幸福への祈り

10

 すっかり手に馴染んだドアを開けるなり、建物の奥から複数の視線が突き刺さった。そこには敵意が含まれている。ひそひそと囁く声がさざ波のように押し寄せてくる。


 思い思いの場所で祈りを捧げていた修道女たちが、一歩踏み出すごとに壁際へと捌けていった。すぐには動こうとしない子供たちのことも、こちらから目を離さないままに呼び寄せている。


 ミカが拐われた一件でなんとはなしに正体がバレた。彼が拐われたのはこっちの事情に巻き込まれてのことだと思われている。まあほとんどそれが正解だけれど。


「あなた、よくもまた顔を出すことができましたね。神に祈ったこともないくせに」


 聖女像の下に、厳しい表情の見知った修道女が立っていた。老女の頬の痣はまだ薄まっていない。背後にそびえ立つ聖女の力を借りて罪人を断罪するかのように、背筋を伸ばし、顎をあげて立っている。


 真っ白な石の聖女は、教会に灯るやわらかな光に照らし出されて淡く微笑んでいる。


「シスター。私のことを憎んでいるでしょうが、あの子を助け出したいという気持ちは確かです。あの日、ミカが拐われるのを目撃した者に話を聞きたい。あなただけでなく、居合わせた子供たちにも」


 レオンハルトにあの子は殺せない。その痕跡がここにも残っているかもしれない。それを確かめたくて、歓迎されないとわかっていて来た。


 ゆっくりと歩を進めていきながら、正面に立つ彼女の顔色を伺う。


「そんなことをしていただかなくてもけっこうです。すでに警察のほうに届け出ましたし、街の自警団の方々も手を貸してくださいます」


 下手に出たつもりだったが頑な態度は崩せそうになかった。思わず舌打ちしそうになり、咄嗟にシスターから視線を外す。たまたま顔をそむけた左側、そこで椅子の中ほどに座っていた少女と目が合う。もうだれもいないと思っていたのでかなり驚いた。


「グウェン?」

「こんにちはおじさん」


 少年を失ったはずの少女は、背もたれに身体を預けながら穏やかにほほえんでいた。


 どれほど泣いていることだろうと思っていたのに、なぜそんな顔をするのか、疑問と同時にもしやなにか知っているのだろうかという希望も芽生える。


 ミカの片割れの少女だ。彼女にだけ、レオンハルトが少年の居場所を教えているかもしれない。それで、そんなふうにひとり笑っていられるのかもしれない。


 少女の座っている近くに指をかけ、目線を合わせるよう覗き込む。


「グウェン、君は、何か知っているんじゃないのか。知っていることがあるならなんでも打ち明けてほしい」


 少女は一瞬きょとんとしたあと、やはり淡いほほえみを口許に浮かべて首を振った。彼女の表情の意味が理解できず、眉間にしわが寄る。


「ならなんで笑っている」

「だって、涙が出ないんだもの」


 いっそう笑みを深くして、少女は小さく首を傾げた。少年とよく似た、くるりと毛先の丸まる黒髪が肩口で揺れる。


「私ね、ミカがいなくなってから空っぽになってしまったみたいなの」


 くすくすと楽しげに笑い、少女が前を向く。その先には聖女がいる。彼女を信仰する者たちを愛し、見守り、いつか終わりが来たときには、神の楽園へ導くとされている者。


「一生懸命祈っているのに、ミカが帰ってこないの。でもなんでだろう。こんなに悲しいことはないはずなのに、泣くこともできないでいる。私──」


 何かいおうと口を開いたところで、ぐらりと少女の身体が傾いた。反射的に崩れ落ちる身体を抱き止める。


「グウェン!」


 後ろのほうで何人かの悲鳴が上がり、バタバタとこちらに駆け寄ってくる足音がする。


 ぐったりとしている少女は、深い緑色の瞳を重たげに動かして、天井に描かれた楽園の絵を見ていた。


「ミカのお名前ね、神様が聖女様を助けるために天から使わした偉大な者の名前から取ったんだって、前にシスターが教えてくれたの」


 おじさん、と少女が顔を歪める。


「ミカはほんとうの天使になってしまったの?」


 思わず子供を抱きしめる腕に力が入った。


「大丈夫だ。俺が必ず助ける。だからミカが戻ってくるまで、君は少し休みなさい」


 そっと頭を撫でてやってから、彼女を後ろの気が気でない様子の保護者たちに手渡した。そのまま教会を出ていくまで、だれからも呼び止められることはなかった。


 雑踏の中でため息を吐き出す。大通りを行き交う人々の群れにまぎれるように、ハットを目深くかぶり、顔を伏せながら歩く。このまま空気に溶け込んで消えてしまいたいと馬鹿みたいなことを考えた。


 必ず助けるなど、まるでヒーロー気取りで滑稽だ。どう考えても悪役のほうがお似合いのくせに、正義の味方のような約束をしてしまった。


 でもあの少年の歌声の前では、そんな感傷も罪の意識も吹っ飛んでしまう。渦巻く思考からこの世界に引き戻される。彼が歌っている場所にはきらきらと光が降り注いでいる。


 そういうところにきっとレオンハルトも惚れ込んでしまった。永遠に、自らの手中に収めたいと思ってしまうほど。

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