。
英知は自分から告白することはなかったけれど、何人かの女子と付き合っていた。だから、男相手に想いを秘めているなんて、当時は予想だにしていなかった。
英知が抱く『特別』な感情を、俺は知らない。十年以上も心に誰かが住んでいるなんて、想像もつかない感覚だ。
俺の場合、好きになったらすぐ周囲にバレるし、自分から好きだと言うし、別れたらそれっきり。一番長い付き合いは二年ほどで、英知みたいに秘めた恋なんて、到底無理だろう。
そんなことを考えていると、英知がスプモーニを差し出してくれた。彼は自分のグラスにはウーロン茶を満たし、「じゃあ、いただきます」と礼を言った。
乾杯をしてスプモーニを味わっていると、英知は心配そうな顔で呟いた。
「亮、大丈夫かな?」
「平気だよ、ちょっと唇を切ったくらいだし」
「だったら、いいけど」
「あいつにはそろそろ、拳で解決するものはないって学んでもらわないとな。もういい歳なんだから」
亮は絡まれたときにしか喧嘩しない。といっても、自分があれこれ言われているうちは、絶対にスルーする。揉め事は基本的に嫌いなのだ。
けれど、友人や家族、奥田書店など大事なものをコケにされると、さっきみたいに抑えが効かなくなる。
「相手が先に手を出すまでは我慢できるみたいだけど、それでも暴力は恨みを残すだけだよ」
さっきの亮は怒りに唸る獅子のようだった。味方でよかったと、ちょっと身震いする。
すると、英知がぽつりと言った。
「僕、一度だけ亮から先に殴ったところ、見たことあるよ」
「いつ? あいつから喧嘩しかけたの?」
「もちろん、最初は向こうから絡んできたんだよ。でも、相手が手を出す前に顔面にガツンとやっちゃったことがある」
「えぇ? そんなことあったっけ?」
彼は少しはにかみ、こう答えた。
「僕が絡まれてるのを助けてくれたときだよ」
「俺、記憶にないぞ」
「憲史はいなかったから」
「あ、そうなの? でも、なんでそんなに怒ったんだ?」
「そいつの彼女が僕のことを好きになっちゃって振られたんだって。それで絡んできたんだ。僕のことを『女たらし』ってこき下ろしたんだよ。『母親がだらしないから、お前もだらしないんだ』って言われたんだ」
「なんだよ、それ。言いがかりもいいところだ」
怒りのあまり、つい声が大きくなってしまった。
英知の母親は離婚して、実家のある高瀬市に英知を引き連れて戻って来た。家計を支えるために昼はスーパーで働き、夜はスナックで働いていたんだ。
美人なのに気さくで、大きな口を開けて笑う。がむしゃらに働いて、懸命に英知を育て上げた立派な人だ。
「夜の商売ってだけで、変な目で見られたんだと思うな。それに、あの頃はいろんな人と付き合ってたのは確かだし、そういう噂がたっていたんだろうね」
英知はしれっと言うが、俺は自分のことのように腹が立っていた。
「美人だから男が放っておかなかっただけだろ。変な目って、まるっきり偏見じゃないか。別にお前がそいつの彼女に思わせぶりなことしたわけじゃないんだろ?」
「まさか。全然知らない子だったよ」
「逆恨みじゃねぇか。そりゃ、亮もキレるわけだよ」
「本当はどんな理由があっても、手をあげちゃいけないんだろうけどね。でも、そのときは……嬉しかったな」
思わず瞬きをして、英知の顔を凝視した。頬を赤らめ、口元から笑みがこぼれている。その様子がどう見ても、惚気ている。
「なぁ、お前……」
まさかな。いや、でも考えてみれば一番可能性があるじゃないか。だって、毎日のように一緒にいたんだ。そう戸惑いながらも、俺は尋ねた。
「もしかして、お前の特別な人って……亮?」
ビクリと身を震わせるほど、英知は驚いていた。
「いや、僕は……」
彼は口ごもり、手を横にぶんぶん振った。けれど、みるみるうちに真っ赤になった顔色が「そうだ」と答えている。
「亮なのか!」
驚きのあまりのけぞった俺に、英知も隠しきれないと悟ったようで、ふっと声を落として「うん」と頷いた。
「いやいやいや、そうかぁ。そうだったのかぁ」
思わず「はぁ」と唸ってしまった。
「そりゃ、言いにくいよなぁ」
「ごめん、隠してて」
「だから、それは気にしなくていいって」
英知は顔を真っ赤にしたまま、ぼそぼそと言った。
「僕をかばってくれたとき、自覚したんだ。あぁ、きっと僕はこの人が特別好きだって」
なるほど、俺がその喧嘩を知らないわけだ。亮は俺に説教されるのが嫌で、喧嘩をしてもわざわざ話さないし、英知も恋の自覚でそれどころではなかったのだろう。
「亮はお前の気持ちに気づいてないんだろう?」
「うん。多分」
「多分?」
英知は少し俯き、困ったように眉を下げた。
「時々、怖くなるんだ」
「何がだ?」
「亮は僕が恋愛の話をするのは苦手みたいだから、あまりそういう話題をふるなって言ってたんでしょ?」
「あ、うん」
「本当にそう思ってくれてるのかもしれないけれど、でもそれは表向きの理由で、本当は僕が恋愛の話をすると自分のことで辛い思いをするんじゃないかって気を遣ってくれてるのかなって」
「亮は気づいているっていうのか?」
「わからない」
「じゃあ、なんでそう思うんだよ」
「前にさ、亮がこの店でV・I・ウォーショースキーみたいな女なら抱きたいって言ってたじゃない?」
「あ、うん」
「V・I・ウォーショースキーって、推理小説に出てくる探偵なんだ」
「えっ、そうなの?」
「うん。僕に恋愛の話を聞かせないよう、彼なりの気遣いだと思ってる」
「考えすぎじゃないの?」
「うん、でもね。去年の秋、亮のお母さんが亡くなったでしょ?」
「あぁ、うん」
「あのとき、僕がボロボロ泣いちゃってさ。もちろん亮のお母さんが大好きだったからでもあるんだけど、残された亮を想ったらたまらなくなって」
ウーロン茶を一口飲んで、英知は言葉を続けた。
「そうしたら、亮は『お前の気持ちはありがたいよ』って背中を叩いてくれたんだ。もしかしたら、あのとき気づいていたのかもしれない」
「どうかなぁ。おばさんのために泣いているから言ったんじゃないの?」
「うん、そうかもしれないね。でも、あのときの亮のすまなさそうな顔が忘れられないんだ」
「そうか。そう言われてみれば、亮は女の話をしないからな」
「うん。僕に聞かせないようにしてくれているのかもね」
「もし気づいているとしたら、お前はどうするんだ?」
「気づいていても気づかないふりをしていることが、彼の答えなんだから、今まで通りだよ」
そう聞いた途端、英知がかつて口にした『好きだと思うことに罪悪感を抱くのは、辛いことだし、悔いしか残さないから』という言葉を思い出した。あれは亮を想い続ける自分の姿だったのだと、今更になって理解した。
「お前さ、亮が独りでいるより誰かと幸せになってくれたほうが嬉しいって言ったよな?」
「うん」
「やっぱり、お前はすごいよ」
嫉妬は辛い。そして嫉妬に悶える自分の醜さを直視するのもしんどいはずだ。だけど、それを超えた英知を心の底から尊敬した。
「その境地にたどり着くまで、辛かったろうに」
しみじみ呟き、ふと英知の顔を見た俺は、思わずハッとした。彼はまるで殴られたかのような顔をしていたのだ。そしてふっと泣きそうになり、静かな笑みを唇に浮かべた。
「うん。辛かったよ。でも、憲史みたいにわかってくれる人がいるから、僕は大丈夫」
英知はそう言ってグラスを置いた。
「憲史にバレてよかった。今日、本当にそう思ったよ」
「辛いときは、話せよ。誰かに言いたくなったら、とことん聞いてやる。俺にはそれくらいしかできないから」
「誰にでもできることじゃないよ。ありがとう」
そして、彼は自嘲するように言った。
「亮を殴った彼、僕のことを『計算高い』とか『平気で人を利用するような男』って言ったでしょ? あれ、当たってるんだ」
「なんでだよ」
「僕は亮への報われない寂しさを、あの人で埋めていたのは否めないし、憲史をバイトに誘ったのも、亮の様子が聞ける機会が増えるからって下心もあったんだ」
「あ、そうなの? でも、俺は助かったんだから、気にしないぞ」
「憲史のそういうところ、好きだよ」
「惚れるなよ」
「もう手一杯だよ」
俺が笑い声を上げると、英知もつられて噴き出した。
「でも、前に、僕が仕事を辞めたあと、憲史みたいに呆然としてたって言っただろう?」
「うん」
「僕がそうだったからって憲史も同じじゃないってわかってるし、お節介かもしれないけど、いろんな仕事を知るのもいいと思ったんだ。それは本当だよ」
「ありがとう」
「でも、余計な御世話だったかな。憲史はそんなことしなくても、カメラマンの道を選んだだろうから」
「そんなことはないよ。いろんな仕事を知るのは、プラスにこそなっても、マイナスにはならないさ。それに、亮のバイトが減って不安だった俺には十分救いだったさ」
俺はそれから二杯ほどグラスを空にし、会計を済ませた。
店を出るとき、英知はこう言った。
「今日はありがとう。いつか、このお礼は違う形で返すから」
「おう、期待しないで待ってるよ。じゃあな」
軽く手を振り、中通りから大通りへと抜ける。酔っ払いの客を狙ったタクシーが何台ものろのろと徐行する合間をすり抜け、家路についた。
頭の中は、亮と英知のことでいっぱいだった。人を想うってどうしてこんなにややこしいんだろう。いろんなものが絡まって、知らない間に人をがんじがらめにしてしまう。きっと、あの亮を殴った男だって、本当に英知が好きだから嫉妬に狂ったんだ。
ふと、里緒さんの笑顔が思い出された。前夫と会って、彼女はどんな話をしたのだろう。そして、どんな顔をするのだろう。
俺も英知のようにずっと誰かを想えるとしたら、彼女だったらいいのに。
「あぁ、会いたいな」
俺の独り言が、真っ暗な商店街の真ん中で響いて、消えた。
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