泣かないで愛しいひと

第一印象、約束


冬の朝。神崎律は雪の降りそうな曇り空の下、顎をマフラーに埋めて事務所の入っているビルまで歩いた。外気と触れるエントランスに入り、エレベーターを待つ。コートの中に忍ばせたカイロをぎゅっと握った。

事務所のある五階で降りて、ガラス扉が開いているのが見える。朝から客人か。


「おはようございまーす」


中に入ると、能見と倉木がいた。

そして、神崎の席に男が一人。


「おう、おはよう」

「おはよう」


上司二人から挨拶が返ってくる。


「おはようございます、神崎さん」


神崎の席に座る男は、この事務所の新入りでもなければ席を間違えているわけでもない。計画的に、かつ悪戯で、その席に座っていた。

先日、事務所の担当の人間が変わって、この男がやって来た。名前を七海宝という。

胡散臭い名前だ、と神崎は思った。


「……おはようございます、退いてもらえますか」

「同い年なんですから、敬語は辞めてくださいよ」

「あたしは今あんたと同い年だって知ったんですけど」


きちんとスーツを着ている。特別ブランド物というわけではないが、電車に乗っていれば普通のサラリーマンに見えるだろう。

ネクタイを締めていれば。

先日の初対面でもこの図で、やりとりをした。神崎が昼休みにここへ帰ると、七海が座っていたのだ。生理前だった為、神崎の七海への対応は酷いものだったかもしれない。いやだからといって、わざわざこうしてそれを仕返しに来るだろうか。


「もしかして、」

「はい」

「暇なのか?」


能見と倉木はこの会話を聞いてはいたが、中に入ろうとは思っていなかった。


「は?」

「こっちは仕事しに来てんだよ。そしてそこはあたしの席だ。だから、そこを退け」


七海は目を丸くさせた。神崎は口調が変だと言われるのは慣れていたので、その変化に態度を変えない。しかし、相手は本職。


「神崎、落ち着け」


流石に能見から制止が入ったが、七海はにこりと笑って立ち上がる。


「これは失礼しました。では、また仕事終わりに来ます」

「……は?」

「お疲れ様です」


ぽかんとする神崎を椅子に座らせ、七海は能見と倉木に頭を下げて行ってしまった。


「は!?」

「神崎、ちょっと静かに」

「だって倉木さん、あいつ何なんですか? ストーカーで訴えられますか?」

「証拠ないだろ、無理だよ」

「しかもあいつの第一声……」


神崎は舌打ちをした。

気が立っていたのは、七海の所為だけではない。入院している母親の容態が芳しくないからだと、倉木は知っていた。


『貴方が神崎さんですか。美人ですね』


美人だと面と向かって言われたのは何年ぶりだろうか。神崎はそう言われることがとても我慢ならなかった。そして、それを周りも察していた。


「まあ、同い年なら仲良くやれよ。七海はヘラヘラしてる割にキレる人間だ」

「あたしは遠慮します。証拠集めて訴えます」

「おい神崎、どこに行くんだ」

「一服してきます!」


まだ仕事してねえだろうが! と背中に能見の怒鳴り声を浴びながら、神崎は事務所を出た。非常階段へ続く扉を押し開けて、外に出る。マフラーは置いてきたので首元が寒かった。

カイロの入っていない方のポケットから煙草を出した。一本咥えて火をつける。吸う習慣は無かったが、最近ヘビースモーカー気味になってきている。倉木にも「やめたら」と言われていた。

紫煙を吐く。冷たい外気に、吐く息の白さと煙が流れていく。

今まで、人に言い寄られなかったわけではない。それは相手が男に限らず、だ。しかし、神崎は誰かに自分の気持ちを許したことはなかった。

ああして、神出鬼没に付きまとわれるのは初めてだ。

扉の開く音がする。


「神崎、いい加減戻っておいで」

「……はーい」

「そういえばさ、ありさ、引退するらしい」

「そうなんですか」


楠原ありさ。芸名しか知らないが、神崎は何度かありさの香盤へ足を運んだ。りっちゃん、と気安く呼んでくる若い女は、ありさくらいだった。

この界隈に馴染んで、珍しい人間とばかり出会う。いや、今まで出会わな過ぎただけか。


「教えてくれてありがとうございます、今度行ってみます」

「七海も誘ってみれば?」

「絶対嫌です」


煙草の火を消して、事務所へ戻った。宮武と関が来ていて、挨拶をする。男ばかりの職場だと思うが、それは後輩の関が一番思っているだろう。


「神崎さん、七海さんと一発触発だったって本当ですか?」

「一触即発って言いたいのか?」

「そうそれです!」


昼休み、事務所の近くのとんかつ屋へ入った。神崎の正面に座った関が声をあげた。


「そうそう、殴り合いの喧嘩が始まるのかと思った」

「しないですよ、良い大人なのに」

「あの七海ってひと、幹部とかなんですか?」


関の隣でメニューを開く宮武が尋ねる。今日は能見は系列店との会議があるらしく、来ていない。神崎の隣に座った倉木が口を開く。


「幹部ではないらしいけど」

「この前、本部長と一緒に歩いてるの見ましたよ」

「事務局長補佐っていう風の噂」


神崎はメニューをペラペラと捲った。ミルフィーユか、ミックスか、ひれか。

よし、チーズささみにしよう。


「戦闘員ってわけじゃないんですね」

「まあ、最近の本職はドンパチするより頭を使ってビジネスをする方が増えてるから」

「それなら神崎が殴り合っても大丈夫かもしれないですね」

「見たかったなあ。七海さんって格好良いんですよね、神崎さん」


話しかけられ、神崎はメニューを閉じる。「さあ?」と首を傾げた。顔を評価してきた人間の顔を評価したいとは思わなかった。

全員のメニューが決まったので注文をする。


「顔なんて身体の付属品だろ。マイクだって首がなくたって生きてられたんだ」

「マイクって誰ですか?」

「鶏の名前」


明らかに不機嫌になった神崎を宥めるように、倉木は話す。


「担当になったんだから仕方ない。適度に距離を取るのも良い大人がすることだよ」

「遠距離をとっても良いですか?」

「神崎、大人になれ」


ぽん、と肩を叩かれた神崎は、頬杖と溜息をついた。









本当に来た。

神崎は、その姿を見てとても嫌な顔をした。"嫌そうな"ではなく、"嫌な"顔だ。


「そんな顔をしなくても」

「何の用だよ」


同い年であるのは定かではないが、神崎は言われた通り敬語を使うのをやめた。

仕事を終えて駅へ向かっていた神崎は足を止めずにいたが、七海はくっついてくる。


「言ったじゃないですか、来ますって」

「お前、仕事は?」

「今日は終わりました。神崎さん、食べたいものはありますか?」

「ない」


神崎のマフラーの端がぎゅっと掴まれた。うっと呻き声をあげて、神崎が立ち止まる。

大通りは人が多くなり始めていた。本日は金曜日であり、キャッチとポン引きがうろうろしている。遠距離を置きたいと思っていた神崎も、流石に怒った。


「てめえいい加減にしろよ、このまま警察に突き出すぞ」

「俺、神崎さんにとても似ている人を知っているんですよ」

「……え?」


七海はコートを羽織ってはいたが、マフラーも手袋もしていない。寒くないのか、と今更のように思った。


「どこらへんが?」

「態度というか、何ですかね。雰囲気が」

「どこの誰?」


もう七海は神崎のマフラーを持ってはいなかった。しかし、神崎は立ち止まっていた。

七海はそれを知っていたのだろう。

ここから、始まったのかもしれない。


「今は教えられないです」

「は?」

「でもいつか、絶対に教えます」

「"いつか"と"絶対"って真反対の言葉だって分かって言ってんの?」

「約束します。指切りしますか?」


しねえよ、と神崎は答えた。いつの間にか七海のペースだ。立ち止まっている足を見て、空を一瞬だけ仰ぐ。


「唐揚げ」

「はい?」

「鳥の唐揚げだよ。食べに行くぞ」


本職顔負けの凄みを出し、七海の首に腕をかける。よろめくかと思った身体は微動だにせず、神崎は少しの身長差にぷらりと変にぶら下がってしまった。


「歓楽街の方に美味しい鶏肉の店を知ってますよ」

「行こう」

「神崎さん……美味しい鶏があるからって変な人についてくのは駄目ですよ」

「七海。この街からいなくなる前に教えろよ。もし言わないで消えたら、地の果てまで追いかけるからな」

「指切りとどっちが恐ろしいか、今考えてました」


ぷらりとしている神崎を見る。倉木がこの状態を見たらとても驚くだろう。しかし、明日になったら倉木の耳にも入っているのだろう。

神崎は笑った。


「ずっと思ってたんだけど」

「ええ」

「七海宝って、嘘くさい名前だよな」


七つの海の宝。





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