第29話 壁に頭をぶつけたり、ずっと怯えていたり、感情が鈍麻していたり……

 寝入っている伊桜の看護を担当ナースに任せ、白夜が勝己と共に車で駆けつけた先は、瑠璃仁の研究施設だった。前に瑠璃仁に付いて白夜も何度か来たことがある。ここに、春馬も椋谷も、そして暁も最近連れてこられているらしい。受付に関係者であることを告げ、中へと入れてもらう。真っ白の壁、机、椅子、何台ものコンピュータに顕微鏡。特殊な装置の付いた白い戸棚の保安庫に、用途不明なメカニカルな白い機械がズラリ。医大にいる頃に一度だけ立ち入った臨床研究室の中に似ていた。

「やあ。来たんだね」

 白衣を羽織り、数人の科学者を従えた瑠璃仁が振り返る。白夜が彼の傍まで近寄ると、横長に開いた窓の下に異常な光景が広がっていることに気がついた。

 椋谷が何度も壁に頭を打ち付けていた。何かに怯えたように。

「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ……」

 スピーカーからのノイズのようなものだと思っていたものは、マイクが拾った椋谷の言葉だった。額が切れて流血し、四方の壁に点々と赤い跡を残している。

 壁で仕切られたその隣で、誰かが派手に転倒するのが見えた。白夜は目を向ける。黒い髪、華奢な体躯――暁だ。凛々しい普段の姿とはかけ離れたようにふらふらと歩行して、同じ勢いで壁に足をかけ、転んでいる。

「あ、あれ……歩けません! 誰か!」

 また壁を歩こうとして立ち上がり、転んだ。

「椋谷の方がはっきり見えているんだろうね。暁は、まだ、わかっていないんだ」

 と、なにやら分析している。もう一つ隣の部屋があり、その中をのぞくと、春馬が頭を抱えて虚ろに下を向いていた。空き部屋かと思うほど、微動だにせず静かに。

 白夜は口を挟んだ。

「瑠璃仁様、これは危ないですよ……! 治験の域を超えていますって!」

 瑠璃仁は若いがこの創薬会社の持ち主だ。彼の命令でこの実験は中止にできるはずだ。

「すごく危険なのは認めるよ。でも彼らはやると言ったんだ」

「本当に危険です。こんな――」

 あれだけ力いっぱい壁に頭をぶつければ、脳震盪を起こしたり障害が残るかもしれないし、転倒だって危険だ。感情が鈍麻したような春馬のことも気になった。いったいどうして、こんなことになっているんだ。

「身体も、精神も、おかしくなっちゃいます!」

「僕みたいに?」

 瑠璃仁はにやっと、いたずらっぽく笑う。

「それが、狙いなんですか?」

「まさか。そんなことないよ」

 呆れて落胆したように、白夜から目を逸らすと、背を向けて言った。

「僕は、この世の裏コマンドを見つけたんだ」

「裏コマンド……?」

「そう! 神に元々設定されていたコマンドなんだ! バグなんかじゃなく!」

 酔いしれるように、

「いいなあ。あの子たちは、背景の山に登れるんだ。僕はバグっちゃってるから、残念ながらそこまでの到達は無理そうだけど。健康体なら、もうすぐきっと――」

 夢見るように。

 彼の前、眼下にいるのは、いまだに壁に頭を打ちつけ続ける椋谷、壁を歩こうとして転倒を繰り返す暁、そして物言わぬ春馬。

 ――現実が見えていない。

 若槻先生……。こんなこと……さすがに、これは、許していていいことなんでしょうか。

「……瑠璃仁様、あなたは、境界失調症が悪化していると僕は思います」

「僕の妄想だって言いたいの?」

「そうです! あ、いや、僕は看護師ですから何とも言えないですが――でもっ」

 針間先生がここにいてくれたら、こんなことになる前にとっくの昔に診断していただろう。「それはお前の妄想だ」と。そして即時入院を奨めていただろう。

「若槻先生が診てくれているから大丈夫ですよ。そろそろ、実験に集中したいんだ。出ていってくれるかな?」

「あっ――」

 白夜は二人の警備員に担がれ、研究室をつまみ出された。

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