13.覚醒



 …………。


 

 ザーザーと雨が降る。

 

 空気は妙に淡い。


 手には砕け散った誰かの涙が握られていた。


 僕はそれを意味もなく見つめる――


 なんだ、これ? 


 わけがわからない。

 ほんとうにまるで意味がわからない。

 それなのに、心の奥からなにかがぐわんと込み上げる。

 御し難いほどの勢いで、襲い掛かる――


 僕はそれに胸を掴まれてしまった。


 そうして、わけもわからないまま、ただ泣いた。

 わからないから、ただ泣くことしかできなかった。


 僕は嗚咽に溺れた。


 降りしきる雨とともに、どうしようもなくなにかが洗い流されていくのを感じていた――







 やっとのことで泣き止んだ僕は、本棚に飾ったぬいぐるみをふと見やった。


 なぜだかやけに懐かしい。力の抜けるような間抜け面だ。


 でもどこか頼もしさのようなものさえ覚える。


 僕はその線を引いたみたいなジト目を、意味もなく見つめていた。


 

 ――強く生きるんじゃぞ。


 ……いっしゅんそんな声を聞く気がした。

 

 それは発し方を間違えれば暴力にしかならない言葉だ。

 でも、そのメッセージはなによりも優しいものに思えた。








 …………。



 眠られないままに朝が来る。

 雨はすっかり止んでいた。

 

 心には、ぽっかり穴が空いていた。


 やっぱり僕は、もう強く生きられそうにはなかった。





 しばらく、抑うつの日々が続いた。

 なにもする気が起きなかった。


 死んでいればよかったと、何度も思った。


 申し訳なさなんてなくて。

 ただ否定されるのが、なによりも怖かった。


 それでもなかなか動き出せないまま、日々は続いて行った。



 …………。


 

 ある明け方、久しぶりに外へ出た。


 不思議と心が晴れやかだったから。

 窓の外に見える薄明はくめいが、妙にうつくしく見えたから。


 埃を被った靴を履き、扉を開けた。

 流れ込む空気はやけに新鮮だった。


 しんと澄み渡った路地を歩いた。

 朝焼けに浮かび上がる遊歩道を歩いた。


 そよ風が心地よかった。

 

 木々の匂いがやわらかだった。

 

 朝空とばら色の煙がきれいだった。


 飛び交う小鳥が愛おしかった。


 なにもかもが生き生きしていた。

 

 気分はすこしだけ、自由だった。

 僕はなんだか、また生まれ変わったような気になっていた。


 そして不意に直感した。


 僕はこれから、生きてゆくのだろう。

 

 この胸の空洞からっぽも、いつかは満たされてゆくのだろう。


 いずれ過去のものとして、すべてが遠ざかってゆくのだろう。

 

 だから、せめてもの記念に、その空洞からっぽへ名前をつけてやることにした。



 ――そうして、すぐに浮かんだのは、なぜか「きぼう」という名前だった。






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