第3章 斜陽のさざ波

撮影開始

 翌日、亮のところに弁当を届けに行くと、里緒さんと一緒にカウンターで話をしている最中だった。


「こんにちは」


 挨拶してくれた里緒さんの顔つきがいくらか和らいでいる。少しは店に慣れてきたらしい。


「こんにちは。もうだいぶ店に馴染んでますね」


「本当ですか? 嬉しいです」


 にこやかな笑顔にこちらまでほっこりする。


「俺には挨拶はないのか」


 亮はわざとらしくふくれっ面をして見せた。だらしなくヒゲを生やした男が唇を尖らせたところで、可愛くもなんともない。


「まず、ヒゲを剃れ」


「伸ばしてるんだ」


「やめとけ、ただでさえ柄が悪く見えるんだから、客が逃げてく」


「そうか? 気に入ってるんだけどな」


 亮は言葉も足りないし、体つきもいいから、威圧感がある。黙っていると『怒ってる?』ときかれるタイプだ。

 里緒さんがくすくす笑っていると、亮は「ところで」と真面目な顔になった。


「写真の件なんだが」


「おう」


「お前に依頼すると、写真一枚でいくらになる?」


「そうだな、一万五千円くらいかな」


 一日拘束される出張だと三万から五万はいただきたいところだが、今回は近所だ。

 亮は「ふぅん」と唸った。


「それじゃ、やっぱり一店舗につき一枚かな」


 ぶつぶつ呟きながら、一枚の名刺を差し出してきた。そこには『株式会社ノーザンメディア 編集部 浜口麻美』という文字があった。


「フリーペーパーの担当者だ。いつもならその人が写真を撮って取材して、文章を起こすらしいんだが、今回はこっちで用意した写真と記事を監修してもらう形にしてもらおうと思ってな」


「掲載料は払うんだから、向こうに写真も任せたほうが俺に払う代金がかからなくていいんじゃないの?」


「それなんだけどな、掲載料の問い合わせをしたら、向こうから提案したいことがあるらしい。浜口さんが直接説明したいから、お前を交えて三人で打ち合わせしたいって」


「えっ、二時間後に撮影だけど? その前に会ったほうがいい?」


「そうだなぁ。きいてみるか」


 亮は携帯電話を操作し、浜口さんに連絡を取り出した。


「お世話になってます、奥田です。はい。打ち合わせの件なんですけど、二時間後に写真撮影が入ってるんですよ。え? あぁ、そうですか」


 しばらく話したあと、彼は電話を切って俺にこう言った。


「写真は用意しておいていいそうだ。あと文章をある程度考えておいてくれって。夕方の四時にうちの店で打ち合わせしようって話になってるから、そのときお前も同席してくれ」


「わかったよ」


 まじまじと名刺にある名前を見つめ、俺は頷いた。


「じゃあ、あとでな」


 踵を返した俺を、不意に里緒さんが呼び止めた。


「あの、憲史さん、この前話してた歓迎会なんですけど」


「あ、はい。娘さん、なんて言ってました?」


「はい、ぜひ一緒にご飯食べに行きたいって嬉しそうにしてました」


「よかった。何が食べたいって言ってました?」


「あの、それが、ハンバーグなんです」


「いいですね」


 いかにも子どもらしいリクエストだが、俺の好物でもある。なんだか気が合いそうだ。それに、寿司をねだられるより財布に優しい。


「いつにします?」


「日曜だとありがたいんですけど」


「じゃあ、ちょっと早いですけど十一時にしましょうか」


 土日は書店のバイトがある。一緒に昼御飯を食べてから出勤しようと考えて提案すると、亮が卓上カレンダーを手にして微笑んだ。


「里緒さん、次の日曜でいいですか?」


「えっ、はい」


「じゃあ憲史、バイト休んでいいぞ」


「本当に? 配達は?」


「この日は入荷もないから、配達も休みだ。俺の分も楽しんでこい」


「店長、すみません。ありがとうございます」


 慌てて頭を下げた里緒さんに、亮が微笑む。


「とんでもない。かえって、参加できなくて申し訳ないです」


 亮が柔らかい目元をしている。それは人見知りの彼が気を許した相手にしか見せない顔だ。もっとこういう顔をしていればいいのに。


「それじゃ、日曜に」


 里緒さんと待ち合わせの時間と場所を決めてから、自分の部屋に戻った。洋子さんの撮影まであと二時間あまり。クローゼットの奥にしまいこんでいたダンボールを漁り、中から一眼レフを取り出した。


「こんなに重かったっけ」


 俺の愛用のカメラは、美月さんから格安で譲り受けたものだ。


『憲史はもっとスタジオを飛び出して写真を撮ったほうがいいよ』


 そう言って、彼女は望遠レンズとカメラボディーを快く譲ってくれた。

 いいカメラは値段もはる。カメラボディーだけでも上位機種だと数十万する。それだけじゃない、レンズだって十万、二十万なんてざらだ。


 レンズにもいろいろ種類があるのは知っていたけれど、実際どんなレンズがあるのか知ったのは、スタジオに就職してからだった。


 望遠は遠くのものをアップで撮ることができ、ポートレートの場合は被写体が撮影者の視線を気にせずにいられる。広角だと広い範囲をおさめることができる。単焦点レンズは焦点距離が固定だから被写体に撮影者が寄ったり離れたりして構図を決め、明るいレンズで背景ボケを楽しむのにいい。


 焦点距離50mmが標準レンズ、それ以下が広角レンズ、それ以上は望遠レンズ。ズームレンズは広角から望遠までシェアできてレンズで調整できるから、レンズ交換する暇がないときに使う。


 機種やレンズにこだわらない人もいるだろうが、カメラボディーにレンズ、それにクリップオンストロボまでそれなりに揃えようとすると百万近く簡単に飛んでいく。


 いい機材を使えばいい写真が撮れるというわけではないけれど、形から入る俺は、ネイチャー写真への憧れがまだあった頃に幾つかレンズを買い足した。それなのに、実際は休日までカメラを触る気になれなかった。


 スタジオで写真を撮っていた六年間の東京生活のあと、ブランクはたったの二ヶ月だ。なのに、カメラの手触りにもう懐かしささえ感じる。

 どうしてもカメラを見ると美月さんを思い出してしまい、しまいこんだままだったのだ。


 美月さんはどうして俺に外で撮るようにアドバイスしてくれたんだろう。素直に休日にカメラを持って飛び出していれば、今頃何かが違っていたんだろうか。胸の奥にチリッとした痛みが走った。


「いやいや、今は用意をしなきゃ」


 またうじうじと考えに耽る前に、慌てて気を引き締めた。洋子さんとの約束の時間が迫っている。


「ズームレンズと単焦点レンズかな。バッテリーは大丈夫かな、近所だし」


 ぶつぶつ呟きながらレンズを用意して本多精肉店に出向いた。


「憲ちゃん、待ってたよ!」


 出迎えた洋子さんを見て、唖然としてしまった。今日の彼女はしっかりフルメイクをして、髪を綺麗に巻いていた。服だっていつものTシャツとスパッツではなく、花柄のワンピースだ。


「えっと、今日はよろしくお願いします」


 洋子さんの化粧をした顔なんて初めて見たんじゃないだろうか。失礼だとは思ったが、思わず食い入るように見てしまった。

 彼女はそんな俺に気づきもせず、カメラを見て顔を輝かせた。


「すごいレンズ。さすがプロだわねぇ。で、どんなポーズとればいい?」


「いや、あのいつもと同じように接客してくれれば」


「えぇ? それだけ?」


「はい、お客さんと接しているところを撮らせてもらいますから」


 拍子抜けした顔をしたあと、彼女は「あら、そう」と唇を尖らせた。

 肉が並ぶショーウィンドウや店構えを写真におさめていると、常連客らしき年配の女性客がやってきた。


「いらっしゃいませ」


 振り向いた洋子さんに、女性客が目を見張る。


「あれ、今日はおめかししてデートでも行くんかい」


「違うわよ、ほら、今日は撮影が来てるのよ」


 そう言って、カメラを構えた俺を指差す。女性客は「ほお」と唸った。


「なんか知らんがすごいねぇ」


 そう言ってケラケラ笑うと、女性客は鶏肉と豚肉を注文した。


「はい、少々お待ち下さいね」


「あれ、言葉遣いまで綺麗になっちまって」


 シャッターを押すごとに、俺の指が重くなっていく。自分が大きなミスをしでかしたことに気づいて、青くなった。フィルター越しの洋子さんが、どんどん知らない人に見えてきたからだ。


 けれど、今はできる限りのことをするしかない。冷や汗をかきながら撮影をした。

 それから数人の客と話しているところを撮影し、洋子さんにデータを見てもらった。


「あら、これ、いいじゃない」


 肉の包みを手渡しながら微笑む写真を、彼女は気に入ったようだ。


「フリーペーパーに載せるんでしょ? いつ配布になる?」


「いや、そのへんはこれから打ち合わせしていくんで、まだ詳しくは知らないんです」


「あら、そうなの。それより、この写真、くれる?」


「プリントアウトして、明日にでも届けますよ」


「そうしてくれると嬉しいわ」


「洋子さん、文章も載せなきゃいけないんですけど、店の特色というか、売りってなんですか?」


「えぇ? そんなこと言われてもねぇ」


 少し考えたあと、洋子さんは首をすぼめた。


「新鮮なものを安心してお召し上がりいただけるようお届けしますとか? ううん、私はこういうの苦手だから、なんとかしておいて」


「はぁ」


「そんなことより、この写真、本当いいわぁ。さすが写真館の息子ねぇ」


 まいった。言い出しっぺのくせに、宣伝する気はあまりないらしい。

 それでも上機嫌な様子に少し安堵し、そそくさと礼をした。


「それじゃ、今日はこれで」


「あら、もう終わり? お疲れさんでした」


 そう言って、彼女は目元をボリボリ掻いた。


「慣れない化粧で目が痒いわ」


 俺は苦笑し、逃げるように店をあとにした。


「やっちまった」


 そう思わず呟きながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る