飼育日記

海音海月

一日目

01

 朝は嫌いだ。目を刺す太陽の光が、無理矢理に私を眠りから連れ出してしまうから。


 布団の中はさながら揺りかごのようだと思う。温かくて、何処と無く優しい気持ちになるこの場所は、私が唯一落ち着ける場所だった。

 ゆっくりとまぶたを開けた。何度か夜中に目を覚ましてしまったからなのか、意外にもすっきりと起きることができた。重苦しい体を持ち上げてベッドから抜け出した。寝癖により所々カールした髪が、頬や目尻を撫でる。しかしそれすらも気にならなかった。


 私は今日、自殺する。


 机に立て掛けられた麻縄を手に取った。脳裏をよぎるのは、今までに受けた屈辱。十数年生きてきて良いことなど一つもなかった。こんな世の中、腐ってる。そう信じて疑わなかった。

 手首に残された真新しい切り傷の痕がちりちりと痛んだ。慣れ飽きたこの痛みとも今日限りでお別れだ。そう思うと、何故か少し物悲しい気になった気がした。

 着古したパジャマ姿のまま、玄関へと向かう。頭髪はぐちゃぐちゃだった。目は幾度となく泣き腫らしてしまった。唇はかさついていた。

 最期くらい目一杯女性らしい格好をしてみようかとも思ったのだが、そんなことをする気力すら残っていなかった。

 冷たいドアノブに手をかける。頭の片隅に描かれたのは、首を吊るに相応しい大木が立っている、とある森林の奥深く。出来ることなら一瞬で楽になれたらいいなあ、なんてことを心中で呟きながらゆっくりと扉を開けた。


 目に飛び込んできたのは、あまりにも非現実的な光景。気を病みすぎてついに幻覚を見るようになってしまったのかと一瞬だけ思ったのだが、どうやらそれは違った。受け入れがたい真実だった。

 耳をつんざく羽音。そして人々があげる悲鳴。鼻につくのは紛れもない血の臭いだ。反射的に嘔吐感が込み上げ、思わず口に手を当ててしゃがみこむ。


 本来の大きさからけた外れた体を持つ虫達が、そこには溢れ返っていた。幼少の頃踏んづけて殺してしまったアリが、軽自動車程の図体で人間の首を噛みちぎっている。巨大な二対の翅を羽ばたかせて空を舞うのは、昔に焦がれたアゲハチョウだった。その風圧に人々は身動きがとれず、撒き散らされる鱗粉の餌食となる。

 生臭い鉄の香りに、眼前がフラッシュを起こした。耐えきれずに胃の中のものを吐き出した。目頭が熱を帯び、温い液体となって地面にシミをつくっていく。

 しかし予期していなかった異常事態に防衛本能が働いたのか、うまく動かない体を引きずってなんとか家に滑り込み急いで鍵を閉めた。

 その直後、激しい地響きに体が傾く。頭がガンガンと激痛を訴える。口内は胃液で不快感を醸し出していた。


(何……あれ……?)


 状況を把握しようと思い、リビングへと這いながら移動する。途中再び吐き気に襲われたが、胃液くらいしか出るものが無かったのでぐっと堪えた。

 ほこりをかぶったテレビのリモコンを手に取り、それをブラウン管テレビにかざす。電源ボタンを親指で押したが、どういうことか反応がない。そこではッとした。そうだ、電気代を払っていなかったのだった。

 

 自殺しようとしただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。未だに現状が理解しきれていない。本当にわからないのだ。虫が突如あんな巨大な生物になるだなんて、今までの常識を全て覆していることと同じだ。

 へにゃりと地べたに座り込んで、呆然と遠くを見つめる。死ぬ気が失せてしまった。というよりも、自害するよりも先に虫に殺されてしまう気がする。

 虫に殺されるのは、嫌だ。蹂躙されるのか、捕食されるのか、はたまた別の殺し方をされるのか私にはわからない。けれど虫は嫌だ。

 何故なら、気持ち悪いから。ただそれだけだ。

 幼少期は別段気にする存在でもなかったし、実際に捕まえて観察をした過去だってある。しかし中学生にあがってから、どういう訳か急に虫に対する恐怖心が芽生えた。年齢を重ねる毎に「自分」が変わっていくとは言われているが、あまりにも唐突で私自身理解に苦しむ。

 とりあえず水を飲もう。頭を冷やしたい。私はそう思い、ゆっくりと立ち上がった。しかし足が動くことはなかった。水道も止められていたことをすっかり忘れていたことを思いだし、行動するに至らなかった。

 口の中は胃酸で苦々しい風味のみが残っている。頭痛と胸焼けに引き続いて、目眩すら起こりそうだった。


刹那、目の前の壁から、ぴしりと音をたてて白い生物が顔を出した。頭の中が真っ白になる。巨大な大顎はコンクリートをいとも簡単に噛み砕くと、細長い胴体ごとずるりと地面に這い出した。

 たぶん、シロアリ、だと思う。

 背骨を悪寒が駆けて行く。心中で警告音が鳴り響く。逃げなければいけないと脳がひっきりなしに悲鳴をあげている。しかし人間というものは、本当に恐怖した時、あまりのショックに体が動かない。

 白く淀んだ眼が私の姿を捉えた。喉の奥で声が漏れる。


 動かない足を引きずって、ベランダへと走った。急いで鍵を開けてばっと外に飛び出る。太陽光が目を刺激してくるが、そんなことに構っている余裕はない。柵を必死になって飛び越えてただひたすらに家から逃げた。

 ベランダを出た先は中央に柱時計を構えた中庭があった。中庭とはいったものの、地面はレンガ張りで辺りには数本の木しか生えていない。ざっと見渡した限りでは、異形の存在となってしまった虫は見当たらなかった。

 後ろを振り向いて自宅の方に目を向ける。シロアリの姿はなかった。

 安堵して腰を下ろす。なんとかやりきったらしい。あのまま無理にでも逃げ出していなかったら、私はシロアリに惨殺されていただろう。九死に一生を得た気分だ。






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