【過去番外】灯火の蛾



 網戸越しに、庭で鳴くコオロギの重奏がよく響いていた。


 その他に聞こえるのは、池に注ぎ込む小さな滝の水音と、屋敷の傍らで瀬が奏でるホワイトノイズだけだ。使用人の引けた広い屋敷は静寂そのもので、人の気配など感じ取れない。


 この屋敷の他に、近く家はない。己の部屋から漏れる明かりと玄関の常夜灯以外に闇を照らすものはなく、周囲は人の文明より前から続く、純粋な「夜」に侵食され尽くしていた。


「秋の夜長は、灯火親しむべし……。言われずとも、他にすることなど無いけれどね」


 誰にともなく呟いて、和装の寝間着姿の青年、斗織(とおる)は手にしていた本を文机に置く。少し冷えたので寝間着の上から羽織を肩にかけ、縁側の網戸を閉めに出た。


 部屋から漏れる明かりに、大きな山繭蛾が惹き寄せられて網戸を這っている。時折飛び立ち網戸に体をぶつけて鱗粉を散らす様は、まるで囚われの身のようだ。


「ここは、お前が入るようなところではないよ」


 偽りの灯りに惹かれたところで、待つのは飢えと死だけだ。


 夜闇の中で生きる蛾が、光に身を投げようとする様は不思議で滑稽だった。そこに己の愚かさが重なって見え、斗織は軽くかぶりを振る。


 斗織が独りで暮らすこの屋敷には、新聞もテレビもパソコンもない。当然のように携帯端末も取り上げられており、外界と連絡を取る手段はおろか、外界の情報を仕入れる方法すら無いに等しかった。


 交通の便は悪い。小一時間急峻な山道を歩かなければ、麓の里には下りられない山奥だ。物理的にも情報的にも外界から隔離され、斗織はこの深山幽谷の屋敷に軟禁されていた。


 文机と枕元に積まれた本は、ハードカバーの古典全集、日本文学全集、世界文学全集。和歌、漢詩、世界の民話など、いかにも文学的な教養を深められそうなラインナップだ。屋敷の文庫はそれなりに大きく、全てを読み尽そうと思えば退屈はしないだろう。ただ、斗織には少々不得手な分野が多いのも事実だった。


 本来、理学部の研究室に立てこもり、辞書と論文と数式だらけのノートに埋まっていたい斗織にとって、古典文学の分野は完全に守備範囲外である。慣れてしまえば、面白くないとは言わないが。


「明日から……また、視なければいけないのか……」


 憂鬱な溜息が零れる。斗織がこんな場所に軟禁されているのも、外界の情報を与えられないのも、文学全集を読まされるのにも訳がある。斗織は「先見」――未来予知が出来るという異能を持っていた。


 斗織の異能は、俗世に紛れ、世俗の垢にまみれて生活していては十分に発揮されない。周囲からの雑音、斗織自身の雑念に意識が曇るため、無意識の遥か底の、そのまた先を覗き見るような「先見」を行うのは難しくなるのだ。


 二十年間、斗織が隠し続けていたこの異能に気付いた彼の父親は、先見をするに相応しい環境を整え、この屋敷に斗織を放り込んだ。それまでの斗織の経験、学歴も、これからの未来の展望も、全てを無視しての暴挙である。


 哀しいかな、大規模な商社を経営する父親に歯向かうことも出来ず、斗織はこの、世捨て人暮らしを甘受していた。ここに暮らし始めて五年以上。毎年変わらぬ「四季折々の変化」以外には、その父親から届く先見の依頼くらいしか変化は訪れない。生きているのかどうか、忘れてしまいそうな日々だった。


 こんな暮らしをしていてなお、先見には煩雑な準備を要する。あまり乱用できない能力だと伝えてはあるが、果たしてどこまで理解されているのか。


(――いや、理解していても関心が無いのか。使い減りするとしても道具は道具。今更、気遣いなど期待はしてないが……)


 先見は斗織の命数を削る。先見をひとつ行うごとに、斗織の身体はどこかが軋み、必ず何年か余命が減っている。前回は激しい不整脈に襲われたが、今回は果たして。


 読書灯の傍らに置いた時計を見遣る。もう寝る時間だった。


 眠ってしまえば、すぐに明日がやって来る。だが、ここで不摂生をすれば辛いのは自分だ。諦めて文机に置いていた本を閉じ、斗織は傍らの寝床に潜った。







 ごほっ、ごほっ、と湿った咳を繰り返し、口元を押さえて肩で息をする。喉元をせり上がってきた、鉄臭い液体にむせたのだ。


 今回、先見の負荷は肺腑にきた。袖先の染まる赤と、息苦しさに濁る視界。もう二度とやりたくない。その都度痛める場所は違えど、先見で命数を削るたびに心底思うことだ。殺されるのであってもこれよりマシだ。毎回そう思うのに、結局また家の命令に従っている。そんな己が疎ましくもあった。


 哀れな生き物だ。死をもたらす灯りを恋う、あの蛾のように。


「いや……まだ蛾の方が、潔く美しいか」


 己が夜闇の生き物と知っていながら、迷いなく懸命に、望む光へと向かって行けるのだから。


 斗織も光を望んでいた。だが本当に欲しかった光は、手を伸ばせないまま去ってしまった。そして今は格子越しの、決して手の届かぬ偽りの光を見上げている。たとえ届かなくても、ずっとずっと。


 布団から這い出して、文机を見遣る。


 宛名もない白封筒には、一筆箋一枚だけが入っている。先見の結果報告に対する返信だ。ただ一行、『橘領家のため、よくやってくれた』とだけ書かれているはずだ。見ずとも分かるのは、今まで届いたそれが全て同じだったからだ。


 こんなものを心のよすがにしている自分が、哀れでもある。


 封筒に手を伸ばしかけ、血に汚れた指先を引き戻した。袂で雑に拭い、今度こそ封筒を取り上げる。薄い、薄い封筒を開き、飾りひとつない一筆箋を抜き出した。


 甘さと苦さと混じり合う心地で、開く前から知っていた文言をなぞる。


 飴と鞭、両方を含んだ一枚の紙切れだ。これが斗織の文机に重なるごとに、斗織の命数は削り取られていく。あまりにも安い、命と対価と他人は笑うだろう。


 淡い笑みを浮かべて目を細め、斗織は指を滑らせる。


 指先に感じる、かすかな凹凸と、インクの香り。


 滑らかな、真白い上質紙に乗る文字は、いつも手書きだ。


 父の字など覚えていない。誰か顔も名も知らぬ相手が、淡々と書いているのかもしれない。







 それでもこの紙一枚だけが、斗織がまだ「生きている」証なのだ。







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第133回フリーワンライ企画のお題をお借りしました。

(#真剣文字書き60分自主練編 )


使用お題:

甘さと苦さと飴と鞭

染まる赤と濁る視界

たとえ届かなくても、ずっとずっと

灯火親しむべし

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