2話「水曜日からの出来事」④-1



       4



 放課後になってもまだ、雨は降り止まない。

 ケイは津島に会おうとしたけれど、職員室に彼の姿はなかった。忙しいというのは嘘ではないらしい。でも昨夜から電話にも出ないのが、少し気にかかった。

 学校の前で春埼と別れ、野ノ尾に会うために神社へと向かう。春埼には、壁に開いた穴に関する噂について調べてもらうことにした。リセットを使う前には起こらなかった出来事を、無視するわけにはいかない。

 ビニール傘を手に、ぬかるんだ山道を進む。野ノ尾はいつもの社で、静かに目を閉じていた。雨の降る中、それを避ける手段も知らない苗木みたいに。

 社には屋根がある。でもそれは小さすぎて、少しでも風が吹けば、雨粒は屋根の下に潜り込む。ケイは野ノ尾のために、傘と、タオルを用意していた。それが放課後にできたことの中で、いちばん価値のあるものだろうとケイは思った。

 野ノ尾の調査は、あまり順調ではないようだ。彼女は軽く首を振って言った。


「駄目だな。彼がどこにいるのか、わからない」


 だがその声は、とくに悲観的でもなかった。実際に顔を合わせてみると、電話の印象よりもずっと彼女は落ち着いていた。


「あまり雨に濡れると、風邪ひきます」


「別にかまわないさ。風邪くらいでは死なない。それに、多少熱が出た方が能力を使いやすい」


 彼女は白いタオルを自身の頭にかぶせた。その姿は、なんだか洗濯物に頭をつっこむ猫みたいだ。


「誘拐された猫の様子は?」


「一時間ほど前は、元気だったよ。誘拐犯は、部屋にはいなかった。でも高級なキャットフードが置かれていて、ずいぶん嬉しそうだった。金色の缶に入っているやつだ」


「なるほど、それはよかった」


「大事にされているようだ。このまま、彼は飼い猫になっていくのかもな。もう少し様子をみて、問題がなければそれでいい」


 野ノ尾は頭のタオルをわしわしと動かした。濡れた黒い髪が、白い頬にくっつく。


「ずいぶん騒いで悪かったな」


「いえ。結果がわからないうちは、無理に安心しているより素直に慌てている方が適切だと思います」


「猫の感情は極端なんだ。怖れるべき時には、躊躇ちゅうちょなく怖れる。安心すればどこまでも安心する。スタイルがシンプルなんだよ。能力を使うと、彼らの影響を受ける」


 それから彼女はタオルで顔を拭いて、くぐもった声でつけ足した。


「迷惑をかけたのなら、謝るよ」


 ケイは首を振る。なにも問題はない。野ノ尾の心から猫を心配する声も姿も、綺麗なものにみえた。


「でも、まだ猫を取り返したわけじゃないです」


「それは問題じゃない。彼が慌てていたから、私も一緒に慌てただけだ。今は安心しているようだから、私も安心した。きっと誘拐犯が善人だったんだろう」


「その猫は、人を見る目があるんですか?」


「どうかな。でも、恐怖と危険には敏感だよ。人間のように摩耗していない。いつだって生きていることを自覚している」


 生きているということは、いつでも死ぬということだ、と野ノ尾は言った。それから大きく伸びをして、口元を笑みの形に歪める。目元はタオルに隠れてよくみえない。


「さて。そろそろもう一度、能力を使おう」


「安全みたいなのに?」


「定期検診のようなものだよ。せっかく必死に心配したんだから、もうしばらくは彼の心配をしていようと思う。協力してくれるかな?」


「ええ、もちろん」


 野ノ尾がスペースを空けてくれたから、ケイは彼女の隣に腰を下ろす。それからふたり、ゆっくりと「くだらない話」を続けた。議題は世界でいちばん優しい言葉にした。ありがとうとどういたしましては、どちらがより優しい言葉だろう? おはようとおやすみなさいなら? いってきますといってらっしゃいなら? もちろん、答えなんか出ない。互いが心から無意味な話だと理解していて、だからケイは本心にとても近い言葉を口にできた。静かに鳴り続ける雨音よりも、優しい言葉はあるだろうか。

 ふいに、野ノ尾が黙り込む。眠ったように目を閉じて。おそらく能力が発動したのだろう。

 ぼんやり彼女の顔を眺めていると、やがて白いまぶたが持ち上がった。


「無事だった。誘拐犯がタオルケットを用意していて、彼はそれが気に入ったらしい」


 平和そうでなによりだ。

 結局のところ、世界で一番優しい言葉とはなんなのか、答えを出さずに会話は終わった。おそらく、互いに答えなんて求めていなかったことが原因だろう。


 野ノ尾と別れ、ケイはあの猫が誘拐されたという公園に向かう。猫の気持ちがわからないケイは、野ノ尾のように素直に安心することはできない。猫が誰かに連れ去られたのは、リセットを使う前にも起こったことだろうか? だとすれば明日の朝、その猫が事故に遭う未来はまだ変わっていないのかもしれない。一方で、猫がリセット前とは違う環境にいるなら、そこにはケイではない、誰かの意思が介入している可能性が高い。それはそれで放置できない。

 とはいえ、公園でなにかがわかると期待していたわけでもない。聞き込みをしようにも、雨の公園に人はいなかった。

 ケイはゆっくり、公園の周囲を歩いて回る。と、ひとりの少年をみつけた。小学生だろうか、黄色い傘を持った少年だ。公園の向かいにある民家の壁に向かってしゃがみ込んでいた。


「こんにちは」


 ケイはほほ笑んで声をかける。少年はこちらを向いた。


「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいですか?」


 尋ねても、彼はじっとこちらをみるだけだった。しばらく返事を待ってみる。少年は二回、瞬きした。

 とりあえず否定はされなかったので、尋ねる。


「よくこの辺りに来るんですか? たとえば通学路だとか」


 少年は頷いた。


「猫を知りませんか? 灰色で、青い眼で、しっぽの先が曲がってる」


 近所の小学生をみつけられたのは、幸運だ。近くにいる野良猫を、小学生は見落とさないものだ。少年はもう一度頷き、緊張しているのだろうか、小声で「知ってる」とだけ答えた。

 ケイはさらに尋ねる。


「昨日、その猫をみませんでしたか?」


 多少の期待はあったが、少年は首を振った。


「昨日はいなかった。たまにしかいない。週に一回くらい」


 要するに、この辺りが猫の縄張りだったのだろう。それだけでは調査が進展したとはいえないけれど、初めから期待もしていない。

 ありがとう、じゃあ、と手を振ってもよかった。でもケイは、もうひとつだけ質問をしてみた。


「ところで、なにをしていたんですか?」


 こんな雨の中で、じっと壁をみて。少年の瞳は真剣だった。猫捜しには関係がないだろうけれど、気になったことも確かだ。

 少年は答える。


「穴を探してるんだよ。みんな、嘘だっていうから」


 穴。壁の穴?


「もしかしてそれは、手の形をしている穴?」


 尋ねると、少年の目が丸く広がる。


「知ってるの?」


 ケイは頷く。


「目の前で、勝手にふさがる穴」


「うん。オレ、みたんだ」


 いなくなった猫と手の形に開いた穴。そのふたつが繋がっている可能性も、一応は考えていた。リセットを使ったことで壁の穴が生まれたのなら、疑う理由は充分にある。でもふたつが、どう係わり合っているのかはまだわからない。

 中野智樹の話を思い出す。彼によれば、手形の穴がみつかったのは尽辺山のふもと、川原坂の辺りだった。この公園からはずいぶん離れている。芦原橋高校を挟んで、ほぼ反対側だ。


「その穴をみつけたのは、いつですか?」


「昨日の学校の帰り道。手の形に穴が開いてて、すぐに閉じた」


「何時ごろでしたか?」


「三時か、そのちょっと前。たぶん」


 符合する。それは、猫が誘拐された時間だ。

 真剣な表情で、少年は言った。


「きっと幽霊だよ」


 いや、違う。人間だ。誰かが意思を持って使った能力だ。


「そのときのことを、なにか覚えていませんか? たとえば近くにいた人とか」


 少年はうつむいて、しばらく考え込んでいる様子だった。やがて小さく、あ、とつぶやく。

 彼はこちらを見上げて、


「猫が、鳴いてた」


 そう言った。

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