海月と猫

 そういえば、私は海を生きる海月を今まで見た事がなかった。



 特に理由が有るわけでもなく、ただ一度上京してしまうと実家には何か火急の用が無い限りは帰ってはいけないような、妙な気まずさに脚を縛られ。故郷の土を踏むのはもう五年ぶりになる。

 祖母が死んだのだ。友人達の中には物心がつく頃にはもういなかったという人もいるから、私の祖母はかなりの長生きなのだろう。幼い頃よく遊んだ記憶があるのだが、若い頃どんな仕事をしていて何歳なのか、何も知らない。親戚なんてそんなものだ。だから、私が特別薄情なわけではない。

 大往生の葬儀に涙などない。まだ八月の太陽照りつける昼間だというのに、会食の場にはビールの大瓶が炭酸を吐き出す音が木霊する。次は俺の番だな、と大口開けて笑い合う老人達は楽しそうだが私は長生きしてくださいと苦笑いするしかない。

 私の居心地の悪さを感じ取ったのだろう、賢しい兄は私に近寄ってきた。

「こうなったら長引くから、お前はもう家に戻ってもいいぞ」

 手渡された実家の鍵には昔と同じ不細工な猫のキーホルダーが付けられていた。

「途中で抜けてもいいの?」

「もうただの飲み会だよ。親戚で集まって話す機会が楽しいだけ。和尚さんだってもう顔真っ赤になってるし」

 彼はスクーターで来たはずなのだが。袈裟をかけた茹で蛸は大叔父と肩を組んで何かを話している。中学の同級生なのだとか。

「じゃあ、お言葉に甘えて。どうせ家でも皆騒ぐんでしょ?今のうちに荷物まとめちゃうよ。明日の朝帰るし」

「もう少しゆっくりしていけよ。忌引きだろ?」

「二日しか取れなかった」

 本当は三日取っていたが、明後日は仕事に行こう。私にとっては故郷が自分のものではなくなってしまったようなこの気まずさの方が耐え難かった。

 目に付いた知人に一通り挨拶をして家路を歩く。ものの数分で喪服は太陽の熱を取り込み苦行の衣と化す。顎を伝う汗を拭うことすら面倒で、きっとこの土の農道において私は見苦しいヘンゼルとなっているだろう。グレーテルのように泣けない私は。

 憎らしい坂を上った先に実家は何食わぬ顔で佇んでいた。まずシャワーを浴びようと引き戸に手をかけると、さわりと懐かしい潮の匂いがした。そういえば、この家からは海が見下ろせるのだった。



 白と青のワンピースに帽子と日焼け止めを丹念に塗り直し、私はもう一度坂を下った。今度は火葬場ではなく、その隣の宴会場でもなく、途中で曲がらず真っ直ぐ海へ。左手に掴んだスポーツドリンクの青い缶が、とぷりとぷりと音を立てるリズムで私は歩いていく。

 懐かしい匂いの最も強い埠頭は褪せた私の記憶と全てが変わらなかった。鴎の鳴き声も、干からびたロープの切れ端さえも、二十年前から不動であったかのように思える。

 万が一にも落ちないよう踵に力を入れながら海を覗き込む。

「わあ」

 海は白かった。打ち付ける波に泡立っていたのかと思ったが違う、無数の海月が海中海面問わず埋め尽くし、一種の織物のように紋様を描いていた。



 そういえば、私は海を生きる海月を今まで見た事がなかった。

 お盆を過ぎる頃には母は真剣な顔で『海月が出るから海に行ってはいけません』と言っていた。それが私はとても恐ろしくて、もし間違えて海月に出会ってしまおうものなら毒で殺されてしまうのではないか、そう考えて海沿いに住む友人の家に行くのにも躊躇っていたものだ。

 悠々と揺蕩う不思議な白を眺める。これが毒を持っているかは分からないが、水族館で見るよりもずっと楽しげに見える気がする。

 木の枝でもあればつついてみたい、そう思って辺りを見回すと、いつの間にか埠頭を闊歩する三毛猫が一匹いるのに気が付いた。人が恐ろしくはないのだろう、彼(彼女?)は慣れた足取りでスタスタと私から数メートル離れたところで座り込み、私と同じように海月の泳ぐ海を眺め始めた。

「飛び込んだらいけないよ」

 私が話しかけると猫はピクリとこちらを横目で見たが、すぐ当たり前の事を言うなとばかりに下を覗き込む作業に戻った。

 毛皮を着ているその身にこの暑さは地獄であろうに、あいつは何を思って海月を見ているのだろう。食べようとしているのだろうか、ただ綺麗だから眺めているだけなのだろうか、それとも上を歩いてどこかへ行こうとしているのだろうか。いくら考えてもこれといった答えも出ずに、手に持っていた缶のことを思い出しプルタブに指をかけた。私には猫の考えている事なんて分かりっこないんだし、猫にも私の考えている事なんて分からないのだ。嫌いではなかった祖母が死んだというのに、帰るのが面倒だと思ってしまった私の惨めさと罪悪感なんて。

 まだ冷たいスポーツドリンクで知らず知らず乾いていた喉を潤す。猫はこちらが心配になる程微動だにしない。

 この缶が空になるまではここにいよう。この猫は私が幼い頃にはきっとまだ生まれてもいない、しかし何故だかこの故郷で唯一の昔馴染みであるかのように思えてしまったのだ。

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