3話「日曜日の結末」④-2


「放っておけばいいよ」


 とケイが言うので、春埼は黙って立っていた。

 彼は皆実の怪我の様子をみたり、津島に報告の電話を入れたりしていた。皆実は、傷がどうというよりは、むしろ自分が傷つけられたことに驚いている様子だった。特別に泣きも笑いもせず、ぼんやり包帯代わりに裂いたシーツが巻かれた手をみている。もっとも動揺していたのは非通知くんだ。辺りをせわしなく歩き回りながら、何度も「どうして」とつぶやく。一体なにがどうしてなのか、春埼にはわからなかった。


「大丈夫ですよ、村瀬さんが能力で傷つけたのなら、五分くらいで傷口はふさがります」


 と、ケイが言う。その通りだと春埼は思った。出血の量もそれほど多くはない。問題があるとすれば傷口から雑菌が入ることくらいだが、適切に処理すればその危険も低いだろう。

 春埼はケイに尋ねてみる。


「どうして村瀬さんを追いかけないんですか?」


 ケイは苦笑いのような笑みを浮かべた。


「今はまだ、こちらからは動けないよ。彼女の状況がわからないから、やり方を決められない」


「状況?」


「村瀬さんが、どれくらい追い込まれているのか。できれば平和的に終わらせたい」


 彼が言っていることが、よくわからなかった。でも、とくに問題はない。浅井ケイは間違えない。春埼はただケイに従う。彼の考えを理解できないのは悲しいことだが、時間をかけてゆっくりと考えればいい。

 ケイは少しだけ笑みを大きくして続ける。


「それに、村瀬さんを追いかけないことにはもうひとつ理由がある」


「なんですか?」


「今深入りしちゃったら、たぶん今夜のお祭りにいけなくなるよ」


 なるほど、それは重要なことだ。村瀬陽香やマクガフィンなんかよりも、ずっと。

 春埼はこくりと頷く。

 彼の笑みはなんだか悲しげにみえたけれど、その理由には思い当たらなかった。


       *


 ケイはひとり、再び喫茶店に向かった。津島に会うためだ。春埼とは夕方ごろに会う約束をしてわかれた。彼女は浴衣ゆかたに着替えるため、一度自宅に戻っている。

 そろそろ午後二時になる。村瀬から猫を救出する依頼を受けなければ、もうずっと前に過ぎ去っているはずの時間だ。あの依頼をうけたのが、午前一〇時を過ぎたころだった。本来なら四時間足らずのあいだに、ケイは五日と少々の体験をした。ずいぶん時間がかかったけれど、この先のことはケイにも知識がない。天気がどうなるのかもわからない。晴天が続けばいいと思う。今夜も、明日も。

 喫茶店に入る。今朝とまったく同じ席に津島が座っていた。湯気を立てるコーヒーもそのままで、彼の表情だけがわずかに違う。

 ケイは席につき、店員にアイスコーヒーを注文した。挨拶も前置きもなく、津島が口を開く。


「お前に依頼がある」


「それは、奉仕クラブの仕事ですか?」


「違う。俺の個人的な頼みだ」


「内容は?」


 決まりきった作業を確認するように、過去に体験したやり取りを繰り返すように、ケイは尋ねる。彼が話すことも、おおよそ予想できていた。


「俺のクラスに、不登校の生徒がいる。彼女を学校にくるよう説得して欲しい」


 これだけなら能力もいらない、管理局なんて関係ない話だ。津島は続ける。


「生徒の名前は村瀬陽香。お前よりもひとつ年上だが、去年の夏から学校に来ていないから今の学年は同じだな。お前にとっては奉仕クラブの先輩でもあるが、こっちも休部扱いになっている」


 奉仕クラブの先輩だということだけが、ケイの想定していなかった話だった。今回の件においては重要なことではないだろうが、考えてみれば当然だ。あの能力を、管理局が監視しないはずがない。


「その生徒について、詳しく教えてください」


 津島はコーヒーに口をつけた。

 そして初めて、彼は村瀬陽香について語り始めた。


「どこにでもいるような生徒だよ。成績は上々、運動の能力も高いが不器用で球技が苦手。普段からいまいち要領がよくなくて、負けず嫌いで、真面目で、たとえば掃除の時間なんかに文句を言いながらいちばん働くタイプの生徒だ」


 その評価は、ケイのイメージとずれていなかった。本当に、どこの学校でも学年にひとりくらいはいるような生徒だったのだろう。普通に幸せに生活すべき高校生で、わざわざ革命を起こそうなんてことを考える必要のない女の子だったのだろう。

 でも。壁の穴は、一年前にもみつかっている。それは死神の通り道と呼ばれた。なぜなら先に、事故現場があったから。津島は以前、最悪の事態とは友達が悲しむことだと言った。

 彼は続ける。


「村瀬には兄がいた。少し年が離れていて、二年前に管理局に入った。同じ部署でね。オレの後輩だった。そいつもまた真面目な奴で、咲良田の能力をもっと上手く運用すれば、たとえば救急の方面なんかで大きな成果が上がるはずだと考えていた。それを実現するために管理局に入ったんだな。村瀬はまともに、その兄の影響を受けていた」


 野ノ尾は猫が捕まえられていた部屋に、若い男の写真があると言った。ひとりだけで写った青年の写真を部屋に飾る理由はなんなのか、あのときは疑問だった。


「去年の夏、その兄が死んだ。つい二週間ほど前に、一周忌があったよ」


「交通事故で、亡くなったんですね?」


「ああ。ただの事故だ。加害者が自分で電話をかけて、すぐに救急車が向かった。でも間に合わなかった。もちろん、能力が絡む余地なんかない。だから管理局はなにもしなかった。あのころの上司も俺も告別式には出たが、それだけだ。本当に、どこにでもあるような不幸だった」


 その通りだろう。ここが、咲良田でなければ。

 もしも村瀬陽香が能力なんて持たず、そんなものの存在を知りもしなければただの悲劇でよかった。数日間泣いて、思い出す度に泣いて、それからゆっくりと風化していく不幸で終わらせられた。能力なんて不完全な希望が彼女の背中を押さなければ、続きはない話だった。

 すでに必要のない説明を、津島は続ける。


「でも、村瀬には八つ当たりの相手がいた。もし管理局が、兄の言う通りに能力を管理していれば、兄は救われたんじゃないかと考えた。間違っちゃいないよ。管理局がその気になれば、事故を未然に防ぐことだってできる」


 場違いだ、と自覚しながら、ケイは口を開く。


「もし彼女のお兄さんが、もう何年か管理局に勤めていたら、状況は変わっていたと思いますか?」


 純粋な好奇心だが、尋ねないではいられなかった。

 津島は首を振る。


「おそらく無理だろう。何年でも、何十年でも。管理局は理性的な組織だ。中にいるとしばしば感じるよ。驚くほどに狂いのない組織だ。事故に遭ったのが誰であれ同じように処理された。権力者だとしても、管理局の重要人だとしても、その子供だとしても。俺たちは、個人の幸福を求めない。なぜだかわかるか?」


「それがいちばん、問題を生まないから」


「ああ。事故のデータは街の外に出る。管理局があらゆる事故を排除できたとして、そんなに目立つことはすべきじゃない。それにひとり助けると、すべてを助けなければならない。すべてを助けると、また別の幸福が求められる。線を引かなければならない。能力を使わないことに関して、うちはプロフェッショナルだよ。多数の前例と、無数のシミュレーションデータを持っている。管理局のルールは、理性的に判断して正常だ」


「では、津島先生の感情で判断しても、正常ですか?」


「意味のない話だ」


 彼はわずかに目をふせ、コーヒーに口をつける。顔はしかめなかった。

 違うのだ、とケイは思う。彼は感情で判断して、行動したのだ。そうでなければこうも状況をややこしくはしない。

 村瀬陽香に、もう疑問はなかった。わからないのは津島信太郎だけだった。

 ケイは尋ねる。


貴方あなたは、なにを考えていたんですか?」


 今回の件は、裏にずっと津島がいた。

 猫を助ける依頼を引き受けたのも、津島だろう。もちろんあの時点で、彼は村瀬のことを知っていた。なのにケイには情報を秘匿した。もし彼女の背景や目的が公開されていたなら、動き方はまったく違っていた。


「なんにも考えてねぇよ。俺は放任主義なんだ」


「いいえ。貴方はずっと、村瀬さんを気にしていた」


「ただ気にしていただけだ」


 彼はテーブルに肘をつき、その手で額を押さえた。


「もう一年だよ。あいつはずっと、管理局を許さないと言っていた。何度も。何度も。何度も。同じことばかり繰り返すんだ。昨日と今日の区別もついてないみたいに」


 一年間。この人はそれを聞き続けたのだろう。初めて会ったころから変わらない。根本的な部分で、ひどく真面目な人だ。

 津島は腕の向こうで、疲れた風に笑う。


「今月の頭、お前から伝言を聞いたとき、つい笑ったよ」


 二週間前の伝言だ。マクガフィンが盗まれる。あの時点で、犯人が村瀬だということを、津島は当然知っていた。


「正直、嬉しかった。あいつはようやく動き出したんだ。どんな方向に進むにせよ、一歩、踏み出したことに変わりはない」


 気持ちは、わからなくもない。

 それでもケイには、納得のいかないところがあった。もっと端的にいうなら――感情的にいうなら、許せなかった。


「でも彼女は、やり方を間違えている」


「多少間違えてもいい。まだ高校生だ」


「ええ、それはいい。そうじゃない。貴方は間違えると知っていたのに、どうして具体的に行動しなかったんですか?」


 いや、違う。口に出して気づく。彼は初めから動いていた。

 マクガフィン。あれは、村瀬へのストッパーだったのではないか? 彼女の思考が管理局に向かう前に、別のダミーを用意した。管理局を倒すという危険な目標の前に、マクガフィンを手に入れるという平穏な目標をおいた。

 同じダミーは、もうひとつある。ケイと春埼だ。もっといえば、リセットという能力だ。村瀬がリセットに興味を示さないわけがないのだ。だって、それは、彼女の兄を救えたはずの能力なのだから。実際に事故に遭うはずだった一匹の猫を、救ってみせた能力なのだから。

 津島は柵を作ったのだ。村瀬陽香と管理局のあいだに、マクガフィンとリセットで柵を作っていた。その手前でのみ、彼女を自由にさせた。くそ、なんてことだ。腹立たしくて、それ以上に嬉しくて、ケイは笑う。やはり津島は信用できる。


「マクガフィンの噂を作ったのも、先生ですか?」


 だとすればすべてに、納得がいくのだけれど。

 彼は首を振った。


「いや。たまたま持っていたから利用した。以前、噂を聞いて回収したものだよ。調査の結果、ただの石だとわかっている」


 たしかに、そこまで津島が仕込んでいるのは現実的じゃない。皆実の話では、マクガフィンの噂が流れたのは二、三年前だということだった。

 おおよそ津島の意図もみえてきたが、まだひとつわからないことがある。


「村瀬さんにマクガフィンを渡したのは、なぜですか?」


 あれを取り返すのは、ケイと春埼だけでもできた。もっといえば、津島が自分で動いてもよかったはずだ。わざわざ村瀬に渡して、管理局とのあいだにある柵を壊す必要なんてない。

 津島はわずかに、顔をしかめた。


「皆実が死んだと、お前から報告を受けた」


「それが?」


「思いもよらないことだった。だが、言葉を選ばなければ、強力なカードになる」


 カード?


「それは、村瀬さんに対して?」


「あいつが無茶をしたから、人が死んだ。高校生が考えを変えるには充分な理由だ。迷ったが、話した。その結果次第では、お前にこんな話をする必要もないと思っていた」


 だが、村瀬には効果がなかった。いや、彼女は確かに変化したのだろう。だから想定外のトラブルに備えて、リセットという能力を手に入れようと考えたのだ。彼女から手を組もうと言われたときは意外に感じたが、今なら納得できる。

 津島は続ける。


「正直、あれでだめなら、オレには説得できないよ。最後のカードを切るしかない」


「マクガフィンを渡すことに、なんの意味があるんですか?」


「それは重要じゃない。お前らと一緒に行動させることが、最後のカードだ」


「僕たち?」


「俺が考えていたのは、お前らとあいつの距離を最適に保つことだけだよ。最初からそれが切り札だった。どうしようもなくなれば、お前らをぶつければいい。程よく暴れて綺麗に負けて、あいつが納得するカードが一枚あればよかった」


「僕たちに、村瀬さんを説得しろというんですね?」


「ああ。だからこうして頼んでんだろ。アイス食ってもいいぞ」


 なんだ、それは。


「僕たちが負けたら、どうなるんです?」


「管理局が動くよ。極めて理性的に、村瀬の件は処理される。あらゆる問題は取り除かれ、そして誰も幸せにはならない」


 彼は乾いた口調でそう言って、それから、一応という風に付け足す。


「お前らが負けるわけはねぇよ。勝負にならない」


 そもそも勝負なんかしたくない。だが、反論はしなかった。

 代わりに、本題を口にする。


「管理局は、どこまで知っていますか?」


「俺にも正確にはわからない。もちろん村瀬陽香のことは知っている。彼女が管理局に反感を持っていることも。加えて、好井の件は俺から報告している。リセットしたとしても、人がひとり死んだ。隠すわけにはいかない」


「管理局は動きますか?」


「まだだ。だが、今日のことを報告すれば確実に動く。村瀬は皆実を傷つけた」


「ほんのかすり傷です」


「程度は関係ない。初めて能力を使い、自分の意思で人を傷つけた。それは管理局のラインから踏み出している。オレの考えでも、アウトだよ」


「いつ報告するんですか?」


「月曜には管理局に伝わる。あの組織に嘘はつけない」


 それはわかっている。管理局は多数の能力者を抱えている。感情や規律の問題ではなく、物理的に嘘はつけない。


「近々、管理局は村瀬に接触する。その段階でもまだ、村瀬が管理局に敵対的なら、アウトだ。今のあいつは管理局員にだって能力を使うかもしれない」


 津島の言葉に、ケイはため息をつく。

 状況はわかった。たぶん正確に、彼女に伝えるべきことまで。

 だが時間がなさすぎる。まともな方法はみつからない。いや、時間の問題でもなかった。津島はずっと、正常で誠実な形で彼女を変えようとしてきたのだろう。一年かけてだめだったなら、多少の時間があったところで、正しい方法では間に合わなかったということだ。

 それでも、嫌だった。


「僕には彼女を説得する方法を、ひとつだけしか思いつけません」


 ひどいやり方だ。それは、本来なら絶対に避けなければならないやり方だ。津島の友人が、きっと悲しむ。


「僕はそれを、したくない」


 津島はじっと、こちらをみていた。それから彼には似合わない、気弱な笑みを浮かべた。


「なら、仕方ない。俺も本心じゃ、こんなことで生徒を頼るのは心外だ」


 彼の言葉は嘘ではないだろう。今日まで村瀬の情報を秘匿し続けた理由は他にない。本来なら、彼自身の手の中で終わらせたかったのだろう。でも。ずるい表情だ、と思った。彼はこちらを、充分に理解している。

 ケイは目を閉じる。思考するというよりも、ただ迷っていた。ケイが行動した場合の結果。しなかった場合の結果。ふたつを順に想像して、ため息をついた。

 目を開いて、メニューを手に取る。


「ケーキセットを注文してもいいですか?」


 アイスクリームではわりに合わない。

 津島は笑った。


「メニューをみんな頼んでもいい。ほかに要求があるか?」


「では、村瀬さんに伝言をお願いします」


「内容は?」


「手を組んで、一緒に管理局をやっつけよう。明日の午前一一時四五分、川原坂の河原に来てほしい。時間厳守」


 明日、きっとすべてが終わる。


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