第33話 後輩こわい


 〇


 午後十時四十五分を指し示す時計を見つめながら、あかねはため息をひとつばかりこぼした。そして長針がぴくりと進んだのを見つけて、もひとつ。ひとしきり小さな吐息を漏らしつくした後、最後に、大きな長嘆息を吐いて、カウンターに突っ伏した。


 原因は、後輩メンバー四方津華である。


 彼女のシフト時間は、一カ月の間は、お試し期間ということも含めて、午後九時から十二時までの三時間となっている。あかねの勤務時間は午後七時から午前三時なので、その間にOJT方式で研修しろ、ということである。


 華は毎日きっちり十時五十分にエレベーターの扉を開く。それこそ時計が毎日正確に同じ時刻を指すように。そうして五分余りで出勤準備をこなし、あかねの前にやってきて、「おはようございます。本日もよろしくお願いします」と折り目正しいお辞儀とともに挨拶を寄越すのだ。


 その行為自体は、あかねは感心している。自分には到底真似のできない他人の行動というのは、嫉妬や羨望以上に、素直に感服するほかない。

 あかねが憂鬱に感じ、ともすれば憔悴した顔すら見せている理由は、彼女の勤務中の振舞いにある。


 つんとすまして言うことをきかない、ならば、先輩ということを笠に着て、𠮟りつければよい。怠けて仕事をしないというのなら、尻を蹴り上げればよい。現実にあかねがその手段を採るかどうかは別として、そのような態度であるならば、あかねもいかようにでもやり方がある。


 だからこそ、あかねは困っている。

 華は、あまりにもソツがなさすぎた。


 一を教われば十を知る、ほどではないが、教えた一は遺漏なくこなす。気になったことは逐一尋ね、都度疑問点は残さないようにする。

 お手本のような、仕事のできる人間を目の当たりにして、あかねの抱いた感情は、当然妬みややっかみの類ではなく、かといって、感嘆の情を持つ訳でもなく、いいようのないプレッシャーと恐怖であった。


 そもそもメンバーの仕事というのは、麻雀を打つほかに特別な技能など必要なく、日本語が読み書きできて、電卓が扱えれば事足りるような簡単なもので、教えれば中学生にだってできるようなもの。麻雀の除いたメンバーの仕事の出来不出来とは、もうほとんど注意力の問題にほかならない。


 そういう訳だから、あかねは内心戦々恐々としていた。今更言うまでもないことだが、あかねは粗忽者の性質である。ドジ、間抜け、スカタンと呼ばれるような性根である(それをカバーする愛嬌を持ち合わせているのが救いに違いない)。

 セットの料金計算を間違えたり、煙草の値段を勘違いしたり、ひどい時には、自身の麻雀収支の計算を間違えて、当日の帳簿に影響を与えることもある。そのたび、筒井やましろに叱られるのだが、頻度こそ減るものの、一向になくなる気配を見せない。当人ですら、これはもう気質の問題と半ば諦めかけている節すらある。


 一方、華はその点に関しては余人の口を挟む隙のないほどに完璧であった。むしろ、二週間のべ四日シフトを共にした結果、あかねのミスを指摘してくれるほどである。これはこれでありがたいのだが、先輩としては立つ瀬がない。華もまた、悪びれたり、気おくれしたりしている様子がないから、やるかたない。


 そうこうあっての、本日で五度目の華の出勤日であるから、あかねのため息もついぞ堰切ってとめどない。


「おはようございます。中井さん」

「どわっ! お、おはよう四方津さん。いつの間に……」


 ふいに声を掛けられて、思わずのけぞって、椅子から転げ落ちそうになる。時計を確認すれば、長針はとうに五十分を過ぎている。


「どうしましたか?」

「う、ううん。ちょっと考え事してただけ」


 ホラー映画を見ていて、いきなりおどかされたような気分である。二、三度深呼吸をして、動悸を鎮める。


「具合が悪いんですか? 顔色も、すこし悪いような気が……」


 あまつさえ無用の気遣いまで頂戴する次第。あなたが悩みのタネなんです、なんて、面と向かって言えるはずもなく、あいまいに笑ってお茶を濁す。


「……そうですか」


 華もなにかしら思うところはあるように、物申したげに唇をわずか震わせて、しかしひゅっと鋭く息を飲み込んで、エプロンの後ろ紐をくくると、黙ってフロアへ出ていく。

 あかねはというと、なおも驚いたままの姿勢のまま、ただただ彼女を見送るばかり。


 彼女の何が悪いという訳でもない。むしろ、仕事のできる新人が入ってきたということは、店にとってはプラスに違いない。あかね自身にとっても、覚えの悪い新人よりも、華のような人種の方が、教育担当としての自分の仕事も楽になって、良いことづくめのはずなのだ。


 だというのに、胸の裡のもやもやは晴れない。それが、自分のコンプレックスを刺激されたことによって生じるものだということに、あかねは気付いてはいるが、それをどう処置すればいいのか、対処すればいいのかを、まだ知らない。

 突き放せばいいのか、あるいは、威張り散らせばいいのか、どれもこれもしっくりと来ない。


 あかねが頬杖を突いて考え事しいしい、フロアの様子を眺めている間も、華はかいがいしく、てきぱきと、教えたことに忠実に、フロア中を駆け回っている。ふと、華と目が合って、すぐに視線を切られて、自分がカウンターの中で椅子に座って仕事をしていないことを見咎められたのではないか、なんて強迫観念にまで駆られる始末。


 このままではいけない。けれど、どうすればいいのか。あおいやましろに相談するべきか。と思って、しかしすぐに否定する。自分もついぞ先輩になったのだから、いつまでも甘えてられない。

 すでに自分は彼女たちから多くのことを教わってきた。あるいは、その中に、こういう状況を打破する方法もあるのではないか、……。


「四方津さん。仕事が終わったら、ちょっといい?」

「……はい」


 結果、あかねが採った選択は――

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