花の下に死す 3



  3.



 橘領家の三男に生まれた斗織の人生は、大学生活途中まで順調だった。橘領家は大手商社を経営しており裕福で、多忙を極める両親との接点は薄かったものの、一人で本を読んでいるのが好きな少年だった斗織はそれを苦にした記憶もない。物理学の道に進んだ斗織は実家の家業に関わるつもりもなく、研究者として生きる道を望んでいた。先見の異能については、幼い頃、よく一緒に遊んでいた友人に漏らして気味悪がられて以来、周囲には決して気づかれないように気を使っていた。


 すべてが崩れたのは大学三年生の年末だった。


 実家に帰っていた斗織は、うっかり視えた先見を家族に漏らしてしまう。大規模な先物取引も行っている橘領家にとって、斗織の見せた能力はあまりにも魅力的なものだった。どうにか在学中は待ってもらえたものの、卒業とともにこの屋敷に押し込められて五年以上が経つ。


 もとより、少し歳の離れていた兄姉と内向的な斗織は親密ではなかったし、下の兄弟は腹違いで会う機会がない。もしかしたら兄姉は斗織の特異さに、ぼんやりと気づいていたのかもしれない。


『二十年間、育てて貰った恩に報いなさい。会社の事業に協力することは、橘領家の一員としての義務だ』


 既に役職を持って橘領の商社に勤めていた長兄は、何の感情も見せず諭してきた。嫁いだ姉は橘領家の内情に関わることもない。学友は幾人かいたが、こんな時に頼って家に転がり込めるほど遠慮のない仲でもなかった。


 自分の味方になってくれるような人間は存在しない。追い詰められて、初めて気づいた事実に愕然とした。人生の中で一番、己の社交性のなさを呪った時だった。


(イチかバチか、誰かに助けを求めてみれば良かったのかもしれない……友人が居なかったわけではないのに……)


 横たわった寝床の上。ぼんやりと閉ざされた障子を眺めながら、過去を思い返して悔いる。踏み込むのも踏み込まれるのも苦手な性分の、臆病な性格は自覚している。それでも、後の人生に何も望みがないのならば、思い切ってみる価値はあっただろう。


(今回は、多少なりとも努力出来た……その点に悔いはない……)


 その結果が死であっても。どうやら斗織の余命を察しているらしい駒場の、酷く辛そうな顔が脳裏をよぎる。やはりくすりと笑いが漏れた。今更、思いもよらない相手が斗織のことで心を痛めている。そんなにお人好しでは、国を背負う仕事の気苦労が絶えないだろう。


 遠く、板間の廊下を歩く音が聞こえる。斗織の床が敷かれた部屋は、四隅に幣が立てられ注連縄で結界されていた。元々斗織は理系の人間で、呪術の知識はさして深くない。宮中お抱え術師の秘呪など、少し見ただけではどんな類のものか全く分からないが、効果だけは確かなようだった。


 閉め切られた障子の向こうからは、だいぶ春めいてきた日差しが感じられる。遠い人の気配も、庭木で囀る小鳥の声も聞こえる。だが、何も「視え」ない。「結界」としか表現しようのない何かが、斗織を外界の刺激――集合的無意識から分断している。柔らかく温かい布に包まれたような感覚に、斗織は飽くことなく微睡んでいた。


 天井を見上げる視界の端で、点滴の袋が空になる。少ししたら、屋敷に詰めている医師がやって来るだろう。


 再び遠のきかけた意識を、襖の開く音が引き戻した。静かに畳を踏む足音がする方へ、斗織は顔を傾ける。やって来たのは医師ではない。相変わらず堅苦しい三つ揃え姿の駒場が枕元に座る。彼の目の前で倒れて以降、意識のある状態で顔を合わせるのは初めてだった。


「お目覚めでしたか」


 静かに駒場が声をかける。


「ええ。……あれから何日、経っていますか」


 意識は途切れ途切れで、日付の感覚はとうに狂っている。尋ねた声の弱々しさに、斗織は眉を顰めた。


「一週間少々。ご気分はいかがですか」


「悪くは、ないですね」


 実際、吐き気や頭痛、目眩など、眠る時すら常に付き纏っていた不快感はない。


「それは何よりです。先見の方は、一刻を争うような話ではありません。万全になるようご静養ください。――枕を失礼致します」


 斗織の枕をそっと引き抜き、駒場が枕カバーの間から何かを引き抜く。見れば、駒場が手にしているのは金封よりも一回りほど大きな封紙だ。封紙を傍らに置いた駒場は、懐から袱紗に包まれた同型の封紙を取り出すと、再び斗織の枕に差し込んだ。


「何ですか、それは」


「霊符でございます」


 流石は呪術の世界の住人だ。そんな感想が相手にも伝わったらしい。枕を戻すため斗織の頭を支えながら、駒場が「もっとも、」と言葉を続けた。


「私が書いたものではありません。私は占術しか習得しておりませんからな」


「なるほど、流石は宮内庁。それぞれに専門の術師がおいでですか」


 興味深い世界ではある。結界や霊符が、一体どんな理屈でどんな作用をしているのか、科学が説明することは出来ない。だがそれは、斗織の異能も同じことだ。説明は出来ないが確かに「在る」、そういう類のものなのだろう。


「……残念な話ですが。そう長々と寝ていても時間の無駄でしょう」


 両肘を突き、腹筋に力を込めて、起き上がろうとしながら斗織は言った。少し上体が浮いたところで、察した駒場が背中に腕を回して介添える。


「ご無理は――」


「するより他に、ありませんので」


 どうにか起き上がり、荒い息の下で斗織は言った。腕に刺さった点滴のチューブが揺れる。怪訝げに眉根を寄せた駒場を制し、息を整えて斗織は続けた。


「多少、静養して体力を戻したところで、削られた命数は戻りません。私の先見は、単に体力を削るだけのものではない……天命を削っているものだと思います。これほど消耗しているからには、全快はありえないでしょう。あまり長く寝ていても時間の無駄だ」


 斗織の言葉に、駒場がぐっと眉根を寄せる。驚かないところを見ると、やはりある程度推察していたのだろう。膝の上に握られた駒場の拳へと視線を落とし、斗織は言を継ぐ。


「ですから療養よりも、何とかして起き上がるための術なり薬なり用意して頂けますか。一時的なもので良い」


「……なぜ、そこまで」


「私なりの、矜持ですよ。あなたこそ、私の心配は業務範囲外でしょう」


 一度引き受けたことを、放擲するつもりはない。皮肉交じりに突き放し、斗織はさあ、と促した。


「宮内庁ご自慢の秘伝ならば他にもあるのでしょう?」


 険しかった駒場の顔が、ふっと緩む。笑みにも、脱力にも見えない不思議な表情に、斗織は内心「おや」と首を傾げた。病床の上、一人では満足に起き上がれもしない有様で、こんな風に突っ張る姿が滑稽に映ったのだろうか。


「かしこまりました」


 言って駒場が頭を下げたため、彼の何か達観したような表情は見えなくなる。


「そのような次第でございましたら、薬湯をご用意しましょう。一日でも早く先見のご用意を」


 見切りを付けられたということか。先ほどまでの、苦しげな感情が抜け落ちた声音だ。それを惜しむ権利は斗織にはない。「頼みます」と一言返すと、改めて一礼した駒場が立ち上がった。


 その背に、声を掛けようかと一瞬迷う。


(何故、そこまで心配してくれたのか……今更聞いても仕方のないことか)


 せめて、嬉しかったとだけ伝えられる機会があればいい。そう思いはするが、恐らく無理だろう。伝えたい言葉をいつ言えば良いのか、どう表現すれば良いのか迷っている間に、いつもタイミングを逃す。思ったその時に、ストレートに言葉に出来る者が羨ましかった。


 襖の向こうへ、スーツよりも「背広」と呼ぶ方が似合う背中が消える。


 身体を横たえて目を閉じる。遠く、まだ下手な鶯の鳴き声が聞こえた。


 起き上がれるようにさえなれば、先見の準備にそう時間はかからない。早くて五日、どれだけ遅くとも、あと十日のうちには最後の先見ができる。


「やはり……桜の花は見られそうもないか……」


 意地を張らずに、桜の開花まで待ってからと頼めば良かったかもしれない。そんなことも、今更思い付いたのでは遅かった。前言を撤回して、猶予を頼むような勇気が斗織にはない。


 臆病者なのは、相変わらずだ。


 溜息を吐いた斗織に、今度は医師が来訪を告げた。





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