やせこけたあい



神崎律は早退を申し出た。

心配した顔を見せた関が後姿を見守っている。朝から顔を青白くしていた神崎を見ていた能見はひとつ頷いた。倉木は外回りから帰って来ておらず、宮武が代わりに「大丈夫か?」と話しかける。自分の机から鞄を持って「うん」と返事をした。


「下までついていきます」


関が立ち上がり、神崎の背中を追う。それを何も言わず見送り、能見は宮武に尋ねた。


「あいつ何かあったのか?」

「さあ? 俺より倉木さんの方が知ってそうですけど」

「確かに」


矢田はその会話を聞いて、ブラインドの下がった窓の向こうを想像した。


関に見送られ、神崎は事務所を出た。頭痛が酷く、胃がきりきりとする。結局昨日は何も食べられず、よく眠ることもできなかった。傘をささずに雨の中を歩いたからだろうか。そんなことはこれまで何度もあったが、ここまで酷く身体に表れたことはなかった。神崎は一歩ずつ転ばないようにヒールを踏みしめる。


「昼休憩にしては早いですね?」


久しぶりに聞いた声。繁華街の雑踏の中でそれだけが耳へ滑らかに入ってくる。顔を上げると、七海が神崎の方へ手を伸ばしてきた。

大きな手が神崎の額に当たる。その手の冷たさに一瞬目を閉じ、七海はその額の熱さに顔を顰めた。


「熱ありますよ。病院行きました?」

「……今から帰るところ」

「薬あるんですか?」

「どうだろうな」


立て続けに質問を飛ばされると雑音と変わらなく思えてくる。神崎は眉を顰めて七海を追い抜いた。それを止めるように、七海は神崎の鞄を掴む。

今、駅まで歩いて家に辿りつく燃料すらあるかどうか危ういというのに、神崎にはここで七海とじゃれてその燃料を減らすのは惜しい。じろりと七海を睨む。その迫力には物ともせず、「行きましょう」と神崎の手首を掴んで歩き始めた。

引き摺られるように歩んで、神崎は駅前の病院まで来た。送り出されたら終わりだろうと考えていたが、七海は待合室までついて来たうえに神崎の体温計を貰ってきた。平日の昼とはいえ、日本の病人は減る気配は一向にないらしい。主に高齢な方が多く、神崎は体温計を脇に挟んでソファーに凭れ掛かった。一番後ろの隅の席。隣に七海が座る。


「神崎さん、アレルギーあります? 妊娠してます?」

「……てきとうに書いてくれ」


どうやら神崎の問診票を書いてくれているらしい。ぴぴ、と体温計が鳴いたので、それを七海に押し付けた。「38℃です。平熱どれくらいですか?」と七海が聞き、神崎は指を三本、五本、と変える。35℃。

七海は何も言わずに問診票を受付へ持っていく。提出したら帰るだろう、と予想したのはまたしても裏切られ、再び神崎の隣に帰ってくる。気配を消していると、堅気に見えなくも、ない。


「七海、帰んないの?」

「病人を放っておくなという家訓がありまして」

「どうして家訓を守るお前が今の職業に就いたのかが不思議だ」


ああ、結局こうしてふざけている。神崎は思い返して苦笑いした。受付番号を持っている七海が「寄りかかります?」と提案する。うん、と躊躇いもせずに神崎はその肩に寄りかかった。ソファーに背中を預けるより幾分か楽だった。


「この前、仕事をひとつ終わらせたんですよ」

「……それは良かったな」


考えるのが面倒になって、神崎はてきとうに返事をした。

白い床を見ていると、天地をぐるぐると回されている気分になる。神崎の三半規管の融通が利かなくなり始めていた。目を閉じた。


「神崎さん、この前……」


どうして雨の中を歩いていたんですか?

七海の言葉は続くことはなかった。神崎が静かに眠っていることに気付いたからだ。その頭を極力動かさないように七海は体制を直した。ぐったりとした身体が少し重く感じる。

七海はぼんやりと受付の方を見た。それから手元にある番号を確認する。予約もせずに来たのだから待つだろうなと予想して、上司に連絡を入れた。

先日、雨の中を歩く神崎の姿を見た。勿論七海も傘を持っていなかったのだが、神崎から出るくらいオーラに、近づくことすら憚られた。近づいたら最後、それに引き摺り込まれると思った。魅了されると共に、引き込まれて溶かされて終わる。

診療が終わって待合室に戻った男児が七海たちの前のソファーに上った。七海の隣で眠っている神崎をじっと見る。母親が来て「足乗せないの」と言い、ちゃんと座らせた。


―――ななみ、あたしってさ、どこにいるんだろう。


あの夜、泥酔しながらも、レンタルビデオ屋の路地裏で伸びていた七海を見つけた神崎が言っていた。


―――聞いてるのか、ねえ。


仕事を失敗しかけて傷を負い、半ば逃げるように振り切った七海は、力尽きて伸びていた。そこでぶつぶつと独り言が聞こえてきた。目を開けるといつものカジュアルスタイルではない神崎がいた。


「……おひさ、しぶりです。神崎さん、酔ってますか?」

「倉木さんにピンドン入れてきてやった。あたしは事務所にいらないんだって」

「倉木さんがそう言ったんですか?」

「うん。なんでそんなにぼろぼろ?」

「友人と喧嘩したんです」

「へー」


自分の膝が汚れることも厭わずに、神崎は七海に肩を貸した。ヒールを履いているにも関わらず、力強く立ち上がる。七海はそれに感謝した。


「ありがとうございます。倉木さんがそんなこと言うとは思わないですね、何か理由があるんじゃないですか?」

「たぶん、あたしがバンドに誘われてるからなんだよね」


立ち上がったは良いが、これはどこへ向かっているのだろうか。七海はふと疑問に思ったが、神崎が話し続けているので黙ることにした。


「いまさらって感じじゃない? 高校のときだし、バンドやってたの。なのにさあ、またバンド戻ろうなんて、無理だろふつう。もうギター何年触ってねーかって! 聞いてんのか!?」

「聞いてます、神崎さんが話しかけてるのは俺の耳ですよ」

「そうじゃなくてさあ、バンドに戻る話じゃなくて、あたしの居場所ってどこにあんのかって話で。事務所否定されたら、地球上にあたしの場所なんて無い気がして」


話があちこちに飛んでいる。

結局、何の話だろうか。満身創痍の状態だが、正常な頭で七海は考えた。バンドの話か、事務所の話か、将又、地球の話か。


「とりあえず、あの事務所に神崎さんは必要だと思いますよ」

「……七海に聞いたのが間違いだった」

「なぜ」

「本当のこと何も言わないから」


図星をつかれて、七海は口を噤む。夜道を歩く者は居ない。猫の足音さえ聞こえない。

こんなに静かなのに、それでも夜空に星は見えなかった。


「はは、なんてな」

「酔ってます?」

「死にたくなる」


次は七海が笑った。冗談だと思った。

神崎は笑わなかった。


「……神崎さん?」


七海を支えていた神崎の身体がぐらりと傾く。うお、と崩れる寸前でそれを支えた。ぶらーん、と神崎の腕が垂れる。七海は目を瞬かせる。

ぺしぺし、とその頬を叩いてみた。


「生きてます?」


アルコール中毒死かと一瞬疑い、脈を探る。不整脈でもなく、すぐに寝息が聞こえたので安堵した。いや、安堵している場合ではない。


「神崎さん、家までの道教えてください。ここまで来たんですから」

「……んー」


なんとか神崎から道を聞き出し、家に着いた。ここは本当に女性の一人暮らしなのかと思うほど、セキュリティに問題がある。七海はそれに呆然としながら、中に入った。勿論暗くて、静かだった。


「神崎さん、靴脱いでください」

「はあーい」


のろのろと靴を脱いだ神崎は、そのまま玄関に座って壁に寄りかかった。ここで眠るつもりらしい。七海はしゃがんで、瞼を落としそうな神崎を観察する。黒髪、白い肌、長い睫毛、細い手足、死にたくなる、と零した唇。

死にたくなるときがあるのか、この人にも。

七海は掌で目元を覆った。はー、と息を吐いてから、神崎のことを横抱きする。満身創痍だというのに、偉い男である。と、誰も評価はしてくれないが。

迷うことなく見つけたベッドに神崎を降ろし、毛布を掛ける。寝息を確認して、七海はその傍に腰を下ろした。急性アルコール中毒は本当に急に呼吸停止や心肺停止になるので油断ができない。吐瀉物で窒息死する例も何度か見た。無理にでも水を飲ませるべきか、とも考えたが、あまりに健やかな寝顔だったので止めておくことにする。もしも死んでしまったら、どうしようか。


「……一緒に死ぬか」


言った言葉が闇に溶ける。

それは神崎の持つ心の闇の色に、とても似ていた。






夜は短し咆えれば青年 END.

20170723


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