花の下に死す 1



  1.



「東京はもう、梅も散りましたか」


 ようやく紅梅の蕾が綻ぶ庭を眺め、斗織は見慣れた客人に問うた。玉露のふくよかな香りを乗せて湯気がたゆたう向こう、応接テーブルを挟んで駒場が正座している。


「はい。まだ遅咲きの花は残っておりますが……こちらはようやく春ですな」


 斗織の視線を追うように窓の外を見遣り、駒場が眩しげに目を細めた。この男が初めて斗織の屋敷を訪れてから、ひと月が経つ。国家公務員という肩書きもあって頭の固い男に見えた駒場は、しかし印象とは裏腹に、挑発をことごとく受け流して斗織を交渉の席に着かせた。


 存外喰えない。斗織が駒場に抱いた感想だ。今とて斗織へ向き直った駒場の顔は、笑みのひとつもなく真面目そのものである。


 正面からじっと見詰めてくる、物言いたげな様子の駒場に、斗織は短く促した。


「――何か?」


 太い眉を寄せ、駒場が答えた。


「随分と、痩せられましたな」


「仕方がありません。精進潔斎しょうじんけっさいは必要ですからね」


 斗織は「先見」の際、ひと月あまり肉食を断ち毎日水行と瞑想を行う。伝統的な、神仏の力を借りるための行だった。当然、摂取する栄養が減るため体重は落ちる。


「正直に申し上げて、意外でございました」


 初対面以来、にこりともしたことのない仏頂面が重々しく言った。斗織は目元だけで先を促す。


「貴方のように、天性の能力をお持ちの方は煩雑な準備など要らぬものかと」


「もしそうならば、こんな山奥に籠っていたりしませんよ」


 どこまでも真顔で、揶揄ともとれる台詞をのたまうお役人に、いささか呆れた口調で斗織は返した。生まれ育った自宅のある東京を離れ、俗世との関わりを断っているのにも理由がある。


「身の回りに雑音が多いと『視え』辛くなります。例えば他人の話し声、望まずとも耳に入るニュースや噂、人の営みが立てる騒音……表層意識の水面を掻き乱し、曇らせるものから極力遠ざからなければ、『視る』ことは出来ない」


 理想的なのは、「究極に退屈な生活」――楽しみや刺激もなく、悩み煩うこともない、衣食住の全てが整えられ、外界の情報は入らない環境だ。


 橘領斗織という人間の輪郭すら曖昧に空想と現実の間を彷徨う時、宙を泳ぐ魚や山を滑り下りる大蛇は視える。さらに、普段気紛れに姿を現すそれらを己の意思で「視よう」とする場合、もっと深く心を澄ませ、無意識の奥へ奥へ潜る必要があった。種々の行はそのための手段だ。


 斗織が視るのは「未来」ではない。斗織に知り得るのは今この時、実際に起きている「事実」だけである。斗織のする「先見」は未来「予知」ではなく、膨大な量の情報を解析して行われる未来「予測」なのだ。


 人間には自覚出来る表層意識と、その下には遥かに大きく深い無意識がある。そして個々人の無意識の更に下層には、「集合的無意識」というものが存在する。集合的無意識は個人の枠を超え、地球上の存在すべてが根底の部分で共有する意識だ。


 この、集合的無意識――地球そのものの意識という「全知」のデータベースにアクセスし、地球上で「今、この時」起きているありとあらゆる現象を知ることが出来る、それが斗織の能力だった。地球意識にアクセスし取り出された情報は、無意識下で解釈されて斗織の表層意識に浮き上がって来る。大体の場合は幻視として、非常に抽象的な形で表現されるのだ。


「なるほど……そのようなご事情でしたか」


 先見の対価として「ハンバーガーを奢る」と約束したお役人は、眉ひとつ動かさず淡々と頷いた。何をどこまで分かっているのか読み取れない態度に、内心で軽く溜息を吐く。


 駒場から先見の依頼を受けた時、斗織は対価に「ファストフード店のハンバーガーを奢れ」と言った。それは自分をこの屋敷から――ひいては先見の能力者としての束縛から、解放して欲しいという意味だ。ファストフード店があるほどの街中で暮らし、ハンバーガーのような既成食品を食べることは、先見の能力を鈍らせる。現に、都内で一人暮らしをして大学に通っていた頃は、ほとんど視えなかった。


 交渉時の斗織の言葉を、額面通り受け取ったわけではあるまい。そこまで鈍くては、宮内庁の管理職は務まらないだろう。だが、今更こんなやりとりをしているようでは、斗織の願いを叶えることがすなわち、斗織に先見の能力を放棄させることだと理解していたのか疑いたくなる。後々になって「そんなことは知らなかった、それでは困る」と一方的に約束を破棄されたら面倒だ。


「そんなことも知らず、私の出した条件を飲んだのですか。今更契約の変更は受け付けませんよ」


 一応釘を刺しておく。だがいざとなれば、斗織の敵う相手ではない。国家権力を背後に持つ駒場に対して、斗織が持てる武器は己の身ひとつ。先見の能力と、虚勢とも言える態度や言動だけだ。


 本来であれば対等に渡り合うのは無謀な相手だが、だからこそ駆け引きの真似事をしてみる価値はある。旧華族の家筋で政財界に大きな発言力を持つ橘領家の支配から、斗織が一人で逃れるのは困難なのだ。


 こちらの気に入らないことがあれば、今すぐにでも追い返してやる。そんな態度を全面に出して駒場に強い視線を送る。対等でない関係を対等に見せるのは、骨の折れることだった。


 斗織の視線をこともなげに受け止めて、相変わらずの無表情で駒場が頷く。


「もちろんでございます」


 今度こそ漏れそうになる溜息を、斗織はやっとの思いで飲み込んだ。






 軽く雑談を挟んで、斗織は先見の結果へと話題を移した。


『たけのはなさく。なゐのかみふるへいで、あさまのかみひあめつちをおおふはじめなり』


 これが、駒場らの行う年占で出た託宣だ。今年、竹の花が咲く。竹の花は、大地の神が身震いし出でて、火山の炎が天地を覆う凶兆である。そんな意味合いだそうだ。駒場から斗織にもたらされた依頼は、この竹の花が指す凶兆を具体的に知りたい、というものだった。


 覚悟はしていたが、相当荷の重い「先見」になる。


 駒場との交渉成立後、依頼内容を聞いた斗織はそう思った。まず、どの程度先のことまで読まねばならないか判然としない。今年、地震や火山噴火が起こるという話ではないからだ。そして内容からして、地震と噴火の両方が起こる――読むべき現象は二つ以上あるということだ。


「――あなた方の受けた託宣にもある通り、まず地震が先でしょう。その後に噴火……地震の規模と噴火の規模は連動しています。震源と噴火する山も近いはずだ。問題は場所とスケールと時期……小さいものであれば近々に、大規模であれば、多少の時間的猶予はあります」


 言ってから、「小さい」の規模すらあやふやなのだと内心自嘲する。近くのものは大きく視える。遠く――遠い未来のものは小さく視える。幻視で先見を行う斗織には、そうとしか表現できないのだ。大小、遠近のスケールも実測出来るものではない。


「より近く、より小さいものであるほど場所が重要となる。そうですね?」


 口調に多少の皮肉を混ぜ込んで、斗織は駒場に確認した。堪えた様子のない無表情が頷く。宮内庁が守りたいのは「国」だ。それも、民主主義国家としての日本でもなければ、国民一人一人の生活でもない。千年以上の間維持されて来た「天皇を頂点とする国」である。つまり、国家中枢が集まり皇居のある東京と、御所のある京都が災害を免れるならば彼らはそれでよいだろう。無論、災害の規模があまりに大きければそうも言ってはいられまいが。


「場所は――南です。私の居る、この場所よりも太陽に近い側の地下を『なゐのかみ』……大きな龍が這っている。龍の身じろぎが大地を揺らす……地震は一度ではないはずです。連続して……西から南東へ。断続的にひび割れが走る。直下型になるものも、津波を起こすものも起きるでしょうね。間隔はあまり空かないはずです。到達する先に、出口がある。そこから龍は天へ昇る。雷鳴が轟き雲が空を覆い尽くす……ですが全体として、あまり激しいイメージは湧いてきません。それよりも……深々と冷たい。龍が天に昇った後の、寒々しく不毛な感覚が強く残りました。まるで冬のような……そうですね、花を咲かせた後の竹が、一斉に茶色い葉を落として枯れることと重なります」


 軽く目を伏せ、斗織は視えたイメージを伝えた。潔斎と瞑想の中で「視えた」ものを書き留めた、手元の紙片に視線を落とす。伝え洩らしがないことを確認して顔を上げると、酷く険しい顔をした駒場が押し黙っていた。深刻げな表情を、しばし斗織は観察する。


「……なるほど。ありがとうございます」


 それだけ言って再び黙り込んだ駒場は、おそらく実際に「視た」斗織よりも事の重大性を理解しているのだろう。


 往々にしてあることだった。斗織は、自身が「視る」ものについて詳しい必要はない。むしろ下手に関心のある事柄、詳しい事柄だと、表層意識がバイアスをかけて正確な先見が出来ない場合もある。それもあって、斗織はテレビや新聞、インターネットなど、情報に触れる機会は与えられていない。書籍ですら、読めるものは限られていた。


「どう読むかはあなた方次第だ。解釈間違いの責任は取りません」


 突き放すような言葉をかけて、斗織はそれでは、と姿勢を正す。――拍子に、下腹部に鈍痛が走った。極力表情を変えないよう、息を詰めて耐える。痛みが落ち着いてから、震えないよう慎重に声を紡いだ。


「私に視えたものは以上です。更に知りたいことがおありなら、具体的におっしゃってください。あまり長くは待ちませんよ」


 先見の依頼は、春分までしか受け付けないと言ってある。あと半月あまりでその期限だ。


「承知致しました。次もお願いしてから、ひと月待つことになりますか」


 黙然と目を伏せていた駒場が、重々しく確認した。


「いえ、もう潔斎は済んでいますからね。十日も必要ないでしょう。内容次第、ではありますが」


 膨大な集合的無意識のデータベースから、必要な情報を取り出すのにはかなりの労力を要する。そして全てのデータを解析できたとしても、「判らないこと」は存在する。観察者効果が働いてしまう人間の行動がそうであるし、自然現象すらも果てしなく先まで読めるものではない。古典物理学の世界に棲んでいたという、ラプラスの悪魔はもういない。


「それでは……次の内容につきましては、日を改めてまたご連絡致します」


 言って深々と座礼し、立ち上がる駒場の意識は既にここにない。東京に帰ってからの手筈に思案を巡らせているのだろう。今度は肺腑の奥を侵す疼きに耐えながら、斗織は視線の合わぬ相手を見送った。



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