第31話 邂逅 1

 サカグチは間もなく、転がるようにして戻ってきた。顔は青ざめていて、頭のてっぺんの毛がふわふわと乱れている。


「大変だ、外へ逃げて!」

「えっ」


 チハルとラッキーは顔を見合わせた。サカグチはふたりを誘導しながら、「あっちゃんパパだ。奴は包丁を持ってるよ」と言った。すると廊下の突き当りの陰から、のそりと熊のようなシルエットが現れた。確かに太腿の横にぎらりと光るものが見える。一瞬で一同に戦慄が走った。熊はこちらに気づくとひたひたと近づいてきた。

 チハルは玄関に裸足で下りて鍵を開けた。が、ドアが開かない。よく見れば上の方にもうひとつ鍵がつけてある。ラッキーの母が過去に徘徊していた名残かもしれない。


「ラッキーさん、早く!」


 ドアを開けてチハルは中に向かって叫んだ。ラッキーの紙のように白い横顔が見えるが、彼女は足がすくんでしまったのか、零れ落ちそうなほど目を見開いたまま動けずにいる。手を引いて連れ出そうと、チハルは玄関の中に踏み込んだ。すると、ラッキーの一メートルほど前に、恰幅のいい男が立ちはだかっているのが見えた。


「君がいけないんだ。いつまでもフラフラしているから。俺にしろと言ったのに。サカグチなんかと寝やがって」

「な、何を言ってるんだ。ラッキーさんと俺はそんな仲じゃないぞ」


 サカグチが言ったが、熊のような男はそっちをまったく見ない。ラッキーしか見えない、そんな感じの目つきだ。男は包丁を前に構えたまま一歩距離を詰めた。サカグチとラッキーが一歩退く。男があと一歩踏み出せば手が届く距離だ。


「あのボロアパートでヤッてたんだろう? 不倫の上に同棲とはいい身分だな。俺は全部知ってるんだぞ」


 ……え?

 チハルは眉を顰めた。ボロアパートとは鹿野荘のことだろうか。この男も鹿野荘の場所を知っている。ラッキーとサカグチが鹿野荘で同棲していたと思っている。ということは、まさかこの男が鹿野荘に火を……?


「逆恨みもいい加減にしろよ。ラッキーさんはずっと迷惑してたんだ。あんたにしつこく絡まれて、付きまとわれてさ。早くその包丁を引っ込めろ。それでどうするつもりなんだ、ええ!?」


 サカグチが噛みついた。その瞬間、男は包丁を振りかざして襲い掛かってきた。「わあっ」と声を上げてサカグチとラッキーは飛び退いた。

 チハルは咄嗟に傘立てから傘を引き抜いた。ふたりのあいだから男に向かって素早く突き出す。男は少し怯んだが、左腕でガードしながら包丁を持った右手を振り回してくる。

 チハルも闇雲に傘を降り回した。包丁を持っている右腕を重点的に、上半身を矢継ぎ早に叩きまくる。周りから見たら滑稽かもしれないが、本人にしてみたらそれどころじゃなかった。食うか食われるかの一騎打ち、相手は刃物だから刺されたら一巻の終わりだ。アドレナリンで興奮のさなかにいなければ、きっとその場にへたり込んでしまうだろう。

 幸いなのは、チハルが応戦しているあいだにラッキーとサカグチが外へ逃げ出したことだ。チハルも逃げ出したかったが、家の中にはラッキーの母がいる。男がもしも身動きのできない母親を見つけたら、とても恐ろしいことだ。いや、もしかしたらラッキーにとっては、母親が不幸な事件に巻き込まれて死んでしまう方がありがたいことなのだろうか……?

 その時、玄関のドアが突然開いた。――かと思えばまた閉まった。どうやら外で押し問答をしているらしく、ラッキーとサカグチの喚き声が聞こえる。


「離して! お母さんを助けなきゃ!」

「何を言ってるんだ、あいつは君を刺そうと思って刃物まで持ってきたんだぞ!」

「お願い、お母さんは自分じゃどうにもできないんだから! 私が助けてあげないと死んじゃう……!」


 刃物を持った男の手が突然止まり、ぎょろりとした目が輝いた。チハルが傘で叩き続けるのをものともせず、男はきょろきょろと辺りを見回している。やがて男の目が止まった。その視線は、ラッキーの母が寝ている部屋の、僅かに開いた襖の中へと向けられていた。


「ちょっと、相手は私でしょう!? こっち向けってば! ……このっ、このっ!」


 男の背中を叩きまくるが、がっしりとした体躯はびくともしない。男は無遠慮に襖を開け放った。ずかずかとラッキーの母が眠るベッドへと歩いていき、その向こう側に回り込んだ。


「おい、ラッキーちゃんを連れてこい。あの女に話がある」


 チハルは短い悲鳴を上げた。ぐっすりと眠っている年老いた女の喉元に、包丁の先が突き付けられている。男の目つきは完全に常軌を逸していた。広がった鼻孔からしゅうしゅうと鼻息が洩れ、横に広がった唇からは今にも涎が垂れそうになっている。


「あ、あああの、まずはちょっと落ち着きましょうよ。ラッキーさんを呼んであげるから、まずはその危ないものを下に置いて――」


 チハルがそう言った途端、男は歯茎をむき出しにしてベッドの向こう側から飛び出してきた。チハルは急いで部屋から飛び出して、襖をぴしゃりと閉めた。横っ飛びに避けたところ、たった今までチハルの身体があった場所を、銀色の切っ先が勢いよく突き破った。思わず息をのんだ。男は本気らしい。ラッキーを殺せない腹いせに、誰かひとりでも犠牲にしたいといったところか。


「ラッキーちゃんを呼べ!」


 襖の中で男は叫んだ。いらついているのか、部屋の中をどすどす歩き回る音がする。

 玄関の外では、ラッキーが泣き叫ぶ声とそれをなだめるサカグチの声がまだ続いていた。この騒ぎに近所の人も集まってきたらしく、住宅街の小さな庭は騒然としている。

 途端に外が騒がしくなった。ラッキーとサカグチの声だ。何かに驚いているようにも聞こえる。誰かが警察を呼んだにしてはサイレンの音は聞こえなかった。

 チハルがそろり、とドアを開けた瞬間、遠慮がちなどよめきが周囲から上がった。随分と人が集まっているようだ。その手前にラッキーとサカグチがいて、こっちを心配そうな面持ちで窺っている。

 と、ふたりのところからスーツを着た長身の男が走ってきた。とても懐かしく、チハルが会いたくて堪らなかった顔だ。


「チハルちゃん」

「久我さん……!」


 久我は玄関前の階段を駆け上がって、チハルの手を握った。彼の手は温かかく、緊張で凍てついたチハルの手を融かすようだった。チハルは大きく息を吐いた。張り詰めた糸が一気に緩んで身体の芯が熱くなる。目の奥がじんじんする。唇が震えてしまうのを隠したくて、唇を引き結んだ。

 サカグチに拉致されて以来、久我のことは考えないようにしていた。彼が一緒だったら状況はまったく違ったのに、と心の底では思っていたが、敢えて蓋をしていた。久我の顔を思い出した途端、心が力を失って立っていられなくなるのが分かっていたからだ。

 チハルは何度も目をしばたいて久我に状況を説明した。男が立てこもっている部屋にはラッキーの母親がいて、人質に取られていることも伝えた。


「男はひどく興奮しているので気を付けて下さい。さっき刺されそうになりました」


 チハルは淡々と言ったが、久我は驚いて眉を顰めた。チハルの顔を心配そうに見詰め、ただ無言でそっと背中をそっと撫でた。


「分かった。気を付ける」

「おい、まだか! 遅いぞ!」


 男の怒鳴り声が聞こえる。あまり騒いでラッキーの母を起こしてしまうと危険だ。母親が騒いだら逆上して殺してしまうかもしれない。

 三和土にいたチハルを久我が外へと押しやり、代わりに自分がそこへ残った。チハルはドアのすぐ外にいるが、ここからだと男が立てこもっている部屋が死角になるので、中の様子は分からない。


「聞こえるか」久我は言った。「ラッキーさんと話ができるようにするから、刃物を置いて部屋から出てきてくれないか」


 ああ? と恐ろしげな声がして、物が壁にぶち当たるような鈍い音がした。

 きゃあ、と野次馬から悲鳴が上がる。なんの助けにもならない金切り声に、チハルはいらいらした。警察は一体何をやっているのだろう。これだけ人がいたら誰かが呼んでいるだろうが、バッグの中に携帯電話をしまったままのチハルにはなすすべもない。


「ラッキーちゃんを連れて来いって言ってんだろうが! 早くしねえとこのババアを殺す!」

「分かった。今連れてくる」


 久我は踵を返し、チハルの腕を引いて階段を降りた。ああは言ったものの、これといって策はなかった。今の様子からすれば、鹿野荘脇の駐車場で会った時の彼の状態は、ほとんど正常だったと言ってもいいだろう。それだけ現在のあっちゃんパパはイカレているように感じた。


「あの――」


 離れたところで見守っていたラッキーが近づいてきた。目も鼻も真っ赤だが、少し落ち着きを取り戻したようだ。


「私……あっちゃんパパさんと話してみます。無関係なあなた方に怪我をさせるわけにはいきませんから」

「それは危険すぎますよ、ラッキーさん」


 チハルはラッキーの二の腕を掴んだ。


「瀧川さんの言う通りだよ。奴の狙いは君なんだから」

「サカグチさん。こんなことにならないように、もっと彼には気を付けるべきだったわ。それに私、母を守らなきゃ」


 ラッキーは思い詰めた様子で、ずっと握りしめていたモップの柄をチハルに渡した。そして階段の前まで進むと、玄関の中に向かって声を張り上げた。


「あっちゃんパパさん、ラッキーです! あなたと話をするわ、出てきてちょうだい!」

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