第9話誘拐

19-9

もう麻由子が自分の処に戻る事は有り得ないなら、それなら麻由子を育てれば良いのだ。

ベンチの凜を見ていたノイローゼの徹は、普通の人が考え無い様な発想に成っていた。

「可愛いですね」と真三に声をかけると「言葉を覚えて、大変ですよ」と笑顔で答える。

しばらくして、エレベーターで母親の真由が迎えに来て徹と三人で地上に上がる。

真三は車に戻って荷物を取りに行ったので、徹は真由に抱かれた小さな手を触って、遊ぶと笑顔の凜。

そのまま地上に出ると、手を振ってその場を去って行く徹。


その日から徹は、自宅に凜を連れて来る事だけを考える人間に変化していた。

数週間の休養で会社に戻った徹は見違える様に働く人間に変わっていて、倉庫長が驚きの表情に成ったのだ。

偶然地下の駐車場で会って、麻由子から娘に対象が変わってしまった徹。

古い自宅の改造も自分で少しずつ変えるので、休みも充実していて、日曜大工は昔から好きだったので苦には成らない。

古い自宅に子供が暮らせる場所を造り自画自賛して、また別の場所を改造して、古い家の内装は見違える様に変わっていった。


もう、麻由子もあれから何事もないから、ビラとデリヘル事件は完全に忘れてしまった。

一年以上が過ぎ、平和な時間が続いていた。

娘の凜も三歳を過ぎ、可愛いいおませな女の子に成っていた。


徹は会社でも見違える仕事振りで、倉庫長の評判も良くなったが、会社の早期退職希望に急に応募したのだ。

「毛利君、どうしたの?近年の君は見違える働きに変わったのに、退職するのか?」

「はい、老後を考えて新しい事を今から考えようかと思いまして」

「その年で?」

「はい」

「そうか、仕方が無いな、来年の三月末まで頑張ってくれ」と言われて、徹はいよいよ計画が近づいた。

麻由子が手に入らないなら、その娘を育てようと考える狂った考えに成ってから、既に二年以上経過して徹は見違える仕事振りと、趣味の世界の日曜大工で古い家も室内は綺麗に変わって、子供と生活が出来る環境を整えた。

この二年以上徹は充実して、まるで嫁を貰う心境に変わっていたのだ。

徹の自宅は町から少し離れた場所に在る古い家屋で、近所付き合いも母響子が亡くなってからは全くしないし、姉の長谷川昌子も陰気な弟の自宅には来る事も無かった。

財産も古い家だけで、弟がやがて死んだら自然と転がり込むから敢えて行かない。

お寺が自宅から少し離れた場所に在るから、三年前まではそこには盆にお参りする事も有った。

昌子は東京に主人の転勤で行ってからは、もう殆ど帰らない様に成ってしまった。

この様な環境で徹は全く世間から疎外された人間に成っていたのだ。


三月に成って、一人寂しく会社を去った徹は新しく中古車の普通車を買って、いよいよ凜を迎えに行く準備を整えて、四月の桜の花が散る頃姫路に向かった。

麻由子の娘凜はこの春から保育園に入学して、元気に通い出して麻由子も次の子供が産まれて子育てに忙しくしていた。

「凜もお姉ちゃんだから、一人で何でもしなくては駄目よ」

「はい」と元気よく送迎のバスに乗り込んで行く。

その様子を頭がすっかり禿げた徹が、乗用車からじっと見つめていた。

久々に見た徹の印象は、麻由子に似てきたと思って目を細めていたのだから気味が悪い。

その日、凜の保育園を確かめてどの様に誘拐をするか?いや凜を迎え入れるか方法を考えていた。


徹の心配とは裏腹に簡単にその時は訪れた。

二度目に保育園に来た時、丁度バスで姫路城の隣の動物園に、みんなで出掛ける処に遭遇したのだ。

四人の保育士に引率されて、バスに乗り込むと全員嬉しそうに窓から外を見ながらはしゃいでいる。

さりげなく尾行を始める徹、バスを降りると細心の注意をする保育士達、それでも子供達は思い思いの行動をする。

動物園に入ると尚更、像に見とれる子供、怖がる子供それを少し離れた場所から観察する徹。

ここでも偶然が徹の目の前で起こったのだ。

一人の子供が小便と言って走り出してしまう「待って」と追い掛ける保育士の一人。

「みなさんは、こちらに来て下さい」と言う先頭の保育士、もう一人が今度は「うんこ」と言って座り込む。

慌ててもう一人が駆け寄って、世話を始めると引率は二人に減った。

さりげなく近づく徹、きりんに見とれる凜は一瞬取り残された。

「お嬢ちゃん、あれはきりんって動物だよ」と話しかける徹。

「何が好きなの?」

「ライオンさん」

「そう、ライオンさんはあっちだよ、見に行くかい?」

普段から商店街の店で年寄りと話す事に慣れているので、徹に対して何も恐怖を感じない。

「可愛い子供さんですね」といつも頭を撫でられて育っていたから、全く危険を感じてない。

ライオンの檻の方に近づくと、自分から走って檻の前に行く凜。

保育園の保育士達はまだ凜の失踪に気づかない。

しばらく見ている凜に「みんな、行っちゃったよ」と言うと「お婆ちゃんのお店、直ぐ近くだから、大丈夫!一人で帰れる」と全く気にする様子もない。

「送ってあげるよ」と徹が言うと「叔父さん、お婆ちゃんのお店知っているの?」

「知っているよ」と笑顔で答えると「お客様ですね、ありがとうございます」とお辞儀をしたのだ。

店でいつも見ているから、お客様にはお辞儀をしてありがとう!を言うのが普通だと思っていたのだ。

徹は何の苦労も無く凜を車に乗せる事に成功するのだ。

誰も廻りに誘拐犯が狙っているとは考え無いから、意図も簡単に連れ去れるのだった。

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