年末年始の物語

第13話:-年末年始の物語-【01】

 十二月三十一日 午前七時三分

 エトナの自宅


「……二月の特大号で掲載する増刷分の二十ページ、確かに受け取りました。納品とさせて頂きます」

「あ”ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”……ほ、本当ですか……私は救われるのですか……! 慈悲はあるのですか……!」


 寝不足で私のマンガ担当をしている山梨さんの姿が、既に幻覚で居るのか居ないのかおぼつかない判断力にまで低下している。

 そこにいるのは山梨さんか、それとも鬼か。

 ふらつく身体で人のいる先へと視線を送る。


「はい、私にも人を許す心はあります。先生は頑張りましたよ」

「うぅぅぅぅぅ……! 年末はインフルエンザで二週間苦しんだ末に、復帰と同時に更なる絶望で苦しむ十二月だったよぉ……」

「正直、私も危機感を感じていました……が、納期を守らないと、私も先生も死ぬ以外の選択肢はありませんでしたので、泣く泣く心を鬼にするしかありませんでした」


 そうか。人であり、鬼である人だからこそ、私の瞳に映し出される姿には、鬼という描写がほんの少しだけ混じっていたのか。


「……先生、何か悪いことを考えていませんでしたか?」

「……えっ、いいいいいいや……! な、何もっ!」

「そうですか」


 相変わらず、私のことを全て理解したかのごとく、心の中を呼んでくる人だ。

 迂闊うかつに妄想で悪口も言えない。


「ともかく、こんな時期まで本当にお疲れ様でした。せめて、年末年始くらいはゆっくりと休んでくださいね」

「あ、はい。ありがとうございます」


 机の上にある電子時計の日付に目をやると、そこには十二月三十一日という数字が映し出されている。

 仕事で忙しすぎて、月日のことなど全く眼中になかったけれど、もう今年が終わってしまうんだなぁ。


「私も、流石に子供がいるのに仕事ばかりでは家庭に申し訳ないので、先生の原稿を会社に持ち帰ったら、自宅へ帰ることにします」

「それが良いと思います。早く帰ってあげてください」


 山梨さんは、私に対してツンデレマックスな性格で、基本毒針を背中から刺すタイプではあるけれども、インフルエンザのときには病院に付き添ってくれたり、料理を振る舞ってくれたりしてくれた。

 体調復帰後は、クリスマスの日にもわざわざ私のところへ来てくれて、アイデアが詰まった際に、内容が固まるまで徹夜に付き合ってくれた。


 家庭があるのに色々と助けてくれる上に、不満一つ言わずに私を助けてくれるという点、やはり山梨さんは本質的には良い人なのだろう。

 ツンデレだけど。


「確か、今夜は先生の妹さんがこちらの方へ来られるんですよね」

「ああ、はい。昨日ようやく仕事が終わったらしいので」

「年末ぎりぎりまで忙しいというのは、あまり嬉しいものではありませんね」

「まあ、本人は楽しんでいるようですので……」

「それでは、私はここで……」

「山梨さん、ぎりぎりまでありがとうございます。お疲れ様でした」


 山梨さんは、普段見せない疲れた表情を一瞬だけ浮かべながら、私の作成した原稿をカバンに詰めて、そそくさと私の仕事場を後にする。

 さすがに、四十八時間連続ワーキングは体に応えたのだろうか、ふらつく様子が見て分かる。

 扉が閉じ、私が一人になったことを確認する。


「あ”あ”あ”あ”あ”……死ぬかと思ったぁ……!」


 死ぬかと思った。

 本当に何度その言葉を心の中で悟っただろう。

 両手を伸ばし、背中を大きく仰け反らせながら、滞っていた血流を循環させる。


 今までも、仕事が忙しい時期なんて日常茶飯事で訪れていたけれども、流石に今回は今年一年の中で二位との差を大きく付けてヤバイ感じだった。

 タフな精神を持ち合わせていなければ、多分逃げ出していただろう。


 ……いや、本当は逃げ出したかったのだけれども、山梨さんという看守がいたせいで、逃げるという選択肢が完全に消え失せてしまったというのが実際のところだろう。

 悪いことをしているわけではないけれど、さすがに精神的な面でも疲弊したのは否定できない。


 しかし、山梨さんがいなければ、今年中に原稿を納品することはできなかった。

 本当に良い人が担当になったものだ。


「はぁ……本当に疲れた。とりあえず、お風呂に入りたい」


 この三日間、私はトイレ以外はひたすら机の前に座って手を動かしていた。

 食事は栄養ゼリー、ドリンクはエナジードリンク、肩と腰に湿布を貼り付け、おでこに冷える湿布をつけてデスマーチを過ごしていた。


 その為、極限まで席を立つ必要性を排除してもらえたのと同時に、ここ数日の食生活のフィードバックが体臭となって現れ、身体から異臭を放っているのだ。

 気になる部位に鼻をあてて嗅いで見ると、濃い独特の香りが漂っているのが自分でも分かる。


 一言で言うと、臭いのだ。

 部屋の中も、全く換気していないせいで、住居者独特のこもった香りが漂っている。


 私はお風呂は好きとも嫌いとも判断しがたい性格だが、身体が汚い状態であることを好んではいない。

 面倒だけれども、定期的に身体はさっぱりさせておきたい。

 デスマの終了と同時に、私は一時的に自由の身となったのだ。


 今、座っている椅子から立ち上がっても良いし、このままベッドインをしても良い。

 何処かに食事を調達しても良いし、遊びに……は、流石にキツイ。


 だがひとまず、部屋の空気を循環させて、お風呂に入ろう。

 私も一応女性だから、清潔感というのを大事にしたい。


 椅子から立ち、ふらつく足を踏ん張らせながら、お風呂の方へと向かう。

 このオイルがギッシュギッシュしてしまった身体を、ソープの香りで染めてやろう。


 ………

 ……

 …

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