12 憐れみを受ける偏屈者。

「博士、そろそろ昼ごはんが出来ますよ」


「む、そうか」


上月とのひと悶着の後二週間ほど。


瀬上さんは休暇に入っていた。冬休みである。学生の休暇といえば青臭さの工場のようなものだろうに、彼女は甲斐甲斐しく私と老紳士の世話を焼く日々を送っていた。


「先ほど父君が出ていったが、彼は一体どこへ?」


「たぶん、畑ですね。そろそろ畑づくりの時期なので。そういえば、そろそろ博士を仕事に連れて行く頃合いだろうって言っていました」


彼女は家事をする背中越しに答えた。


「ああ、勘弁してもらいたい。本当に私を働かせようというのか。まったくありがたいことだよ」


当然のように労働を強いる連中はその行為をなんとも思っていないのだろう。それが自分たちの日常であり、他人にとってもそうだと思い込んでいるからだ。


あるいはそうあるべき、と思っているのかもしれない。そして私のような部類の人間を見下すのだ。おせっかいな連中は私を矯正しようとするのだ。いったい何様だというのか。そんなことならば私はゼノンの矢でも亀に追いつけないアキレスであっても構わない。


「はい、どうぞ」


私の生産性の無い思考を途切らせるように、厚手の皿がコトンと置かれた。


湯気たちのぼる、猪肉のポトフだ。人参の鮮やかな朱が芋と玉ねぎの白に映えている。ローリエと散らされたバジルの具合もいい。


「今日はわたしも手伝いに行くので、畑についてきてください」


正面の席に座る彼女が言う。


「私はまだ治っていない」


一緒に出たガーリックのペペロンチーノをすすりながら、私は抵抗を見せた。


「ついてきてください」


「私は──」


「いきなり働くことになっても困るだけですから。一度現場を見ておかないと。足手まといになられたらわたしたちも困ります。努力してください」


「……」


「あ、そろそろ洗濯しないと。少し外に行ってきます。干し終わったらすぐに出発しましょう。声をかけに来ますね」


「では皿洗いぐらいはさせてもらおうか」


「働きたくないんじゃないんですか?」


「労働と報恩は別物だ。少なくとも私の中では」


「ふふっ。でも、いいです。博士、その腕でどうやって洗うんです?」


「なに、片腕でもやれるさ」


「やめておきましょう。怪我に障りますし、きっとお皿も割れてしまいます。目も悪いのでしょう? それもその内どうにかしないといけませんね」


ニコリとする瀬上さん。有無を言わせない表情だ。きっと家事というのは+、この家において彼女だけの領域なのだろう。瀬上父がまともに料理も出来ないのはそういうことに違いない。


問えば好きでやっている、と答えるには違いないが、つまり彼女は率先して苦労を背負っているのだ。


田舎ならどんな人間でも善良になれるとは言うが、その善良は偽善ばかりだ。偽善は世を腐らせる。ロクな誘惑もない田舎においては、腐る──すなわち頽廃するというよりも、ただ沈滞のみを引き起こすわけだが。


だが瀬上さんはそういうものとは異なるように思うのだ。堂々だが、野暮でない。毅然だが、嫌味でない。貴人だが、気取らない。まさしく淑女レディーなのだ。体面にばかり気を取られアストラカンの外套を着る見栄の英国淑女でもない。


遠慮なく忌憚なく欺瞞もなく、彼女は言いたいことを全て伝えてかつ、人を気遣うことができる清々しさがある。一方で、私にはそれが異常にも見えるのだ。この年頃の女性にしては出来すぎている。


まるで酸いも甘いも経験してきた老婆のような精神力だ。魔術でも行っているのか。そうなるといよいよあの月末亭サバトが現実味を帯びるというものだ。


魔女かどうかはともかく、私は彼女の頭の中、あるいは精神というものに興味をひかれているのだ。知ったところで私には理解できないであろうことはわかっている。盲信した芸術家バジル魅惑の親友ドリアンを最後まで理解できなかった。それが私のような空論家ならば言うまでもないだろう。


しかし違うのは、瀬上さんが不変の貴人であろうということだ。彼女の魂は既に熟練しているのだから、見間違うはずがないのだ。深きものに心惹かれるのは当然のことだ。あるいは大海を知った蛙も、いずれ井戸の中に戻ってくる。


私には少し多い食事を終え外に出てみると、ちょうど瀬上さんが最後の洗濯物──私のシャツだ。破れていたのを瀬上さんが縫ってくれた──を干し終わったところだった。


「ご苦労なことだ。私が言うのもなんだが、いつもいつも感謝する」


「いえ、これもわたしの仕事です。お皿は割りませんでしたか?」


「ああ、出来るところまではやったんだが、やはり片手では運ぶことも出来なかったよ。これを動かすには体を捻らねばならないからな」


車いすを叩いてみせる。


「早く足が治るといいですね」


「それはどうかな」


「ふふ。じゃあ、そこで待っていてください。少し準備しますから」


「ああいや、私も持っていくものがあるからな」


────


少しの後、私たちは農道を歩いていた。


いや、歩いているのは瀬上さんだけで、私は押されているだけなのだが。辺りは麦畑で、ここも来年の夏秋になれば金色になるそうだった。


「紳士は畑づくりに行っている、という話だったが、ここらは麦畑なのだな」


「ええ、ここは父の畑ではないですから。うちは正確には農家ではないんですよ」


「どういう意味だ?」


こんな山の中の泥臭い生活など、農家以外にどんな道があるだろう。


「まあ、後で説明します。どうせ時間はありますからね」


「ふむ。……ここも、来年には見事な金麦畑になるのだ、しばらく小麦狼ヴァイツェンウォルフにでも祈っていようか」


「なんですか、それ?」


「豊穣神、あるいは豊穣王といったところだな。いわゆる神というやつだよ。──しかし彼ら神も大変だろうな。いくら彼らでも好きなように土壌を弄れるわけではない。いかに努力しても彼らにもどうしようもないことはあるのだ」


「まあ、そうでしょうね」


「だのに不作の年となれば、彼らは信仰を失いかねない。農家の命が作物だとすれば、彼らの命は人心だ。逃げも隠れも出来ない。まさに命がけで仕事をしなければならない。人の身で偉そうなことを言わせてもらえば、神も哀れなものだよ」


「博士、そろそろ見えてきますよ」


「む」


言われて顔を向けた先に見えてきたのは、広大とは言わないまでも、真新しく掘り返された跡のある、広々とした平たい土地だった。


段々畑ではなく、山の一部を切り崩したような形状で、一面はなだらかである。まだ畝は無く、仕切りか脈のように畑道がいくつも通っている。


「まさか、これを一人で耕しているわけではないだろうな」


「はい。わたしと父で二人です。博士にもここを手伝ってもらうんですよ」


「こんなところをわずか三人でやると?」


ありえない。何を考えているのだ。


「正直父の体力にはわたしも呆れます。しかもこれは父の趣味なんですよ。ここに植えるのは、さっきの麦畑のように季節ごとに一種類だけというわけではないんです」


呆れる、というのは本音らしく、困ったような苦笑いを浮かべる瀬上さん。


「簡単に言えば、ここは父の家庭菜園なんです。ピーマン、枝豆、トマト、茄子、南瓜、トウガラシ、レタス、キャベツ、アスパラ……他の農家の人たちから分けてもらった種か苗の内から撒く作物をその時の気分──何を食べたいかによって決めて作るんです」


「しかしそれでは、この広い面積とはいえ売れるようなまとまった収穫はないのでは?」


「はい、だから家庭菜園なんですよ。ここで作ったものは収入にはつながらないんです。作る作物もバラバラだし、毎年畑を作る季節も違うんですよ」


「なるほど、そうなると確かに趣味だ。この広い畑を家庭菜園とは……」


合理化された農業世界において狩猟採集時代のごとき気まぐれなやり方では、とてもではないが商品を売るための契約などできないだろう。


「しかし、では収入はどこから?」


「父は、村中の農家を一年中手伝って回っているんです。米農家も野菜農家も全部です。その全部の休閑期は重ならないので、春夏秋冬ほぼ関係なく働いていますよ」


「なるほど顔が広いわけだ。むしろ減少する農家同士の架け橋にでもなっているのではないか?」


「おかげで信頼だけはされていて、農家の人たちには事情通として頼られることもあるみたいですね。要するに雇われ農家をいくつも掛け持っているんです」


毎日雑務だか重労働だかをこなし、暇な時間にはこの広い菜園の手入れを趣味で行う。瀬上さんの言うように、まったく呆れた体力である。いったい何がそこまで彼の勤労意欲を刺激しているというのか。


刺激はおろか、退屈しのぎになりそうなものさえ、私には見当たらないというのに。


いや、仕事と似たようなことを趣味にしているのだ、自身にしかわからない意義を労働に見出しているのだろう。おそらくそれはそれである意味幸福なのだ。私はごめんだが。


畑を眺めていると、こちらに気づき、山道に近づいてくる者があった。噂をすれば影というわけでもないだろう。当然、瀬上父である。


「なんだ、ぼうずも来たのか」


「私はあまり気が進まなかったんだが」


「私と娘で足りるからな。特に困らんよ」


それは幸いだ。


「お父さま、今日はわたしも見学です」


「なんだ、手伝いに来たのではないのか」


「これはわたしとお父さまの趣味で、仕事ではないでしょう? それに、わたしには違う趣味が出来たんです。博士の怪我が治ったらまた手伝いますから安心してください」


「私は是非遠慮したいのだが」


「いえ、一緒にやるんですよ」


わかっている、私は労働という名の拷問にかけられ、精神は青銅牛の腹中で炭となるのだ。やはりここは地獄なのだ。そうでなければならない。私が生きて働くなどということがあってはならないのだから。


生者にとって労働は忘却の始まりにして帰結なのだ。生者が生者でなくなる、あるいは生者でしかなくなってしまうのだ。一度浸かれば抜け出ることは難しい泥沼の敗北なのだ……!


「ぼうず、酷い顔だな。そんなに嫌か」


「働くというのがどういうことかわかっていないからそう呑気でいられるのだ、あなたは」


「それは働いたことのない人間の口が言う言葉ではないだろう」


「内側から外側は見えないのだ。労働という一つの形しか見えていない。見ようとしていないのだ。貴方には私が憐れに見えるかもしれないが、私には貴方たちの方が憐れだよ」


「なんとも含蓄のある言葉だな」


「お父さま。……博士、働けとは言いません。一緒に働きませんかと言ってるんです。違いがわかりませんか? 馬鹿じゃないんですから」


「しかし──」


「それじゃあ、お父さまは畑に戻ってください。はい、これお弁当です」


特に不服そうな顔もせず、紳士は一言礼を言って藁の四角い弁当箱を受け取る。その場で食べるつもりらしく、敷物も敷かずに道に座り込んだ。粗雑な所作に見えるが、やはり背筋だけは伸びていた。


「さあ博士、ちょっと回ってみましょう」


瀬上さんに押されながら、畑道のひなた日陽を散歩する。私の視線は枯れ草と砂利の色彩貧しい道に注がれていた。


「博士。この景色を見て、働けそうですか?」


「さきほどの続きというわけか。私に気を遣うことはなかったというのに」


「博士には使ってませんよ。父の性格を考えたら、博士と話さない方がいいと思ったんです」


「あの紳士の性格?」


「父は、深くものを考えすぎるんです。特に自分のこと。自分の言葉が相手にどう感じられたか、とか。お酒が入るとよくそういったことを話してくれます。博士はすぐに寝てしまったから知らないかもしれませんが、あの月末会の日の夜もそういう話をしていたんですよ。村の人たちと並べて、博士のことも少し話してくれました」


「そうか」


「何を話したのか、聞かないんですか?」


「元より他人の評価など気にする人間ではないからな」


いや、その実気にしていた頃もあった。だが、私に向けられた視線には憐憫か非難の二つしかないと気づいた時、取り立てて気にするものでもないと思ったのだった。さとりのような神がかった力がなくともわかる。開票率1%で当落がわかる選挙開票のようなものだ。


「要するに、父は博士と話すと落ち込んでしまいます。そのくせ少しお節介なんです。面白いでしょう」


「なるほど。しかし瀬上さんに言われたとて、私がここで額に汗するというのは……」


恩義に応えるというなら一つは払い終えたと思っているのだが、瀬上父との契約の手前それを言い訳にも出来ない。


「む?」


道よりもいくらか色が濃い土──紳士が耕した跡だろうか──の畑を眺めていると、膝になにやら厚い布が乗った。


「ここは山の下よりも気温が低いですからね」


毛布ブランケットなどいつの間に用意していたのだろうか。確かに、寒さからか徐々に怪我が痛み始めていた。炎の如く気まぐれに揺れる内側の痛みは厄介なものである。


「ありがとう。貴女は気が利く人だ」


「いえ、わたしの使い古しで申し訳ないくらいです」


まったくこの器量と懐の深さは群を抜いている。かといって何かを誇る努力家というわけでも、逆に自動人形になるわけでもなく、自らを律し快活明朗。


彼女の中にはきっと、真っ直ぐなだけではない美しい芯が通っているに違いない。まるで私の知る世界の住人ではない。


「それで、働けそうですか? 博士は働くのが怖いというわけではなさそうなのに毛嫌いしているように見えます」


徐々に日の朱みを失った木々が遠くで一陣の風に晒され、葉の無い体を僅かに揺らしているように見えた。


「いや、怖いさ。労働は人間にとって恐怖だ。働いている人間が、自分が働く根源的な理由を把握出来ていない内は。働くことに理由はあるだろう。生きるため、金のため、好きだから、認められたいから、と。一見どれも働く全うな理由に見える。しかしそれで彼らは生きた意味を残せただろうか」


「どうでしょうね」


「ただ生きるために働くのはもちろんだが、金などという幻想のために働いても精神に残るのは虚無。好きだからと働いても成長するのは仕事の技術だけだ。他人に認められたいならば働く前にこそ自分に誇りが必要なのではないのか。──私は、退廃的だの刹那主義だのと言われサボタージュを決め込んでいる本職ニートとは違う意味で社会不適合なのだよ。働くのが嫌なのではなく、働くことで考えることをやめてしまうのが嫌なのだ。私は働く前に、何故生きているのかという問題を解決出来ていないのだから。その解法を労働にのみ求め己が立ち止まってしまうことが怖いのだ」


しばし、車椅子の車輪が小石を巻くじりじりという音だけが聞こえていた。この冷気に出てくる動物もおらず、早い日暮れに辺りは先よりも薄暗いように感じられた。


「博士は、労働を墓場のように言うんですね」


「墓場。なるほどその通りだ。停滞の地だ。精神の墓場。結婚がそうだと言う人もいるが、それは彼らが婚前に既に墓場にいることを知らないことを裏付けている。それほど労働は罪深い。精神の充実は、労働のためのいわば免許なのだ」


「働きながら考えればいいじゃないですか」


「墓場までの道は死地だ。死地では物事を考える暇が無いだろう。喜んで働く人間が私には不思議でならない。精神の自殺を己が道としている。生きている意味を自分の価値と同義だと思い込んでいる者ばかりだ。私にはそれが異常に見える。周囲が全て反面教師に見えて仕方がないのだ」


人はそれを忘れすぎている。身の回りの環境ばかりが進み、肝心の人間が停滞しているのだ。そんな歪な社会がまともに回るはずがないのだ。私から見ればあちらこちらで嬌声が上がっている。


「そうですね」


瀬上さんは興味なさげにあしらった。


「貴女はどう思っているのだ」


「残念ながら、わたしは博士と同意見ではないですね」


「それは、なぜ?」


「博士は自分が人だってことに不思議を感じているんだと思いますよ」


なるほど言い得て妙だ。確かに思い当たる節がある。いやもっと言えばピタリ当たっている。


「生きたり働いたりすることに、そんなに周到な意味が要りますか?」


「待て待て、いやそんなはずはないだろう」


瀬上さんの顔を見上げる。

一緒に動いた足に走ったピリっとした痛みで我に返る。


「博士は考えるのをやめたくないのではなく、考えていたいだけのように見えます。答えを探しながら、見つかって欲しくないとも思っているんです、きっと」


「私が逃げ回っているだけだというのか」


「そうじゃないですけど。博士は答えの無い問題に執心しているんです。それか、自分の望む答えだけを最初から決めつけて探しているんでしょう」


寒気を乗せた風が体に当たり、骨の芯がピリリと痛んだ。だが私には痛みに構う暇は無かった。


「では、私は空虚な足跡ばかりを残してきたというのか?」


いや、そんなことはない。私の疑問の答えはこれまで誰もたどり着いたことの無い境地で、私はそこで労働を踏み台に出来る存在になる。


傍らには同じ労働に目隠しされた仲間がいるのだ。彼らを救う勝利者が私であり、やがて出来上がるのは完全人たちだ。その輪が自然と広がり、悪貨にんげん良貨にんげんを駆逐している世界は変わるのだ。そこで私はようやく市民権を得る──!


後ろで車椅子のグリップを握っていた瀬上さんが、私の横に来て微笑みを見せた。


「働いてみれば、きっとわかりますよ」


そう言って瀬上さんは畑を超えて遠くに視線を投げた。少し目を細めた表情からは、憐憫か同情のようなものが読み取れた。


そして彼女は、その表情をそのまま、私に向けた。


「……君がそこまで言うのならば」


「そうですよ、もう諦めてください」


彼女は、私の目を見下ろしていた。私は目を逸らすことが出来ない。彼女の目は私ではなく私の精神を見、心底から憐れんでいる。まるで審判を待つ愚者の心持ちだった。


「博士はここにいるべきなんです」

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