第45話 あかね、独走


 〇


 あかねが先ほど送ったメッセージの返信であった。具合が回復しないようなら昼食がてらにお見舞いに行こうかという旨に、持つべきものは友なるかな、と感動に打ち震える。けれど体調は持ち直し、また昼食も済ましてしまったし、南条の午後の講義に差し障っても気が引けるから、もう復調して食事も済ましたことを伝えておく。


 それに、いまはなんとなく、だれにも会いたくない気分だった。

 我ながら、こんな気持ちになるのは珍しい。

 やはり、今日はこのままもう寝てしまおう。


 ベッドによじ登った、ちょうどその時、チャイムが鳴って、あかねは思わずしかめっ面を作った。なんとも間の悪い、勘に触れる訪問である。来客や通販の到着の予定などないし、どうせテレビの集金かなにかだろうと居留守を決め込みかける。


「あ、あかねさーん」


 聞き覚えのある声が届いて、振り向いた。扉越しに、遠慮がちのか細い声だったが、確かに知っている。


「一昨日のことを改めて謝ろうと思って。やっぱり怒ってますか……?」


 声の主は、四方津華。いまにも消え入りそうな声。


 ここで狸寝入りをするような不徳は、幸いにもあかねには備わっていない。やにわに立ち上がって、在宅を報せようと声を上げようとして、


 床のシャツに足を引っかけて、机に向かってすっころんだ。


「あかねさん!? いるんですか? いま、凄い音が」

「大丈夫大丈夫。いま開ける――」


 カップラーメンの残り汁を頭からかぶりながら、玄関へ向かいながらはたと気が付いて、振り返る。


 目の前に広がるは、およそ人が住んでいるとは思えない惨憺たる有様。くんずほぐれつの乱痴気騒ぎが繰り広げられたとしても、ここまで酷いことにはなるまい。

 されども、現実として四畳一間にユニットバスとキッチンとだけが付いた学生用安アパートの一室は、その隅々に至ってまで、ゴミと物とゴミとで溢れている。キッチンと一緒になった廊下にすら、出しっぱなしの米櫃や調味料が所せましと肩を並べている。


 このに華を上げるのは気がひける。――否、はなはだ不本意である。もはやこれは、先輩として、女としての沽券に関わる。ただでさえ華の前で情けないところを見せてしまった上に、さらにこの惨状まで覗き見られてしまっては、もうあかねは生きていけぬ。


「ちょっと、ちょっとだけ待ってもらってもいい? 部屋、片付けるから」

「は、はい。わかりました」


 瞬間、あかねは一流のスプリンターのような迅速さで以て、動き始めた。

 ゴミは大きなゴミ袋のひとまとめにし、ベランダへ放り出す。散らかる衣服は、畳みもせずに入るだけ収納スペースや丸めて詰め込む。入りきらなかった分は、ゴミ袋に積めてベランダへ。

 しかし床が姿を現したことによってこんどは、細かい食べかすや埃が目立つ。いちいち掃除機をかけている時間もないので、もう一年くらい使っていない粘着ロールクリーナーであらかたさらっていく。


 そしてひとまず人にお見せできるようになるまで、なんと所要時間五分。もちろん、こんなものはただの見せかけで、あかねの虚勢を保つだけの張子の虎に過ぎない。が、これ以上華を部屋の外で待たすのも悪い。


「お、お待たせー。ちょっと散らかっちゃってたから。ごめんね」

「いえ、それは大丈夫なんですけど、なんかスポーツでもしてるのかってくらいの大騒ぎでしたけど……」

「あはは……」


 力なく笑うあかねの呼吸は荒い。しかし華はそれ以上は見て見ぬふりをした。ささやかな心遣いである。が、後輩にかような斟酌をさせてしまっている以上、もはや先輩としても矜持も面子もあったものではない。


「どうぞあがってあがって」

「失礼、します」


 それでも華は一歩玄関に踏み入れて、思わず言葉に詰まった。

 彼女の戸惑った表情と、その視線の先に気が付いて、あかねも凍り付いた。

 あかねは、部屋と廊下を片しただけで、満足してしまっていたのである。

 しかし実際、よそ様の家に上がることになって、いの一番に目に入るところは、そこではない。


「靴、お好きなんですね」


 玄関のタイルの上には、備え付けの靴箱などないために、ブーツやヒール、スニーカーが脱ぎ散らかされている。

 もはや華が気を利かせてくれるのも痛々しい。


「ま、まぁね……」


 やはりハリボテはハリボテにしかすぎぬ。


 ここで、部屋の中は綺麗だから、などと空威張りを抜かそうものなら、それはベランダの現状を披露するも同義である。さしものあかねはそればかりはなんとかわきまえて、ぐっと言葉を飲み込んだ。


「私、華ちゃんに下宿の場所教えてたっけ?」

「いえ。筒井さんにお聞きしました。……もしかして余計な迷惑だったでしょうか」

「ううん。そんなことない。嬉しい。でも、講義は大丈夫なの?」

「代返をお願いしましたから。あと、これ、もしよろしければ」


 手渡されたのは、ペットボトルの飲み物と、それから、大振りの桃が二玉。


「お加減は、どうですか?」


 華の声音はあかねの健康を気遣うもの。だからこそ、あかねも努めて快活そうに、


「うん。大丈夫。ちょっと熱もあったけど、もういまは引いてるし。明日からはまた働けそう」

「なら、……よかったです」


 言葉とは裏腹に、華の面持ちは物憂げである。かといって、あかねも、それを見抜きながらも、いちいち指摘するのはためらわれた。


 机を挟んでふたりして正座のまま、無言の間が続く。エアコンが冷気を吐く音と、外を走る車のエンジン音と、あとはもう、身じろぎをする気配ばかり。

 互いが互いに自分の引け目を感じているから、切り出せない。

 髪をいじり、唇を舐め、頬を掻き、指を組み、膝を擦り、

 そして、


「あの!」

「あのさ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る