いっしょに

ある日の夕方、家に帰ると父も母も居て、今日はあの行為をしなくてもよさそうだと安心して時間を過ごした。


夕飯を食べてお風呂に入り、父が見ていたテレビ番組を横目に見つつ、当時飼っていた猫を撫でていた。

その猫は優しい子で、私が学校から返ってくる時に通学路で出会うと一緒に家まで帰ったり、父も母も居ない時は一緒に寝てくれた。

私はその猫が大好きだったので、通学路で猫じゃらしを摘んでは持ち帰り、家で一緒に遊んだりした。


猫を撫でている私と離れた場所で父と母は何かを話していたが、あまり気にしてはいなかった。


しばらくすると、父と母の口調が徐々に荒くなり、何かのきっかけで父が激怒して母に掴みかかった。

父は恐ろしい形相で暴言を吐きつつ母を殴りつけ、よろめいて倒れた所を蹴り飛ばした。

このままでは母が殺されてしまうと考えた私は、恐ろしい光景に怯えながらも父の腰にしがみつき、拙い言葉で必死に宥めようとした。


父に逆らうのは怖かったが、母に死なれるのはもっと怖かった。


必死に宥める私の存在など目に入らないかの様に父は暴れ、やがて物を投げたり壊し始めた。

どうしていいか分からずに泣く私の手を、いつの間にか立ち上がった母が掴み、引っ張られるようにして外に連れ出された。

母は私を連れて自動車に乗り込むと、暗い夜道に向かって走り出した。


そんなに遠くには行かなかったと思う。


見知らぬ空き地に自動車を止めた母は、しばらく俯いていた。

明かりのない暗い室内には、虫の声と私のすすり泣く音だけが残った。


そうして、母はぽつりと


「……一緒に……死のうか?」


と呟いた。


驚いて顔を上げた私が見たのは、目を涙で濡らし疲れ切った表情の母だった。

殴られて鬱血した頬が痛々しかったが、私が驚いたのは母の言葉だ。


母は周囲の人に肝っ玉母さんと言われるような、さばさばとしていて明るい人だ。

仕事をする時も一生懸命で、ミスをしても前向きに努力し、時間がかかっても挽回する。

家にはあまり居なかったが、私が母の職場の人や友人に出会うと、必ず「仕事のできるいいお母さんだね」と褒めた。

私も、そんな母を尊敬していた。


そんな母から初めて聞く弱気の台詞に、私は喉の奥がぎゅうっと縮まるような感覚がし、言葉が出なくなった。


同時に、『これで終わりにできるのでは?』という暗い感情が静かに沸きだした。


『死ぬのは怖い。でも、お母さんと一緒だ』


『もう痛い思いも、怖い思いもしなくてすむ』




多分私は、笑顔を浮かべて言ったように思う。


「一緒に死んでもいいよ」


そう口にすると、母は運転席から手を伸ばし、私をぎゅっと抱きしめて泣きながら何度も謝った。

私は、どんな風に一緒に死ぬんだろうと考えつつ、母を抱き返して泣いた。


しばらく二人で抱き合ったまま時間を過ごした。


先に顔を上げたのは母は、私に一言謝って


「家に帰ろうか。もうお父さんも落ち着いているから大丈夫よ」


と言った。


私はその言葉に、死ななくて済んだことに喜んで、生きなくてはならないことに落胆した。

でも、泣いていた母が何時もの元気な母に戻ってくれたことが嬉しかった。


母が運転する自動車で家に帰ると、父はひとしきり暴れて落ち着いたのか、既に寝室で寝ていた。


母と二人で父を起こさないように気を付けつつ部屋を片付けながら、私は少しだけ、同じ毎日が続くことに絶望を感じていた。

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