8.うつ転

 雪凪はトキオと妻に御礼を言うと、深々と頭を下げた。

「お話ししてくれて、ありがとうございます」と、感謝の言葉をしっかりと伝えた。

 面接時間、約一時間。この一時間は、実に濃く、誰もがとても価値のある一時間だと感じていた。


 面接室を出た二人は「代金のお支払いを――」と雪凪に声を掛けたが、「料金は発生しませんよ」と笑顔で答える。

 ワーカー面接は、基本的に料金は発生しない。無償で情報を提供し、つらい気持ちを傾聴する、とても頼りになる存在――、それが精神保健福祉士でもあるのだ。

「いえ、でも」とどうにか料金を支払おうとしてくれているトキオと妻。きっと『お金を払いたい』と思ってもらえるほどのを、感じてくれたのだろう。その気持ちだで、雪凪は十分すぎるほどであった。


 二人を見送った後、雪凪は面接室へ戻り、面接の記録を作成する。トキオや妻の言葉、印象、聞き取った内容、そして結果どうなったか――。

 その記録を見た小山田は、これまでのカルテを振り返り、最新のカルテに今後の方針を軽快に、そしてリズミカルに打ち込んでいく。



 更に、トキオに変化が現れた。


「トキオさん、奥様。こんにちは。最近のご様子はどうですか?」


 面接があった翌週、トキオは予約通りにクリニックを訪れた。

 いつものように妻と一緒に来院。しかし、妻の表情はいつになく明るく、受付に対して笑顔で挨拶を交わしている。


 トキオの順番が回って来たため、名前を呼ばれ診察室へと入っていく。いつもであれば小山田の正面にトキオが座り、その後ろの椅子に妻が座り、ただトキオが喋っているのを聞いているだけという状況であった。

 しかしその日は、トキオは自分の座る椅子を少し右にずらし、その隣にもうひとつ椅子を設置した。「お前、ここ座れよ」と妻を自分の隣に座るように誘導したトキオ。妻は、嬉しい気持ちを隠しきれず、思わず笑みがこぼれ落ちる。


「あぁ、先生。実はね、最近気持ちが少し落ち着いてきたんですよ。先週、雪凪さんと妻が話をしてね、客観的に自分の生活を聞くことができたんです。そしたらね、『あぁ、今上がっているのかな』って、なんとなくですけど、自分で気付けるようになってきたんですよ。って、俺はそう思うんだけど、お前から見て正直、どんな感じ?」


 トキオが妻に意見を求めた。

 これには小山田も妻も驚いた。

 これがワーカー面接の効果か、と小山田はワーカーのありがたみを強く実感する。


「そ、そうね。先生、私から見ても、夫は落ち着いていると思います。買い物も減ったんです。毎日来ていたアマゾンさんからのお届け物が、今は週に一、二回来るか来ないかくらいです」

「たしかに。最近通販はできるだけ見ないようにしているからな~。あ、妻にも何か気付いたことがあれば、もう直接ハッキリと言ってくれって頼んでいるんです」

「でもね先生。この人、こうやって言っていますけど、私が言ったら舌打ちするんですよ」

「それはしょうがないだろう。ちゃんと悪いと思っているよ」


 楽しそうに話すトキオと妻。そんなやりとりを小山田は安心した表情で眺めている。やはり、家族の存在は大きい。それをしっかり繋いでくれた雪凪の支援はとても意味のある大きなものであった。

 そして一通り話を聞いた小山田は、薬の量や種類を変更していきたいという申し出を二人にした。もう少し波を抑えていく必要があるため、定期的な採血と薬の提案をする。

 二人はお互いの顔を見合わせると、笑顔で小山田に言う。


「大丈夫です、先生。それでお願いします」

「何かあれば私がついていますので、お願いします。先生」


 トキオの治療は、やっとスタートラインに立った。



 ◆


 それから二ヶ月が経過――。


 薬を調整したおかげで、順調に気分の高揚を抑える事ができていたトキオだったが、ある日を境にうつ状態へと転換してしまった。

 きっかけは、某テレビ番組でやっていた双極性障害の特集。その内容が入退院を繰り返し、社会生活が未だままならない入院患者がいるという内容。

 前を向いて社会復帰を目指している本人からすれば、重くつらい内容だったのだろう。突然調子を崩し、寝たきりの毎日が始まった。


 診察にトキオが来ることもほとんどなくなり、妻が代診することが目立った。久し振りに来院できた日もあるが、食事もろくに摂っていないのだろう、頬はやつれ、無精ひげを生やしている。あれだけ気を遣っていた服装も、寝間着のような服しか着て来ない。

 妻にもその負担は重たく圧し掛かる。トキオの日常生活のすべてを、妻が援助する形となった。とてもじゃないが、援助なしではひとりでは生活できないほどの状態へと陥ってしまった。


 そんな時も雪凪は、妻への支援を欠かさなかった。

 来院毎の声掛け。そして精神的に限界だと訴える妻を面接室に招き入れ、気持ちの傾聴をする。時にはつらすぎて、一時間泣きっ放しのこともあった。夫だけでなく、自分の体調の心配、夫の復職への不安――いろんな感情が爆発した思いを、雪凪はただただ受け止めた。


 妻からすると『話を聞いてくれる存在』が近くにいることが本当にありがたかった。こんな夫の話を誰にしていいものか、誰が私の苦労を分かってくれるのか、ただでさえ毎日夫のサポートで疲労困憊しているのに、そう考えるだけで自分の方も参ってしまいそうだった。

 ただ話を聞いてくれる雪凪の存在は大きかった。妻の全身を駆け巡る様々な不安を、一切否定せずに、雪凪はすべて『つらいですね』と受け止めてくれた。


 そんな雪凪の支えもあり、妻は何とかうつ状態のトキオを必死に支えることができた。


 トキオも、そんな妻の支えの甲斐あり、少しずつ回復の兆しが見え始めた。

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