第8話 研究進捗

 5月。薄暗いセミナー室。今日は鵜堂研究室の研究進捗セミナーの日だった。今週の担当は、二回目のM2となる緒方と、そして佐々木だった。セミナー室とは、一番前に黒板、そして5つほどの長机と椅子のある部屋で、つまりはいわゆる教室の少し小さいものだ。今は緒方の発表の時間なので、佐々木は後ろから二番目の真ん中の机に座っている。鵜堂教授は一番前の左側、D3の江藤は二番目の右側に座っている。残りの院生は皆後ろの方だ。

 スクリーンには、プロジェクターから投影された緒方の研究に関するスライドが映し出されている。緒方は白地に紺色のチェックシャツを着ている。スライドには計算結果をグラフにしたものがあり、そろそろ、まとめに入るところだ。緒方はスライドの毎ページ毎ページ鵜堂に質問され、その度にしどろもどろになりながら答えていた。鵜堂は気がついたことがある度に質問をするので、すでに発表開始から2時間くらいが経っている。今は緒方は汗をぬぐいつつスライドをめくろうとノートPCに近づいているところだ。

「つまり、まとめますと、今回わかったのは〜」

 佐々木は、手元のノートPCを開いて、今日の進捗報告のスライドについて最終確認をする。今日が今年度の鵜堂研での研究進捗セミナーの第一回目だった。瀬田との共同研究について、佐々木は鵜堂に話す機会がなかった。4月は鵜堂はとても忙しいと聞いていた。また、そもそもどんな時に教授の部屋に行っていいかもよくわからなかった。猪俣研の時は、猪俣准教授はドアが開いていれば基本的にいつでも議論オーケーだった。瀬田との共同研究、果たしてどのようなことを言われるのか。研究進捗自体は問題ないはずだ。瀬田から教わった理論手法のやり方はほぼマスターし、実際の超伝導体に適用できそうな感触は得られていた。今日は、今話題になっている新超伝導体を紹介、何がわかっていなくて何がわかることが大事なのかについて解説、その後瀬田の理論手法について説明して、今後この超伝導体にこの理論を適用して成果を出したい、とまとめる。瀬田に事前にスライドをメールで送っていて、『これなら大丈夫だと思いますよ』というお墨付きを得ているが、やはり不安だ。

「これで、発表を終わります」

 という緒方の声。緒方は鵜堂の方を心配そうに見ている。佐々木からは鵜堂の顔は見えない。鵜堂が口を開く。

「うん、興味深い研究内容だと思うよ。この調子で上手くいったら、今度の秋のアメリカでの国際会議に参加してもいいと思う。お金は出せるから、どうだい?」

「あ、はい。ありがとうございます」

 緒方は特にうれしそうに見えない。研究室から旅費が出て海外に研究発表しにいくなんて、佐々木だったら嬉しいことだ。

「あの、それは、このままこのテーマで続けていけば、修士論文は大丈夫ということですか?」

 緒方はプロジェクターのケーブルを抜きながら鵜堂に言った。

「うーん、これからの進捗次第だけど、国際会議に出せるような結果になるなら、問題ないと思うよ」

 それを聞いて緒方はほっとした顔を見せた。あ、そういうことか、と佐々木は気づいた。

「じゃあ、次、佐々木くんの番だね。プロジェクターの使い方わかる?」

 D3の江藤が言った。江藤は今日の進行役をしている。

「はい、大丈夫です」

 そう言いながら、佐々木はノートPCを持って前の席へ。

 研究室セミナーというのは、講義とは全く異なる。時間が定められているわけでもなく、特定のレポートを出すわけでもない。理論系の研究の場合、黒板さえあれば、体力の続く限り先生の興味と時間がある限り、続く。教科書を読んでその内容を話すいわゆる輪講の場合には、先生はすでによく知っている内容なので、時にはヒントなどを出して早く終わらせる場合もある。しかし、研究進捗セミナーの場合は、研究室によってはお昼直後から19時を過ぎる場合もある。佐々木は猪俣研で先輩の研究進捗セミナーに参加していたが、猪俣研は最大1人1時間と時間を区切っていたのでそんなに大変ではなかった。鵜堂研の場合、そういう時間制限は設けられていないようだ。緒方の研究進捗発表は13時から始めて2時間を過ぎるくらいだった。

 ケーブルを差し、ノートPCの画面を切り替え、プロジェクターに映す。プロジェクターのスクリーンは黒板を見てやや左にあり、佐々木は右側に立つ。一番前の机の上にあるレーザーポインターを手に取る。

「では、これから、私、M2の佐々木が発表します」

 鵜堂はワクワクするような楽しそうな表情で佐々木の方を見ている。それは鵜堂の講義の時と似たような表情だった。鵜堂の講義は評判がよい。いつも、本人が楽しく教えているのが伝わってくるような講義だ。

 江藤はノートに佐々木のスライドのタイトルを写しているようだ。緒方は、後ろの方に座って、ほぼ放心しているような感じで外を見ている。元猪俣研の新D1の内海は、一番後ろの席の窓際に座ってこっちを見ている。新M2の二人、近藤勝と清水さおりは通路側の後ろ。新M1の鈴木翔は内海の隣だ。昨年度M2だった人たちが二人いたはずだったが、その二人は博士課程に進学せずに、就職した。

「まず、この研究には共同研究者がおりまして、国立A研究所の瀬田さんです。瀬田さんにはとても興味深い新超伝導体の実験結果を教えてもらいました。また、瀬田さんとの議論を通じて、その結果をうまいこと説明できそうな可能性が出てきましたので、今回は、実験結果について軽く説明した後、理論の詳細について、お話ししたいと思います」





「以上で発表を終わります」

 佐々木は研究進捗発表を終え、レーザーポインターをテーブルに置く。そしてそのまま近くの椅子に座る。黒板は、佐々木が説明した理論の式変形の説明と、一番簡単な時に理論結果がどうなるのかを表したグラフで一杯だ。時計を見る。18時。結局3時間立ちっぱなしで発表したことになる。鵜堂の方を見る。鵜堂は何やら考え込んでいるような感じで、腕を組んで黒板を見ている。

「では、今回の研究進捗セミナーを終わります」

 そう、江藤が宣言すると、後ろの席の学生たちがぞろぞろと帰り始めた。佐々木はノートPCからケーブルを外し、プロジェクターの電源を切る。窓際の黒板消しを取って、黒板を消し始める。

「佐々木君」

 鵜堂が声をかけた。佐々木は黒板を消す手を止めて、鵜堂の方を見る。鵜堂はニコニコしている。

「久々の超伝導の研究テーマだったからちょっと張り切りすぎてしまったよ。こんな時間になるとは思わなかった」

「30分で話せるように30枚くらい用意したのですが、まさかこんなに盛り上がっていただけるとは思っていませんでした。指摘もどれもおっしゃる通りだったので、それらを反映させてやってみたいと思います。ありがとうございます」

 鵜堂の指摘はどれも的を射ていた。瀬田と議論した時とまた違った角度からの指摘になっており、答えるのに窮するものもあったが、概ね乗り切れたと佐々木は思っている。あらかじめ瀬田にスライドを見てもらったのも良かったのかもしれない。鵜堂が超伝導をやっていたのは10年前で、それまで鵜堂研の学生は誰も超伝導の理論を研究テーマにしていなかった。それにも関わらず、最新の実験のポイントをきちんと押さえ、今回の佐々木の扱う理論で最大で何が言えるかについて正確に把握していた。優秀な理論物理屋はたとえセミナー中に寝ていたとしても的確な質問ができる、そういう話を昔猪俣と雑談した時に聞いたことがある。何が本質的であって、何を無視してよいか、そこをうまく切り分けられる人は勘の良い優秀な理論物理屋だ、とのことだった。

「佐々木君、今回の研究進捗報告はとても良かったよ。ただ、理論に関しての理解は進んでいるとしても実際に手を動かすのはまだだから、予想外の結果に出くわすかもしれない。その場合は是非私にも教えて欲しい」

「はい。ありがとうございます」

「緒方君と同じ国際会議に参加するのは、さすがに無理だね? 秋の国際会議でポスター発表でもしてくるといいと思ったけど、多分アブストラクト(申し込み内容の要約)の申し込み締め切りが、来月半ばくらいだから、間に合わないよね」

「そう、ですね。さすがにまだ具体的な結果は何も出ていませんし、来月半ばまでにちゃんと結果が出ているかわかりませんし。申し訳ありませんが、ちょっと難しいと思います」

「わかりました。君がどんなペースでこの研究を進められるかわからないけれど、ある程度まとまったら、5月のボストンでの国際会議にでも申し込むのはどうだい? 確か締め切りは1月くらいだったはずだから、まだ余裕があるよ。あと、同じく3月末には日本物理学会もあるから、こっちもだそう」

 鵜堂がこの研究を評価してくれていることに佐々木はとても驚いた。2回目のM2の緒方と3回目のD3の江藤の話だと、物理に対してストイックで、妥協を許さない『優しくない』先生だったはずだ。

 その後もう少し鵜堂と話をして、院生室に戻った。





 院生室に戻ると、ご飯の炊ける匂いがした。

 内海が毎日夕食用に炊飯器でご飯を炊いている。炊き立てご飯を学食に持って行き、味噌汁と一品を頼むと、栄養の割にとても安くつくらしい。猪俣研の時は、内海は院生室でインスタント味噌汁をお湯で作って、鯖缶と炊き立てご飯を毎日食べていた。佐々木はいつもその匂いで食欲をそそられてしまい、夕ご飯を学食に食べに行く毎日だった。

 今年度鵜堂研に移籍した後も、朝はコーンフレークかご飯、昼は学食、夜も学食。今は月収22万円を得て『働いて』いるけれども、その前の奨学金生活とほぼ同じ食生活を続けている。

 ノートPCを自分の机に置く。今日はもうフラフラなので、学食で食べてそのまま帰ろう、そう佐々木は考えた。席に座り、机に置きっぱなしだったお茶のペットボトルを飲みつつ、少し休憩する。

「佐々木君、研究進捗セミナー、お疲れ様。鵜堂先生からの評判は悪くなかったんじゃない?」

「俺もそう思うよ。鵜堂先生、興味がない時はバッサリと斬るように質問するんだけど、その質問に発表者が答えられない時の長い沈黙が見てる方にも辛くてさ。緒方さんとかいつもボッコボコにされてるよ。今日はそうでもなかったけど」

「そうかな?もうぐったり疲れたよ...」

 同じM2の清水さおりと近藤勝が佐々木に話しかけた。佐々木は二人の方を振り向きながら答えた。清水は身長は170センチメートルほどあり、さらにヒールを履いているのでとても背が高く見える。近藤は、アメフトをやっていました、というようながっしりとした体格だが、本人曰くアメフトどころかまともにスポーツをやったことがないインドア派らしい。内海は炊けたご飯を自席で食べている。今日は学食に行かずにそのままここで食べているようだ。味噌汁の匂いがする。

 鵜堂研は学生が多いため、院生全員が一つの部屋に入りきらない。そのため、部屋を二つ使っている。この部屋は、佐々木、清水、近藤の新M2と、D1の内海の四人用の部屋だ。壁に向かうように机が並べられ、本棚がそれぞれ人数分ある。ドアのそばに流しとポッドと二台のコーヒーメーカー(一台は内海専用)、中央にはホワイトボードがある。

「いきなりここに配属された佐々木君が心配だったけど、きっと君なら大丈夫だね」

「俺もそう思う」

「ありがとう」

 そう言って佐々木は立ち上がり、机に散らばる瀬田から教えてもらった論文のプリントアウトをかき集め、リュックに入れる。

「おつかれさまー」

 そう言って、院生室をあとにした。


 研究テーマも決まり、理論手法の基本もマスターしたので、あとは、ひたすら計算するだけだ。




(続く)

 






 

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