盗賊の祝福

 雨の中をホークとメイは進む。

 魔王というのは天候を操る力もあるのではないか、とホークは疑っている。

 魔王軍占領地に入ってから、曇りと雨ばかりしかない。

 もっとも、薄暗いということはそれだけで晴天よりも多少視認性が下がる。特に山の中では木立のおかげでよけいに暗さが増すので、遠目から発見されづらいのは忍ぶ身としてはありがたい。

 そして雨は音や匂いをも遮ってくれるので、よほどの不注意がない限りおおっぴらに出歩いても見つからない。隠密行動には絶好だ。

 たまに見かけるピピン王国の家は窓に透明ガラスを使うほど裕福でもないようなので、余計に好都合だった。

「雨の日は足元滑りやすいから嫌いなんだけどなー。魔法使いならもっと楽に動ける魔法とか用意してるのかな」

「レヴァリアでは宮廷魔術師くらいしかそんなの知らないと思うぞ。だいたい魔術師は触媒が濡れるの嫌がるから、雨の日は外にはあんまり出ない」

「そうなの?」

「普通の魔術師は自分の部屋にいながらにして外の用事は済ませられるように、使い魔とか用意するんだ。あいつらものぐさだから、大抵のことは使い魔を使うか、小間使いを雇ってやらせる。それに魔法作るのも簡単じゃないから、雨の日に濡れないように、とか、滑らないように、なんて地味な魔法……研究するのは時間が惜しいだろ」

「よく知ってるね……」

「生まれはアスラゲイトだからな。魔法にはちょいと明るくならざるを得なかった」

「え、レヴァリア生まれじゃなかったんだ」

 メイは驚く。

 アスラゲイト帝国とはロムガルド王国とともに大陸二大国とされる強国で、特に魔術研究が盛んなことで知られている。

“勇者王国”ロムガルドに対し、“魔導帝国”アスラゲイトという枕詞をつけられるほどだ。

 今回の魔王戦役に際し、最も早くから討伐部隊を差し向け、そして敗走していた。

「魔法開発の情勢には、盗みの仕事柄も注意してないと危ねえんだ。うまい対抗手段があるのに手を出して痛い目に遭いたくないしな」

「うわー……なんていうか、泥棒もいろいろ勉強しなきゃいけないなんて結構大変だ……」

「そう褒めるな」

「あんま褒めてない」

 死体を背負って雨の中の山道を歩くのは、実に難儀で憂鬱だったが、メイの「お喋り」にできるだけ付き合うようにし始めてからは少しは気が楽になっていた。

 多分、ホーク一人で歩いていたなら途中で真剣に任務放棄も考えたと思う。

 だが、こうして「レヴァリアの勇者一行」として行動するあいだは、メイと話していられる。

 それは、任務続行と放棄、どちらにしろ困難な道の中で任務を続けさせる強いモチベーションになった。

 メイは戦士としても強いし、心も健全で、懐っこい。盗賊と身を定めてから一匹狼を気取っていたホークは、こういう少女に懐かれながら歩く自分の姿など想像もできなかった。

「……この辺にしよう」

「え、もう止まるの?」

「思ったより道が緩やかだったし、人目につかずに来れたから……だいぶ進んでるさ。それより日のあるうちにちゃんと雨風凌げる場所を確保だ。雨中行軍なんて無茶をしたら、寝る時間くらいはきっちり取らないと後に響く」

「なるほど。りょーかい」

 二人とも元気盛りの10代とはいえ、食料も限られている中では体力回復手段は睡眠が重要だ。

 これまたホーク一人なら無茶も考えるが、メイに風邪でも引かせたら厄介だ、という考えが勝った。

「戦力だからな」

 雨の中で声が通らないのをいいことに、ホークは小さく口に出して確認する。

 ちょっと喋るようになっただけで、簡単にほだされているとは思いたくなかった。


 ジメッとした洞窟を見つけ、二人はそこに腰を落ち着ける。

「行き道は毎晩宿屋に泊まれたのが懐かしいな」

「こういうのも旅! って感じで、あたし嫌いじゃないけどね」

「何日も野営続きでまだそんなこと言ってられるお前を尊敬する」

「えっへん」

「尊敬はするが羨ましがってはいないからな?」

「えー」

 雨具として使っているのは野営用の掛け布。魔法の品だ。

 寝る時にかけるもので、路傍で焚き火を囲んで野宿……などという場面でも朝露を通さない、軽い防水の魔法がかかった掛け布。蝋塗りのコートやマントよりもだいぶ軽いのがミソだ。

 ジェイナスたちの死体も、彼らの就寝用のそれを使ってくるんでいるので、隙間から多少の滴が入ることはあっても、ひとまず雨に濡れることはない。

 腐敗は心配だが、今のところは食料用の防腐のお守りを抱かせているだけで、あとはできるだけ遅く腐ってくださいと祈るしかない。

「それでだ。……おい、メイちょっと待て。ランプはつけるな」

「なんで?」

「まだ明るいだろ。それに濡れた服を早く着替えろ。なんでお前はランプつけてから着替えようとするんだ」

「明るくしてからでも一緒じゃん……」

「13つったらそろそろ男の目を気にする歳だろうが」

 どうもメイは子供感覚が抜けないのか、ホークの目の前で堂々と着替え始める癖がある。

 というか、ホークがいつも三人と距離を置いていただけで、4人パーティの時もジェイナスの目を気にしていなかったらしい。

 確かにその体つきは女らしさを感じるには少し貧相だが、全く子供のままかというとそうでもないのが困りものだ。

「それに、なんか目の前にいるのに暗くして着替える方がやらしくない?」

「いいから。……そもそも、こんなの俺が言うことかよ」

「違うよね。じゃあいいじゃん」

「やかましい。変態か」

 自分でも何を優等生みたいなことを、と思うのだが……「そういう意味」でも、メイは大事にしておきたい、という感情が働いてしまっている。

 今はお互いのみが頼りという状況だ。しかも、戦いとなったらメイ一人に任せなくてはいけない。

 だから、それ以外ではいい兄貴分をやらなくては、と義務感が働く。

 一度そういう風に振る舞ってしまったら、また非情、あるいは無関心になるのは難しかった。

「そもそもさー。暗いとなんかヤじゃん。ただでさえ死んでる人が二人も一緒にいるのに。怖いよ」

「お前ら狼人族は暗いところでもわりと見えるはずだった気がするけど」

「色まではわかんないよ。それに、そもそも雰囲気が暗いのがヤなんだもん」

「あのな……本当はせっかく隠れて進んでるんだから、いくら洞窟とは言ってもそうそう明かりは使うべきじゃないんだ」

「こんな山道から外れた洞窟に人なんて、そうそう来ないと思うけどなー。来ても端からやっつけちゃえばいいし」

「もし普通の村人が来たらどうする。敵なら殺せば済むけどな、殺さずに口をふさぐのは難しいんだぞ」

「それもそっかー……」

「……まあ、この先は大人しく行くばかりでもいられないけどな」

 ホークは地図を広げる。

 雨に紛れて進んできたが、この少し先には難所がある。

「山の切り通しに作られた関所がちょっと先にある。キグラス亜人領からの侵攻が一気にピピン王都ディアットまで届かないようにする、言わば瓶の首だ」

「避けて通るのはできないの?」

「できるがだいぶ遠回りになる。山ごと回り込んで5日は足すことになるな」

 関所はまだここが「人間領」だった時に一度は魔王軍に突き破られただろうが、いつまでも破ったまま放置というのも考えづらい。

 人やモノが逃げないようにするのは大切な戦略だ。魔王本人は気にしていなくとも、その手先である幹部連中にとっては富も労働力も手に入るだけ手に入れたいものだろう。

 となれば、関所周辺には魔王軍がそれなりに詰めていると思っていい。

 これを正面から貫くのは……自分たちの存在がおそらく警戒されていないと仮定しても、危険は大きい。

 が、迅速に進むにはどうにかするしかなかった。

「お前は休んでろ。明日には暴れることになるからな」

「え、ホークさんは」

「調べてくる。地図には関の存在だけしか書いてないからな」

 関所がどういう状態か。敵は何人いるのか。突破をスムーズにするため、工夫する余地はあるか。こっちの顔を見せずに何とかできないか。

 それを調べて作戦を考案するのはホークの仕事だ。

「なぁに、盗みに入るだけならどこにだって入って行けるんだ。それにオマケがつくだけさ」

 ホークは自分に言い聞かせるように呟いて、洞窟を出る。


 関所には魔王の眷属と思われる兵が約二十人。それに従っていると思われる大型の魔物が七頭ほど、周囲を徘徊している。

 大型と言っても先日の“奇眼将”ドバルに比べればまだ可愛い。せいぜい農耕馬程度のものだ。

 ……それでも決してまともな人間が一人で相手できるものではないが。

 ホーク自身も例外ではない。

「集まってこられたら厄介だな……」

 風下を選び、木立に隠れ、遠間から慎重に偵察をする。

 メイの力をもってすれば、この数なら突破はできる。ジェイナスたちの死体も、道が通れる状態になってからゆっくり持ち込めばいい。

 だが、できるだけ簡単に、そして「レヴァリアの勇者一行」であることを悟らせないように済ませたい。

 地形は典型的な切り通し。すなわち崖と崖に挟まれた隙間の道で、おそらく崖の上に向かう道は向こう側からしかない。崖に簡単に登って関所を迂回出来ては意味がない。

 キグラス側から来た「敵」から、ピピン王都ディアットを守ると仮定した場合、この道に殺到する「敵」を、崖の上から投石や弓矢で滅多打ちにするのが、ピピン側の必勝戦術になるだろう。魔法で反撃されることさえなければ、の話だが。

 この場に駐留する兵士たちはどれだけの強さだろう、と、ホークは状況から計算する。

 今の情勢は魔王軍優位だ。ピピンは地勢的に有力な反魔王側国家から遠く、警戒すべき敵はあまりない。この関所も一般住民が逃げ出さないようにするためのものだろう。

 ならばたいしたことはない。魔法を使う兵もそうそう遊ばせておけるほど数は多いはずがない。メイの突撃でいける。

 いや、それでも手間取っているうちに魔物が集まってくれば話が変わってくる。

 過信はしてはいけない。盗みと同じだ。予想外のことはいつでも起きる。

「焦るなホーク。時間がないわけじゃない……丁寧にやるんだ」

 再び自分に言い聞かせる。メイの力を頼りにしすぎて余計な危機を呼び込んではどうしようもない。

 自分たちは手負いと同じだ。敵と同じ条件で強引に勝負してはいけないのだ、と戒める。

 考えられる限りの策で有利な状態を作り、メイの負担を減らし、先々の不安も軽減する。それがホークに求められる仕事というものだ。

「崖を崩す……ってのは、後で死体担いで通らなきゃいけないからナシとして……」

 切り通しは狭い。囲みづらい狭い場所で戦うというだけでも、敵との同時交戦数は減らせる。ただ一人で戦うメイにとってはそれだけで有利なのだが、それでも人は前後には同時に目を配れない。

 戦闘の難易度を下げるためには、全部の敵が1方向からしか来れないのが望ましい。

 となれば、まずは切り通しのこちら側に敵を全員引きずり出す。それから敵に先んじて切り通しに飛び込んで振り向き、敵を全て正面で迎撃する形で戦う。

 それが偵察からホークのひねり出したおおまかな作戦だ。

 だが、それだけではまだ決め手に欠ける。まだ準備の余地がある。

 ドバルの力任せの攻撃を「返して」しまえるメイには、知能の低い魔物の攻撃は通用しないだろう。それは当然メイに完全に任せてしまっていい。

 だが兵士はどうか。剣や槍で向かってくる敵をメイは全て捌いてしまいそうだが、やはり武器は万一にも刺されば効く。

 回復役はいないのだ。たったひとつの偶然でも、怪我をすれば一気に形勢は悪くなる。

 何より飛び道具の対処は難しく、多対一の状況となれば回避も難しい。それはもう魔法の領域だ。

 できる限り、事前に危険を減らさなくてはならない。

「あまり手を出すのは流儀じゃないけど……な」

 覚悟を決めて、ホークは兵士たちの詰所に近づいていく。


 魔王軍の兵士も、いつも完全武装で歩いているわけではない。

 特に敵が少なく警戒の必要のない奥地となれば、重くて邪魔な大物の武器は拠点に置きっぱなしになる。

 敵が現れてから武装をすればいい。よほどのことでない限り、敵襲の報を受けてからでも武器を取りに戻る程度の時間はある。

 ……という油断を期待して詰所に近づいたホークだったが、その期待通りに武器は小屋の外に立てかけられっ放しだった。

 不用心にもほどがある。だが、即応戦力の魔物が周囲をウロついているとなれば、それが当然かもしれない。魔物が外敵と争っている間に用意すれば間に合うのだろう。

 ホークはリュノから失敬した道具袋を開け、中から自分の七つ道具を取り出して工作を開始する。

 ここにある武器を全部盗み出して捨ててしまえばいい……というのは素人考えで、普段使いの武器とは別に、予備は大抵ある。使う者が何十人もいれば必ず壊したり落としたりするものだ。いちいち鍛冶屋を呼んでいたらきりがない。

 そういう予備まで全部手を出している余裕はない。何より、盗んで捨てるだけでも一人の手には余る。

 それより、武器を「欠陥品」にしてしまう方がいい。

 槍の穂先の目釘を外す。柄に切れ込みを入れる。矢筒の中で矢同士を紐で縛っておく。弓も折れやすくヒビを入れておく。剣の握りに油を塗り、滑りやすいようにする。

 どれも他人が見れば下らないイタズラと笑うようなものだが、慌てて武器を取って戦う段では見過ごしやすい塩梅のものだ。

 敵前でモタついてくれるだけでいい。それこそがメイにとって何よりのチャンスになるだろう。


 黙々とそんな作業をしていたホークだったが、作業の終わりに近づいてほんの少しだけ油断をした。

 油断というほどでもなかったかもしれない。雨の中では基本的に音も匂いも紛れる。音は出ないよう注意していたし、それでも感づかれるとすれば、不意に詰所の中から小便にでも出る兵士たちによってだろうと思って、そちらを警戒していた。

 だから、徘徊している魔物が先にホークを発見するとは思っていなかったのだ。

 気づけば魔物も音を殺し、ホークの背後10フィートのところまで迫っていた。

「!」

 ホークはその気配にゾワリと気づく。

 そして、その反応を見せたことをすぐに後悔する。それは敵に攻撃開始を指示したのと同じだ。

 敵はその瞬間に襲い掛かってくる。ホークは一瞬のうちに魔物の生臭い牙に食い千切られ、屍と化すだろう。

 そう思った時、ホークは「切り札」を使っていた。


 ザッ、と意識が一瞬だけ、横殴りの吹雪に叩かれたように混乱する。


 その次の瞬間。

 ホークの主観では、加工するために掴んだ剣を握りしめたまま、詰所の壁を前にした位置から右、歩いて5歩ほどの位置に「忽然と」移動している。

 しゃがんだ状態から立ち上がり、逆手に掴んだ剣をスイングバックした体勢で、自分が元いた地点を視認していた。

 そして、そのホークのいた位置に、漆黒の虎をふた回りほど大きくしたような魔物が飛び掛かっている。

 ホークはすかさず、もう一度「切り札」を使った。


 ふたたび、ザッ、と意識を吹雪が叩く。


 黒い巨大虎は、ホークの持った剣に右眼球から後頭部まで深々と貫かれ、その場に伸びて死んだ。

 落ちる音さえしなかった。

 ただ、降り続ける雨音と、ホークの荒い息だけが残る。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!!」

 ホークは酸欠で気絶しそうになりながら、それでも息をなんとか潜めようと、ゆっくり呼吸を整える努力をする。

 ホークを最も優秀な盗賊たらしめる「切り札」。

 それがこれ──“盗賊の祝福”とホークが密かに呼んでいる力だった。


 それは瞬間的に高速で動いているのだ、と、ホークは思っている。

 しかし確信はない。その一瞬をホーク自身も知覚できないのだ。

 自分でも見えないが、行動を「予約」すると、次の一瞬で済んでいる。感覚としては、そうなる。

 できることはおよそ息を止めて全力で動ける数秒分の行動。それを、発動の瞬間に自分の中ではっきりとイメージしていなくてはならない。

 無論、いくらでも使えるというわけではない。というより、だいぶ時間を置かないと次は使えない。

 今のは一度の限界の中でできることを二つに刻んで使っただけで、それでも相当に無理がかかっている。

 ホークは四半刻に一度程度が自分の限界だと学んでいた。それ以上は使おうとしても発動しないのだ。

 普通に考えれば戦闘でも有利な絶技だが、一対一の奇襲ではともかく、乱戦では絶対に使えない。

 使えばもれなく息が切れてしまい、限界まで全身を使って運動したのと同じだけの疲労が全身にかかる。メイやジェイナスのような豪傑ならともかく、肉体的には「足が速い程度の普通の若者」というレベルのホークは、そこまで疲労すれば子供にだってやられてしまう。

 ホークはどっと吹き出した汗に交じって鼻血が口元に伝っているのに味で気づき、乱暴に掌で拭った。「二回分け」で使ったことの無理が祟ったのだ。

「くっそ……コレをやるなら……兵士の二人か三人殺るつもりだったんだがな……っ」

 予定が狂った。

 この魔物もどうしたものかと考える。あまりにも詰所に近すぎる。

 しかし、引きずっているうちに次の魔物に感づかれては、今度こそ終わりだ。大型の魔物相手にホークが勝つのは“盗賊の祝福”なしでは無理だ。

 となると、メイをすぐに呼んでこなくてはいけない。襲撃を警戒されてはせっかくの工作の意味がない。

 それともいったん引き下がるか。時間をかけてでも確実に国元に帰る方が優先されるべきだ。

 メイのためを思っての工作に失敗した挙句、結局回り道というのは恰好が悪いことこの上ない。しかし……。

 ホークが迷っているうちに、背後で扉が開く音がした。魔王軍の獣人兵が小便でもしようと顔を出してきたのだ。

「お……」

「!」

 魔物の死体がなければホークも物陰に隠れれば済む話なのだが、死体はあまりにも目立つ。

 どうにかできないかと考えたせいで生まれた遅れと、全身に鉛のようにのしかかる疲労のせいで、ホークはみすみす鉢合わせの瞬間まで動けなかった。

 獣人兵がホークを見つけるまでの数瞬の間に、急場をしのぐための策を急いで考える。

 そこにある長物の武器で急いで刺し殺す?

 無理だ。ほとんど全部細工してしまって役に立たない。

 ならば得意の短剣で正面から戦う?

 この極度の全身疲労を抱えて、雑魚とはいえ本職の兵士とまともに戦って倒すなんて無謀だ。もしうまくいっても目の前は詰所だ。少しでも声が届けば増援に囲まれて終わりだ。

 リュノの道具袋に何か役立つものは?

 そんなものがあったらとっくに使っている。

 哀れな通りがかりの村人のフリをする?

 魔王軍が怪しい村人にそんなに優しいものか。

 一目散に逃げる?

 相手が状況に混乱してまごつけば、なんとか逃げられるかもしれない。だがそれも疲労が枷になる。

 観念して居直る?

 潔いというのは敵にとってだけ都合のいい賛辞だ。論外。

 ……結局、逃げるしかない。芸のない、と自嘲しつつ、ホークは足元の泥を掴んで、二の腕に走る鈍痛に耐えながら獣人兵に投げつける。

「うがっ!?」

 そして逃げ出す。いや、逃げ出そうとしたが足がもつれ、横たわる黒い虎の死体に引っかかって泥の中を転げた。

 それでも逃げる。雨の山道だ。もしかしたら追っ手も滑って転ぶかもしれない。見失ってくれるかもしれない。油断した辺境の守備兵なら職務にも気が入っていないかもしれない。

 諦めるな。メイを一人にするな。ホークがこんなくだらないところで力尽きたら、メイはもう前にも後ろにも進めない。

 急に兄貴分を気取っておいて、なんてザマだ。だが、作戦失敗でもなんでもメイだけは守らなければ。

 ホークのその数秒の希望と奮闘は、何事もなく追いついてきた獣人兵の足音で断ち切られる。

「貴様、何者だ! 俺たちを魔王軍と知りながらコソコソと……死にたいようだな!」

 襟首を掴まれて泥道に引き倒され、そして獣人兵が腰から抜いた剣に思わず目を瞑る。

 その瞬間。


「何者と訊いたな」


 獣人兵がギクリと手を止める。

 その声は雨の向こうから……森の中から響いてきた。

「誰だ! コイツの仲間か!」

 獣人兵は振り上げた剣を下ろしてホークに突き付け、キョロキョロと首を回しながら声の主を探す。

 だが、その体は唐突に弾き飛ばされた。

「ギャウッ!?」

「訊かれたからには教えてやろう」

 そして、ホークの傍には……芝居がかった低い声で喋る、おそらくメイと思しき雑な覆面。

 長い止血布を顔にぐるぐる巻きにして、防水の掛け布をマントとして纏った……やはりどう見てもメイ。

 どういうつもりなのかと脱力しつつ見上げるホークの前で、覆面メイはビシッと奇怪なポーズを決めた。

「我らは正義の大盗賊ホーク一味!」

「マジで?」

 いきなり自分の名を大声で名乗られ、思わず素のテンションで呟くホークを、メイは踵でつつくように蹴りつつ、名乗りを続ける。

「貴様ら魔王軍の蛮行許すまじ! お宝をよこせ!」

 その声を聞いた詰所の中の兵士たちがどやどやと出てきて、ホークが細工した武器を手に手に、二人を囲みにかかる。

「お宝ってなんだよ」

「正義の大盗賊ってどういうことだ?」

「知るか。そもそもなんで盗賊がこんな関所を襲う」

 呆然とするホークのみならず魔王軍の兵士たちも困惑気味だが、それを受けたメイはポーズを取ったまま。

「……お宝ないの?」

「こんなところにそんなもんあるかボケ」

 兵士の一人の答えを聞いて、メイは頷き。

「じゃあいいや」

「じゃあいいやで済むか!」

「え、駄目?」

「ふざけやがって! 魔王軍をナメた真似してタダで帰れると……」

「帰るよ」

 少し気が抜けていたメイの口調が不意に冷え、その目が肉食獣の光を帯びる。

「絶対にね」

 そして、その瞬間から覆面少女は暴風と化した。 

 進路の雨粒が霧になった、と錯覚するほどのスピードで踏み込み、兵士の一人に拳を叩き込む。

 その兵士はまるで投石機で放たれたように数十メートルも吹き飛んで木に叩きつけられ、動かなくなる。

 その信じられない光景に他の兵士が動けずにいるうちに、また冗談のような動きで泥道に足を食いこませて止まり、マントを跳ね上げて両腕を開くように手刀。

 並んでいた兵士二人が「く」の字に折れて声もなく転がる。

 いち早く覆面メイを「なんかとんでもない怪物」と認識したらしい兵士が槍を慌てて向けるが、その穂先はあらぬ方に外れて飛んでいき、手元にはただの木の棒。

「うわっ、な、なんだ!?」

「不運だね。ご愁傷様」

 メイはその兵士の上から雨粒を巻いて横倒しのコマのように跳び、遠心力のついた浴びせ蹴りを叩きつける。

 人間の体は衝撃でここまでひしゃげるのか、と思うような恐るべき威力。

 軽い口調にもかかわらず、殺意に満ちた覆面少女の殺人武術に、兵士たちは恐れをなして逃げ出す。

「っ、お、おい……どういう、つもりだ……?」

「シッ。……これでいいよ」

 メイはそう言って逃げる兵士たちを見送る。


「つまりは、ここをどうにか通り抜けつつ、あたしたちが『勇者ジェイナス一行』だと思われなければいいわけでしょ」

「そりゃあ……まあ、そう……かもしれないが」

「こうしてあいつら蹴散らして。そしてここを襲ったのは、お宝があると思って現れた間抜けな自称『正義の大盗賊一味』。クラトスもピピンも含めて、逃げた勇者一行を探してたとしたら多分間違えてくれるよね」

「間抜けって……俺の名前使ってそんな……いや、別に勇者と思わなくてもそれはそれで追手がかかりそうなもんだが……」

「もとはと言えば、一人で魔王軍のいるところに潜り込んで、なんかしようとしてたホークさんがいけないんだよ?」

「……面目ない。っていうかどうしてあそこに現れたんだ」

「追っかけたに決まってるじゃん。暗いところに死体と一緒にいたくないってゆったじゃん」

「……年上の言うことは聞けよ。本当はあのあと満を持しての作戦で……いや、助かったけど」

「へへー。褒めろ褒めろー。撫でろ撫でろー」

 強引な突破をして、敵の生き残りを逃がして警戒を広げるという失策はあったものの、なんとかホークとメイは死体を担いで切り通しを抜ける。

 改めて、この少女と一緒なら、この逃避行を完遂できる気がした。

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