第4章 新陽通り気質
白紙の原稿
入院した父親は、すぐに手術をしたわけではなかった。最初の二日間は手術に耐えられるか検査を重ね、体を休めていたらしい。
そして水曜日の午後に、父親は手術を受けた。俺は病院へは行かず、写真館で店番をしながら、半ば祈るような気持ちで何度も時計に目をやっていた。
帰ってきた母親に「どうだった?」と問い詰めると、「疲れたわ」と言いながらソファに身を預けた。
「いざお腹を開けてみたら、腫瘍が思ってたより小さかったんですって」
母親の顔はどこか晴れ晴れとしている。俺もほっと胸を撫で下ろし、向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、手術は無事終わったんだな」
「うん。腫瘍がね、胃の粘膜にぐりってねじれるように食い込んでて、それで大きく見えたらしいの。もう少しで粘膜を突き破るところだったって」
「あぁ、じゃあ、もう少し遅かったらあちこちに転移してたってことか」
「そういうことなんでしょうね。胃は三分の二を切り取ったから、今までと同じようには食事ができなくなるだろうし、これから大変ではあるわね」
「抗がん剤とかはないの?」
「なし。放射線もホルモン治療もないんだって。不幸中の幸いよね」
思わず安堵のため息が漏れた。
「そうか、よかった」
「でも、鼻にチューブが入って痛そうよ。切ったばかりなのに、お医者さんから『明日から歩きましょう』って言われてた。かわいそうだけど、動かないと治らないものなんだってね」
想像しただけで痛くて、つい顔をしかめてしまった。
「なんて顔してんのよ。あんたが切ったわけじゃあるまいし」
母親は「そういえば」と、体を起こした。
「あんた、お父さんのお見舞い行くんだったら前もって教えてよね。お母さんが店番するから」
「あぁ、うん。でも、撮影が入ったらまずいし、そのうちな」
「あ、ちょっと!」
母親が制するのを無視して、そそくさと部屋に逃げ込んだ。
情けないのを承知で正直に言うと、鼻にチューブの入った父親を見る勇気が持てなかった。手術はうまくいったとはいえ、尾羽打ち枯らす姿を直視するのはためらわれた。
ベッドに腰を下ろすと、枕元に置いたままのコピー用紙を手に取った。フリーペーパーに載せる記事の文章を書こうとしているが、最初の一文すら思いつかない。見出しのスペースを丸で囲んでいるものの、その中は真っ白だった。
そろそろ麻美さんに見せなきゃいけないというのに、このままでは制作費がかかってしまうことになりかねない。
せめて見出しだけでも決めなきゃと焦った俺の脳裏に、麻美さんの提案が思い出された。
「写真館の三代目、か」
入院している間に勝手に三代目を名乗ったら、親父はなんて言うだろう。そう思うと、ペンを取る気になれなかった。
なのに、写真館にひっそりと置かれたカメラを思い出され、胸の真ん中にぽっかりと風穴が空いたような気持ちになる。
あのカメラは、俺の手に馴染んでくれるだろうか。勝手に抱いたイメージで父親を軽んじて、家族を顧みることもせず、好き勝手に生きてきた俺の手に。
「どうすっかなぁ」
コピー用紙を押しのけ、ごろりと横になる。いっそ、記事の内容は別の案でいったほうがいいかもしれない。麻美さんに相談してみようかと携帯電話に手を伸ばしたそのとき、ちょうど電話のバイブが鳴った。亮からの着信だった。
「もしもし」
「俺」
「あぁ」
「親父さん、どうだった?」
状況を話すと、亮が電話の向こうで安堵のため息をもらした。
「そうか、よかった」
「心配かけてすまないな」
「なんもだよ」
北海道弁で『いいんだ、気にしなくていいよ』といった意味合いの言葉を口にすると、亮は「それと、もう一つ」と、すぐ話題を変えた。
「駅ビルの話、知ってるか?」
「うん。英知の店でお客さんが教えてくれた」
「じゃあ、話が早い。明日、役員で臨時に集まって話することになったんだ。来れるか?」
「あぁ」
「よかった。そのときに洋子さんの記事をみんなに見せたいんだけど、進んでる?」
「いや、それがどうもうまく書けなくて」
決まり悪そうに言うと、亮が「あぁ、そうか」とちょっと思案したようだった。そして、こう提案してきた。
「じゃあ、写真だけプリントアウトしてきて。それを見て、概要を口頭で説明しよう」
「わかった」
電話を切って、天井のシミを見上げる。臨時とはいえ、初めての役員会だ。心にのしかかっている重みは緊張なのか、それともプレッシャーなのか。
どのみち、今夜は寝つきが悪そうだ。そう思ったくせに、ベッドの上で考え事をしているうちに、そのまま朝まで寝入ってしまったのだった。
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