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 ノルンはファンシアン城の裏庭にいた。

 使用人専用の勝手口を抜けたすぐそこは厨房である。

 ファンシアン城には厨房が地下と地上に二か所ある。地下は使用人の食事、地上は城主とその家族、そして宴会が催されるときに使われていた。

 普通は客人の出入りがある地上階に厨房は置かないものだが、ようは拡張工事の手間の問題だ。

 リシアンは切り立った崖の上にあり、外界と街を繋ぐ橋がひとつだけという孤立した土地だ。土地は無限にあるわけではなく、街を支える岩盤が強固すぎてどこにでも地下室を作れるわけではない。

 使用人が増えて城が手狭になったとき、使えるのが一階の奥の間だけだったのである。陽光がたっぷり入る厨房は、おかげで他の城よりもずっと衛生的で使いやすい。

 ノルンはパン窯の扉を開けて中を覗きこむ。

 魔物が街を乗っ取ってからは誰も使っていないはずだ。

 そして窯にたまったままの灰を、灰かき棒で掻き出していく。

 すると、敷いた襤褸布の上に砕けた頭蓋骨がどさりと落ちて来た。


「…………くそっ」


 ノルンは他にもいくつか罵倒語を唱えながら、口と鼻を布で塞いで変わり果てた亡骸を全て掻きだした。

 おそらくは、城の使用人の誰かだろう。遊び半分に突っ込まれて焼かれたに違いない……。頭蓋骨の持ち主が誰なのか想像しようとする自分自身を押し留めながら、かき集めた灰を包んで裏庭に置いた。

 そして中天に差し掛かろうかという頃合いの太陽をうんざり顔で見上げた。


「きちんと葬ってやりたいが、小麦を持って帰るのに思ったより時間がかかっちまったからな。ここで少し待っててくれ」


 灰の入った袋をに隠してから次の作業にとりかかる。

 補修と煙突掃除が終わり、一段目の燃料室に薪をくべた頃には、ノルンの全身は煤まみれになっていた。


「魔物たちに衛生観念があるとは思えないが……」


 小汚い格好で料理をするのも気が引ける。せめて体についた灰を水で洗おうと井戸端へ行き、衣服を脱いで頭から水をかぶった。

 その瞬間、ざばあ、という水音に混じって「ぶふぅ!」という潰れた豚の鳴き声のようなものが聞こえて来た。

 後ろを振り返ると、頭から水をかぶったずぶ濡れの少女がいた。

 フリル塗れのドレスも、黄金色の自慢の髪も、冷たい水を含んでみすぼらしくぺしゃんこだ。


「……なにしてるんだ、ディミ」

「ぐぬぬぬぅ~~~~、城の裏手に来いと呼んだのは貴様であろう、ノルン! この屈辱、万死に値するぞ!」


 彼女はほかでもない最果て亭の常連客、ディミトリアカである。


「さては、俺を後ろから驚かせようとしていたんだな……」


 呆れて溜息を吐くと、ディミの頬は羞恥によっていよいよ赤く染まる。


「糞長耳族め! 死によって償うがいい」

「わかった。ひと思いにやってくれ」


 ノルンは頷いて、その場に座り込み胡坐を掻いた。


「む、なんじゃ。今日はやけに素直だのう」

「ああ。だが……俺を殺せば、お前がここに来た目的は果たせない。明日になれば、ディミトリアカの名は《大間抜け》という意味で広まるだろうな」


 ディミの瞳が獰猛にぬらりとした光を宿す。

 それは獲物を天秤にかけている瞳だった。

 だが、ノルンのほうもディミトリアカを見上げて微動だにしない。魔物たちと渡り合うには多少の度胸も必要だ。

 しばらく睨めっこを続け、ディミは「ふん」と鼻を鳴らした。


「これだから長耳族は小賢しくて好かぬ。だがまあ良いわ。お前を殺すとネッヤが悲しむし、奇襲などという汚いやり方で仕留めるのは我が一族の誇りが許さぬ」

「ありがとう、ディミ」

「礼などいらぬ。だが心せよ、私の名は《寛容》という意味だと!」


 ディミは人差し指を突きつけ、言う。

 なんだ、少し気にしていたんじゃないか――というからかいの言葉を引っ込めて、濡れそぼった体を拭くものと着替えとを取って来るように言う。命令ではなく、そうしたほうがいいのではないか、という提案にとどめておいた。

 それからノルンは厨房に戻って、作業の続きをはじめた。

 ディミをわざわざ城に呼びだしたのは料理を食わせるためだ。

 出来上がり直前に呼びだすつもりが、もたもたしていたせいで予定が大きくズレてしまった。


「パンを焼くつもりだったが……仕方ないな、予定変更だ」


 大きなボウルに譲ってもらった小麦粉を量り入れる。

 真ん中をくぼませて、酵母と湯と塩を入れる。


「こんなもんか?」


 すべてをボウルの中で丁寧に混ぜ合わせて、こねる。

 最初は溶けきらない粉がダマになり、ぶつぶつになって浮かび、気持ち悪い触感をしていたそれが馴染んで滑らかな生地になっていく。

 その途中でディミがぶかぶかのシャツを着て戻ってきた。

 冬用の衣服である。

 きっと部屋中を掻きまわして引きずりだしてきたに違いないが、そもそも整理整頓が行き届いた部屋ではないのでノルンは気にせず作業を続けた。


「やりたい! やりたい!」


 ちょこちょこと周囲を歩き回っていただけの少女が、ぴょんぴょん跳ねながら立候補する。

 竜田揚げの一件で料理は楽しいものだという条件付けがなされてしまったらしい。


「もうこの作業は済んでしまったから、後でな」


 生地をざっくり二つに分けて、乾かないようふきんをかけておいた。


「これで終わりなのか?」

「まさか。生地を寝かせる時間が必要なんだ」


 水を張った鍋を火にかけた後、厨房の隅に置かれた椅子に腰かけて待つ。

 ディミは生地を気にしていたようだが、じきに隣に腰かけた。

 その途端、ノルンが立ち上がった。


「…………よし、もういいだろう」

「……まだ半刻も経っておらぬではないか!」

「ああ。それでいいんだ。普通のパンにするならもっと時間をかけて二次発酵までやるが、面倒くさいのでやりたくない」

「お主、ちょっと本音が漏れてないか?」

「いや、これは人類全体の思想だ。パン作りは面倒くさい」


 リシアンに人がわんさといた頃も、毎日パンを焼くのは城主一家だけだった。

 城下町の女将さんたちは洗濯をかねて週に一度、パン焼き小屋に通ってまとめて焼いていた。週の最後のほうはカチカチになったものをスープに浸して食べるしかない。だが、それが通常の食卓というものだった。

 そもそも小麦という作物を育てること自体が非合理的な作業だ。

 麦は作物としては病に弱く、虫などが出れば全滅してもおかしくない。上手く育ったところで、パンを作るために粉にしてしまうと食えないところが多く出る。

 粉なんかにせずに粥にしたほうが腹は満たされるはずだ。

 少し理屈くさいノルンの説明を、ディミは眉間に皺を寄せて聞いていた。


「……では、何故、人はパンを焼くのだ」

「それは……いやそれより、作業が先だ」


 ノルンがふきんを取ると、そこには短時間でふくらんで、キメ細やかな表面となった生地が現れた。

 いい出来だ、と心なしか嬉しそうに言い、生地を手に取る。


「生地を丸めるのを手伝ってくれ」

「よかろう! 何しろディミトリアカとは《親切》という意味だからのう」


 珍しく人間らしい冗談だ。

 寛容じゃなかったのか、と笑いつつふたりは大量の生地を丸め続けた。

 真ん中に穴を開けた生地を端から鍋で茹で、天板に並べて載せ、窯に放り込めば、後は焼けるのを待つばかりである。

 

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