第5話 在りし日の情景

 暗闇に、ゆらゆらと漂っている。

 ここはどこなの? ……分からない。

 ただ、全身は深い疲労に侵され、動かせそうにはなかった。

 意識だけが、水中にいるかのように、波に揺れている。

 ふいに、視界が光で満たされる。

 強すぎるそれに、私はぎゅっと目を瞑った。

 光が収まったその先に――――


 ああ……これは、夢ね……。


 私がそう長いとも言えない人生の中でも、一番幸せだと感じていた日々の光景が浮かんでいた……。






「お姉様っ!」

「きゃっ!?」


 背中にほどよい柔らかみと重みを感じ、私は振り返る。


「もう……ミーシャ? 貴女も大分大きくなってきたんだから、そうやって人に飛びかかるのはやめなさいな」

「ええ~~!? 姉妹なんだし、このくらいいいじゃない! お姉様っ! 大好きっ!!」


 不服そうな表情を浮かべたかと思ったら、すぐにミーシャは口端を歪めながら、私の胸を両手でムンズッと掴んでくる。


「ちょっ! ちょっと! やめなさい!」


 私は抵抗するも、ミーシャの動きは素早い。武家らしく、グリント家は女児であっても幼少から武術の類いは叩き込まれるが、才能に恵まれなかった私と違い、ミーシャはあらゆる才能に恵まれていた。


「いっ! いい加減にしなさい!」

「あとちょっとー!」


 しかし、幸か不幸か、ミーシャのそういった才能が発揮されるのは、精々こうした悪戯じみた真似事内での話。武家の娘といえども、私達が戦場に出る事など、まずありえない。


「お姉様の胸大っきいねー!」

「も、揉まないでー!」


 胸をこれでもかと、揉みほぐされる。

 乱暴ではないが、優しくもない。同姓であり、家族だからこその、遠慮のない行為。

 そもそも、私の胸は特別大きい訳でもなかった。平均くらい。それでも、ミーシャのよりは膨らみはあるのだけれど……。

 数分して、ミーシャは満足したのか、張り付いていた私の背中から距離をとる。私はぜぃぜぃと息を荒げながら、ミーシャを睨んだ。


「そ、そういう事はやめてっていつも言っているでしょう!?」

「だってぇ、姉様ってばいつも隙だらけなんですもの。武家として、淑女のしての心構えが足りていないのではなくて?」

「貴女にだけは言われたくないわっ!」


 手をワキワキさせながら、意味ありげな含み笑いを見せるミーシャに怒鳴りながら、私は胸元によった服の皺を直す。


「外でもこんな事しているんじゃないでしょうね?」

「まさか。こんな事するのはお姉様だけですわ」


 まったくもって嬉しくない特別扱いだった。


「……まったく……もうっ」


 私は溜息を吐きながら、立ち上がる。

 二歳年下のミーシャ。昔はいつも私の後をついてきて、私の真似ばかりしていた可愛い妹。困ったことに、最近の私はからかわれっぱなしだ。

 貴族の生活は、何かとストレスが溜まる。なまじ名が知れ渡っているせいで、いつも気が抜けない。

 だからといって、私で発散するのはやめてもらいたいのだけれど……。

 それを口にすることはない。

 なんだかんだ言って、私もこんなやりとりを心底嫌がっている訳ではないからだ。

 ミーシャと同じように、私もストレスは溜まっている。

 やり方はともかく、こうして大声を上げて、怒ったりできる相手を、私も求めているのかもしれない。

 やり方は! 考えて欲しいけれどねっ!


「……あれ? お姉様……怒ったの?」


 しばらく無言でいる私の態度に、不穏な空気でも感じたのか、一転してミーシャは不安そうに眉根を寄せた。おずおずと近づいてきて、私のドレスを軽く掴む。


「……怒ってないわよ。もう……なんて顔をしているの?」


 微笑みながら、ミーシャの頬を抓る。


「い、痛いですっ! お姉様!」

「お仕置きよ。我慢なさい」


 ミーシャは痛いという言葉とは裏腹に、とても嬉しそうに笑っていた。


「……仕方のない子ね」


 その笑顔を見ると、いつだって私はそれ以上、何も言えなくなってしまうのだ。













 市街地から少し離れ、見下ろすような立地。そこに王城は、威風堂々といった体で聳え立っている。老朽化が進み、何度も補修工事を行ってきた面影がそこかしこに見られ、歴史と真新しさを兼ね備えた外観。グルリと周囲を覆う頑強な城壁は、これまで一度たりとも打ち崩されたことはなく、所々に走る傷が、過去の熾烈な争いを物語っていた。


「……遅い」


 そんな王城の中心部。色とりどりの花々が咲き誇る美しい中庭で、私は頬を膨らませていた。その理由は、約束した時間にも関わらず、待ち人が一向に現れない事。


「……もうっ……何をしているのかしらねー?」


 暇を持て余した私は、しゃがんで、足下に咲く花に、語りかけた。

 花は風で左右に揺られるも、何も語らない。

 当たり前のことだ。

 まるで童女の如き行いに、やってしまった後で後悔の念に駆られる。上半身が上気して、熱くなった。


「……スタンリー様の、馬鹿……」


 羞恥を紛らわすように呟くと、


「誰が馬鹿だって?」

「ひぅっ!?」


 誰もいないと思っていた背後から、返答が帰ってきた。

 振り返ると、そこにはスタンレー様が悠然と立っていた。頬に添えた笑いに、嫌な予感が私の胸を渦巻く。


「ス、スタンリー様? い、いつからおいでに?」

「もちろん、君が花に問いかけを始めた辺りだよ」

「っ!?」


 最悪だ! 

 最悪で、一番見られたくない場面を、一番見られたくない人に見られていた! 


「……や、約束の時間っ! す、過ぎてますですのよ?!」


 話題を無理矢理にでも逸らそうと、スタンリー様の失態を指摘するも、舌が絡まって逆に墓穴を掘ってしまう。


「ふっ……くくっ、あはははっ!」


 滑稽な私の様子に、スタンリー様は一応笑いを堪えようと努力はしてくれたようだが、努力も虚しく決壊してしまう。


「あははははっ! シ、シアンっ……君って言う子は、本当に……っっく……飽きない子だ」

「~~~~~~っ!」


 さっきの比じゃないくらい、頬が熱い。

 同時に、怒りが込み上げてきた。


「……あ、あれも、これもスタンリー様が遅刻したせいです!」

「ほぅ?」


 スタンリー様は笑いを止めて、こちらを見る。しかし、まだ口元は笑っていた。


「つまり、僕が遅れなければ、シアンは花に話しかけたりしなかったと?」

「そ、そうです!」


 胸を張って私は言った。

 こういう時に、迷いを見せてはいけない。とにかく、これ以上スタンリー様に笑いの種を提供するような真似は勘弁願いたい。


「それは可笑しいね。以前ミーシャと食事をした時に、君は部屋に飾ってある花や人形に話しかけていると聞いた事があるのだが……あれは聞き間違いだったかな?」

「っっ!?」


 わざとらしい口調で告げられる言葉。

 私は思わず、目を見開く。

 最近、ようやくそういった行為を私は恥ずかしい事であると認識できるようになった。そのため、意識的に、そういった行為をしないように心掛けている。それでも、私も一人の人間。ふいに気の抜けた瞬間や、嫌なこと、嬉しい事があった時などは、癖としてやってしまう事がある。……さっきのように。

 見られてた!? ミーシャに見られてたのっ!? っていうか、スタンリー様にそんな事言わないでよっ!!?

 ミーシャに見られていたのは……まぁいい。同じ家に住む妹だ。恥ずかしい場面など、それこそ星の数ほど見られている。

 だけど、それをスタンリー様に報告されていた事は、すこぶるショックであった。

 それに――。


「へ、へぇ……ミーシャとお食事ですか、そうですか。最近は私ともお食事をご一緒してくれていないのに……」


 私はわざとらしく口を膨らませる。


「あー……」


 するとスタンリー様は、失言をしてしまったとばかりに苦笑して頬を搔いた。

 その――まるでミーシャと食事に行ったことが失態であるかのような態度に、私の胸が少しだけ痛む。


「……私と会うのは久々ですのに……」


 追加で、ボソリとわざと聞こえるように呟く。


「そ、それは仕方ないだろう? 僕も王子として、やらなくてはならない仕事があるんだよ。それについては、シアンも分かってくれるだろう?」

「それは……はい……」


 そんな事は分かっている。

 スタンリー様は、次期国王最有力候補としての勉学に励んでいる。最近では、実務の一部も担っているという話も聞いた。


「ミーシャとも公務の先でたまたま会って、食事をしただけだよ。別に約束していた訳じゃない」

「…………」


 ミーシャと食事した事だって、本気で嫉妬している訳じゃない。

 私はただ――。

 私を見て欲しいだけなのに……。

 スタンリー様は、いつも私をからかう。

 別にそれが嫌な訳じゃないけれど、いつもそれだと異性として見られていないような気がしてしまうのだ。手を繋ぐことが精一杯で、口付けさえまだ。

 大事にしてくれるのは嬉しいけど、大事にされすぎるのも傷ついてしまう。


「ごめんよ、シアン。久しぶりに会ったのに、怒らせてしまったね」


 スタンリー様は、子供をあやすように、私と視線を合わせ、頭を丁寧に撫でる。

 そう。

 いつもそうだ。

 優しくて、丁寧で、お姫様扱い。

 私をもっと、雑に扱って! 普通の女の子と同じようにしてくださいっ!

 その一言が、喉まで出かかって、しかし出てこない。

 だから、妥協する。


「……じゃあ、ぎゅってしてくれたら許します」

「ん、分かった」


 スタンリー様のお姫様であり続ける。

 時間がもう少し立てば、いつかその壁を破れることを夢見て……。






 ――――ブチッ! と音を立てて、世界が暗転する。

 そして、再び光が満ちると……そこは、私にとっての地獄だった。



 その日、私はいつものようにスタンリー様と一緒の時間を過ごすために、家を出た。何も疑わず、未来を信じて、馬鹿な私はスタンリー様に会える喜びに浸っていたのだ。

 ……雨が降っていた。

 降りしきる雨を避けるように、私は城のメイドにスタンリー様の部屋に案内された。

 子供の頃以来のスタンリー様の部屋。スタンリー様が十代の半ばに差し掛かった頃から、どれだけねだっても、入れてくれなくなった部屋。

 私は少しだけ期待し、胸を高鳴らせながら、メイドが部屋の扉をノックするのを見ていた。

 やがて入室の許可を貰い、ドアが開かれた。

 子供の頃から、ほとんど変わらないスタンリー様の部屋。

 懐かしさと、嬉しさと、若干の緊張に身を固くする私に、スタンリー様は開口一番、こう言ったのだ。


「……ごめん。シアン。僕が本当に愛しているのはミーシャなんだ。君との婚約を解消したい」


 いつから、私はスタンリー様の事が好きだったんだろう。

 生まれた時には、将来スタンリー様と結婚することがすでに決まっていて、そうあるべくして育てられた。

 スタンリー様の好きな髪型、スタンリー様の好きな香り、スタンリー様の好きなドレス、スタンリー様の好きな性格、スタンリー様の好きな体型。

 どうやって、スタンリー様の趣味嗜好を調査したのは定かではないけれど、私の元にはスタンリー様に関するありとあらゆる情報が届けられた。私の人生はスタンリー様のためだけに存在していた。

 そして、私自身、スタンリー様のことが大好きだったから、それらは決して苦じゃなかった。

 だけど――。


 その日、スタンリー様の本心を聞いて……。

 これまでスタンリー様が私と過ごした日々。私が幸せだと感じていた日常の中で。実はずっとスタンリー様が私の事を疎んでいたのでは? と想像するだけで私は……死にたくなった。

 足場が、ガラガラと音を立てながら崩れ落ちた。

 私から、スタンリー様を抜き取れば、そこにいるのはただの抜け殻でしかない。


 そうして私は一時的に廃人と化し、その果てに家を出たのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る