第3章 つのる恋心

『スカーレットへ


 決断してくれてありがとう。君と相棒になれることを嬉しく思う。改めて、よろしく。

 さて、早速だけれども、君に頼みたいことがある。

 英語科資料室の窓際に、人形が飾ってあるのは知っているかな。イギリスの衛兵の制服を着た、木製の人形だ。ロンドンのお土産らしいけど、まあ、それはどうでもいい。

 そいつはいつも、窓に背を向け、部屋の中を向いて立っているのだけども、こっそり窓の外に向かって立つように位置を変えて来て欲しい。勿論、誰にも君が人形の向きを変えたところは見られないようにね。

 英語科資料室は、英語の先生の誰かは詰めているけれども、明日の午後四時から、全教職員を対象にした会議が大会議室で開かれるので、その間は無人になる。少し遅い時間になってしまうけど、是非お願いしたい。

 できるなら『○』、無理ならば、『×』と書いたメモを、この本に挟んでおいて欲しい。それから、どちらにせよ、この手紙は読み終わったら、誰にも見つからないよう、燃やすなり、小さくちぎって処分してくれ。

 手間をかけてしまうけど、よろしく頼む。ちゃんと、お礼も用意しているので。

                 

                                    ジョージ』



 何だこれは? というのが、ジョージからの指令を読んだ私が、真っ先に抱いた感想だった。


 英語科資料室の衛兵人形のことは、私も知っていた。赤い軍服の上着に黒いズボン、頭に黒の縦に長い帽子を被った人形だ。ぎょろりとした目にトウモロコシの髭のようなチリチリした金髪が生えた、お世辞にもかわいいとは言えない代物だ。確か、昔、この学校で教鞭を取っていた英国人教師の置き土産と聞いていた。

 しかし、あの人形の顔の向きを変えることが、一体ジョージの歴史調査任務に、どう役立つのか、見当がつかなかった。

 部活動もしていなく、一緒に寄り道をして遊ぶ友人もいない私は、放課後は家に帰り、宿題をするしか予定のない暇人なので、夕方四時以降まで学校に残り、人形の向きを変えて帰るくらい何の支障もない。午後の授業が終わってから四時まで、一時間程時間があるが、図書室で宿題を済ませたりしていれば、あっと言う間に潰せる時間だろう。

 何でそんなことをしなければならないのかは分からないが、受けるか否か、悩む程もない、簡単な仕事だ。しかも、お礼まで用意してくれているなんて、嬉しい限りだ。


 私は、セーラー服の胸ポケットに入れている生徒手帳のメモページに大きく『○』と書いて破り、『物理学概論』に挟んだ。

 今までジョージから貰った手紙は、自宅の勉強机の鍵がかかる棚に大切に保管していたので、今回の手紙を処分しなければならないのは、残念だったが、彼にもやむにやまれぬ事情があるのだろう。自分のことばかりでなく、相手の都合を考えて行動できるのが、淑女だと修身の授業でも習った。

 ジョージの手紙は、小さくちぎり、帰り道のバス停や路面電車の駅に置いてあったゴミ箱に分割して捨てた。




 次の日の昼。『物理学概論』には、一言『ありがとう』とジョージの筆跡で書かれたメモが挟まっていた。たった五文字の言葉に、天にも昇る気持ちになる。だが、すぐに彼を失望させないよう、必ず任務は成功させなければならないと気を引き締めた。


 夕方、女スパイにでもなったような高揚した気分で、無人の英語科資料室に忍び込み、指示された通りに人形の向きを変えた。大した仕事ではないのに、無事、誰にも見つからずに資料室を出、昇降口に辿り着いた時には、どっと冷や汗が噴き出てしまった。

 明日、ジョージからどんな返事が返ってくるのだろうか、お礼って何だろうと夢想しながら、私は浮ついた足取りで校門を後にした。

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