第5話 旅立ち

はっと瞼を開く。ここはどこだったろうか。


生き延びたという安堵と極度の疲労のせいで、ちょっとだけうとうとしてしまったようだ。目の前に横たわる父が目に入る。鮮やかな記憶がどっと蘇る。


憶えている。母の温かいおにぎり、父との会話。人の意識には連続性が無いと言っていたが、本当にそうなのだろうか?さっき少しだけ眠っていた間に、意識が消えて、記憶が整理整頓されて、新しい意識が再構築されたのだろうか?私は死んで生まれ変わったのだろうか?


手のひらに力を入れ、ぎゅっと握る。私はまだ生きている。意識の連続性なんてくそくらえだ。たとえ今の私が再構築された意識でも、今までのこと、辛いことや楽しかったこと、全部憶えている。過去の私が経験した記憶が、今の私を作っている。それでいいんだ。それだけでいいんだ。


腕を大地に突き立て、重い体を引き上げるように立ち上がる。まだ足がふらつくが、生き延びたという安心感が私の足を支える。


美しい。鳥肌が立つほどに。足元に広がる紫色のクリスタルの欠片たちが明滅している。まるで夜空に瞬く星々のよう。あの時、公民館でカツミが死んだときの記憶が蘇る。


頭の中で何かが引っかかる。これは何だろう?何か重要なことを忘れているような、半透明な意識の水底を何かが泳いでいるが、水面にぎりぎり浮かんで来ない。


そうあの時、トランスクライバーがカツミを覆っていた。私は夢中でコンクリートの塊を握りしめ、クリスタルを粉々にしたんだ。それは廊下に散らばって明滅し始めた。近くには起動していないトランスクライバーが1つ、転がっていた。そう、それが青からゆっくりと紫に変わり、共鳴するように同じリズムで明滅を始めた。トクトクとまるで鼓動のように。


『奴ら』にとってもトランスクライバーは貴重なものなのだろう。確実に必要な時だけ起動される。トランスクライバーが壊れていて、狙っていた脳が近くにある場合のみ付近の個体を起動させる、合理的ではあるシナリオだ。


あの時、破壊されたクリスタルは近くにあったトランスクライバーに何らかのメッセージを送って起動させたのだろうか。


「!」


そうだ、母の持ってきたトランスクライバー…


顔を上げて周りを見渡す。おにぎりの入っていたバスケットの上にそれは居た。六本足をまっすぐ延ばして背伸びしている黒いタコのような物体、獲物を待つ捕食者だ。そして明滅する紫色のクリスタル。目は無いのに目が合ったのが分かる。


「!」


瞬間、バックポケットに仕込んである非常用の拳銃に滑り込むように手を伸ばし、セーフティーを親指で解除しつつ左手でスライドを引く。トランスクライバーは軽快に跳ね、私の目の前に迫る。


「パン、パン、パンッ!」


黒い足が二本ちぎれ宙を舞うが、一直線に進んでくるそれを止めることは出来ない。トランスクライバーが視界から消える。目の前が真っ暗になる。


「がぁぁっ!」


捕まった。粘着性の触手が顔面を締め付ける。全身に電流が流れるように感覚が悲鳴をあげる。地面に倒れる。


そうだ、今私は拳銃を手にしている。これを頭に向けて引き金を引けば、すべて終わる。人間としての誇りを保ったまま死ねる。私は私のままでいられる。右手に意識を集中し、重くなった拳銃をゆっくりと動かし、こめかみに突きつける。あとは引き金を引くだけ。引くだけなのに…。引き金を引く指に力が入らないのは麻痺のせいだけではない。


『私には出来ない!』


容赦なく口の中に太い管が入ってくる。気道を確保して呼吸を支配する。私の意志に反して、穏やかで深い呼吸になる。胸に鈍い痛みが走る。そして何かが私の心臓を動かす。脈拍が下がる。トランスクライバーは人を絶対に殺さない、転写が終わるまでは。


心が不自然なほどに落ち着いてくる。そして意識が朦朧としてくる。


トランスクライバーが後頭部の方へ動き、頭蓋骨を削る音が骨伝導で聞こえる。触手のちぎれたところから外の景色が見えた。枯れた杉の枝が寂しそうにこちらを見ている。その時、ふと気づいた。薄暗い空からひらひらと舞い落ちてくるものたちに。


『雪が…降ってきたね、お母さん』


脳へ続く動脈内に不活性化されたクロスリンカーが投与される。血液脳関門を越えて脳内に染み渡っていくだろう。頭蓋骨に開けられた穴からもクロスリンカーが流れ込んでいるだろう。脳脊髄液を通してまんべんなく脳内にいきわたる。


『雪、積もるかな?』


しばらくしたら、ほんの少しの活性分子が動脈内に解き放たれる。それが生物としての私の最期となる。


『明日、学校休みになるかな?』


活性分子はクロスリンカーと連鎖反応を起こし脳内は瞬間的に固定される。私の意識のスナップショットとなる。


『お母さん…』


固定され、活動を止めた脳細胞が一つ一つナノマシンに置き換えられて、コネクトームが転写されていく。


『お母さん…ありがとう…』


これが、死…

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